解呪の代償
盥を受け取ってから30分後。僕は久しぶりに聖域「ヴァンド森の屋敷」へと戻ってきていた。
転移陣を一から描くのは骨が折れたが、こちらに戻ってこないと確実に話が進まない。
そして屋敷の方に駆けていくと、ちょうど裏手の畑から戻ってきたエクトルと鉢合わせた。
「エリク様!? おかえりなさい、もう課題は終わったのですか?」
「ううん、まだもう少しあるんだけど……緊急事態なんだ。リュシールはいる?」
「いますよ、呼んできますね! リュシール様ー! エリク様がお戻りですー!」
手に持った鍬をその場に放り出して、泥も落とさずに屋敷の中に駆け込んでいくエクトルの背中を、僕は苦笑しながら見送った。
やがて1分もしないうちにバタバタと、屋敷の入り口からリュシールが飛び出してくる。
「エリク様! わざわざ転移陣まで設置していただいて……それで、緊急事態とは」
「実は、サバイバル課題中に日輪狼と月輪狼が山に来て……」
僕はリュシールに事のあらましを説明した。
ミオレーツ山に日輪狼と月輪狼が侵入したこと、月輪狼が『夜闇の呪い』に蝕まれて命が危ないこと、日輪狼にその呪いの解呪を依頼されたこと。
一通りの話を聞いたリュシールは、「うーむ」と低い声で唸った。
「なるほど……『夜闇の呪い』とは、また殊更に厄介な問題が持ち込まれましたね。
これは確かに、エリク様一人で対処するには荷が勝ちすぎます。私とルドウィグは無論ですが、アグネスカ様の助力も必要でしょう」
「アグネスカも?」
ごく自然に出されたアグネスカの名前に、僕は小さく首を傾げた。
聖域の守護者として長く活動してきたルドウィグとリュシールは分かるが、アグネスカがどのように助けになるのだろう。
いまいち得心の行っていない僕に、リュシールがピッと指を一本立ててみせた。
「自然神の巫女たるアグネスカ様は、自然神の力を何倍にも増幅させることが出来ます。
エリク様を力の核として、その力をアグネスカ様が強め、私とルドウィグでサポートする。このような体制で臨まないと、かの呪いを剥がすことは出来ないでしょう」
指を二本、三本、四本と一本ずつ伸ばしていきながら説明するリュシールの言葉に、ようやく僕も納得がいった。
僕が車のエンジンだとしたらアグネスカはブースター、ルドウィグとリュシールがハンドルと言ったところだろう。
頷きを返した僕に、リュシールが五本目の指を立てつつ言った。
「それと……もう一つ、非常に大事な工程があります。
エリク様、『夜闇の呪い』の根本的な解呪方法について、どなたかから説明は受けておりますか?」
「えっ、あぁ……ミオレーツ山の西の王様から教えてもらった。神の力で身体から呪いを剥がして、浄化する、だよな?」
そう、トランクィロから詳細に教えてもらった、あの手順である。つい先程教えてもらったばかりなので、ほぼほぼそのまま思い出すことが出来た。
大きく頷いたリュシールが、指を立てた手を胸の下で組みつつ目を細める。
「その通りです。かの山には呪術の専門家の方がいたのですね、幸運なお話です。
呪いを剥がした後の浄化の工程ですが、これは呪いを清浄な肉体に無力化して移し替え、神の力に晒し続けることで為されます。
清浄な肉体とは、すなわち神の器。つまり使徒たるエリク様自身の肉体に、移し替える形となります」
「え……」
さらりと言ってのけたリュシールの発言に、僕は目を見開いたまま立ち尽くした。
僕の身体に、呪いを移し替える?あの『夜闇の呪い』を?
