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悲しみの雨

 その日は、朝から非常に強い雨が降っていた。

 どんよりとした空からざあざあと降り続く雨が、草を、森を、山を濡らしてゆく。

 こうして降り注いだ雨水が山の地面に浸み込んで、濾過されて澄んだ水になり、山中の泉から湧き出すわけで、僕もその恩恵には大きく与っていた。

 イヴァノエは今日も朝から狩りに出かけている。しかしこの雨だ。獣の草を踏む音も、身体の匂いも、雨によってかき消されてしまう。晴れの日のように簡単にはいかないだろう。

 それならアリーチオを連れて行けばいいのに、イヴァノエは「却って邪魔だ」とさっさと出かけてしまった。なので、僕は洞窟の中でアリーチオとウサギ(ラパン)達と留守番である。


『こう雨が降ると、毛がぺっとりするし鼻も効かなくなるしで、いやんなっちゃうっすね』

「うん。鬱陶しいよね」


 人間姿の僕の隣で古毛布の上に胡坐をかきながら、鹿肉のジャーキーを頬張るアリーチオが口を動かしながらスンと鼻を鳴らした。

 雨の日はアリーチオの言うとおり、被毛が湿り気を帯びて鬱陶しい。だから基本的に、雨の日は人間のままで過ごしている僕だ。


 イヴァノエやアリーチオが仕留めてくる獣の肉は、三分の一くらいの量を切り分けて薄切りにし、軽く塩を振って燻しながら乾燥させることでジャーキーに加工して保存していた。

 鹿(セーフ)も、(オース)も、ウサギ(ラパン)も、うまい具合に乾燥されて凝縮された旨味を出してくれている。

 徹底して生肉派なイヴァノエが頻繁に狩りに出ては獣を仕留めてくるおかげで、今のところ食料に困る状況にはなっていない。


 洞窟には生肉、ジャーキー、採取した果実類が、洞窟奥の細く入り組んだエリアに貯蔵されている。風魔法で空気を定期的に入れ替えつつ浄化しているため、腐る心配もない。

 この調子なら課外実習の終了まで余裕で生き延びられるだろう、と僕は見ていた。


『エリク兄ー、僕もそれ食べたーい』


 僕が熊肉のジャーキーをかじっていると、朝ご飯に用意した果実類の山から離れたレーモが僕の傍までやってきた。

 ジャーキーが木の皮に見えたのかもしれない。しかしこれは立派な獣肉である。ウサギ(ラパン)には食べられない。


「ごめんねレーモ、これはお肉だからレーモには食べられないんだ」

『んっ、レーモもジャーキー食いたいっすか? ダメっすよー、こいつは俺達肉食獣(カルニーヴォラ)だけが味わえるもんっすからねー』

『ぷーっ、つまんなーい!』


 謝りながらそっと頭を撫でる僕と、ドヤ顔をしながらジャーキーを見せつけるアリーチオの言葉に、レーモは頬を膨れさせた。

 アリーチオの言葉はレーモには通じていないはずだが、自慢げなニュアンスは伝わったのだろう。なんとも不機嫌そうに地団駄を踏んでいる。

 諦めて果実の山の方に戻ってくれたらよかったのだが、レーモが足を向けたのは反対側、洞窟の外の方だ。


『いいもんっ、お外で草を食べてくるもんっ!』

「あっ、レーモ!?」

『外は雨っすよ! 濡れるっすよ!』


 僕とアリーチオが止