恐怖に小さく震えだした僕の身体を、身を屈めたリュシールがぎゅっと抱きすくめた。
「大丈夫ですエリク様、エリク様の身を危険に晒すようなことは致しません。その為に私だけでなく、ルドウィグにも、アグネスカ様にもついてきてもらうのです。
加えてかの山にいらっしゃる呪術の専門家の力も借りられれば、エリク様に呪いの効果が及ぶ事態は避けられることでしょう……移し替えた際に、別の問題が発生するかもしれませんが」
「別の問題?」
「呪いを剥がす際に、呪われた者の器が一緒に剥がされてしまうことがあるのじゃよ」
僕の耳の傍で優しく話しかけるリュシールの最後の言葉に、含みがあるように思えて問い返した僕の耳に、ちょっとだけ懐かしい老人らしい声が聞こえてきた。
声の方に視線を向けると、いつもの庭師スタイルのルドウィグが、アグネスカと共に僕の方へと近づいてくる。
リュシールにぎゅっと抱きしめられたままで、僕は目を数度瞬かせて口を開いた。
「ルドウィグ……どういうことだ?」
「神による呪いは肉体や魂に強く根を張る。神の力を以て剥がしたとしても、根が強く張っていれば綺麗に剥がれないこともあるのじゃ。
そして浄化に際して呪いを移し替えた時に、その器と融合し変容させる……
つまり、エリク殿が月輪狼となる可能性があるわけじゃな」
「そんな……僕が、月輪狼に、なる……?」
ルドウィグから告げられた言葉の内容に、僕の身体は再び震えだした。
月輪狼になる。
今までの動物や魔物との融合に伴い、人間でなくなることは何度もあったが、今回のそれは呪いに伴う融合だ。理屈が違う。
もしかしたら他の動物や魔物のそれと異なり、自在に変身が出来ないかもしれない。ともすれば「僕」の存在そのものが変化してしまうかもしれない。
そんな、恐れ戦く僕の頭を、近づいてきたアグネスカが優しく撫でた。
「大丈夫ですよエリク、エリクがどんな姿になっても、エリクはエリクです。私達は接し方を変えたりしません」
「アグネスカ……そうか、そうだよな。ありがとう」
「私も……巫女として、初めてのお仕事です。エリクの力になれるよう、頑張ります」
僕の頭の上に手を置いたままで、アグネスカがもう片方の手をぐっと握りしめた。
そうだ、アグネスカも巫女としての初仕事、責任と戦っているのだ。僕一人だけが怖いのではないのだ。
僕は二度三度深呼吸をして、改めて自分の仕事を全うするべく、心持ちを新たにするのだった。
三人を伴って、転移陣を使ってミオレーツ山に戻ると、トランクィロもヴィルジールもアルノー先生も、それに日輪狼も洞窟の外へと出てきていた。
「王様方、アルノー先生、それに日輪狼。戻りました」
「ようやく戻ったか、小僧」
「おお、来たか。守護者の方々も、ご足労感謝します」
僕が先生たちに声をかけると、真っ先に反応したのは日輪狼だった。その大きな体躯で僕を見下ろし、フンと鼻を鳴らす。
ルドウィグとリュシールににこやかに応対するアルノー先生に、ルドウィグも表情を緩めて頭を下げた。
ちなみにアグネスカは転移した直後から、日輪狼の巨大さに圧倒されて呆然と立ち尽くしたまま、イヴァノエとアリーチオに突かれていた。
「なに、こちらこそすぐに駆け付けられる環境を作ってくださり、感謝しますぞ、先生」
「今回の解呪神術『地母神の右手』は、使徒たるエリク様を核とし、私とルドウィグの守護者二名、及び巫女たるアグネスカ様の四人で当たらせていただきます。
それで、呪術についてお詳しい方というのは……」
「ん、俺か?」
ルドウィグと共に頭を下げたリュシールが、素早く視線を周囲に巡らせる。
その視線と話の内容から、自分が呼ばれているのかと気付いたトランクィロが一歩前に進み出た。
「貴方が西の王、呪術の専門家でございますね。
今回の解呪にあたり、無力化した厄呪をエリク様の身体に移し替えて浄化を行います。無力化するとはいえ、再活性化した際の備えを怠るわけにはまいりません。
それに、『地母神の右手』の行使の際、呪われた者の器が呪いと共に剥がれ、エリク様に混ざりこむ可能性もあります。
その為、護りの呪いをエリク様に施していただきたいのです。準備をお願いできますか?」
「なるほど、そういうことならお安い御用だ。エリクは俺の息子も同然、喜んで施させてもらおう。
エリクを月輪狼に変えちまうわけにはいかねぇもんな」
リュシールの言葉を受けて、トランクィロは頷きながら自分の胸に拳を置いた。
その様子を見るに、施す呪いには自信があるらしい。それを見て僕は短く息を吐いた。
そんな僕の後ろから不満そうに息を吐いて、日輪狼が顔を突っ込んでくる。
「なんだ小僧、おのれが新たな月輪狼となった暁には、我が傍について慈しんでやってもよいのだぞ。
神の現身で在りながら神獣でも在れる、良いことづくめではないか」
「日輪狼が傍にいてくれるのは嬉しいですけれど、僕はまだ人間を辞めたくありません」
「解呪は今夜、14の刻から始めましょう。皆様、準備にご協力をいただければと思います」
音頭を取るリュシールの言葉に、その場の全員が頷いた。
かくして月輪狼を呪いから救うため、人間、動物、魔物、神獣、その全員が一丸となって動き出した。





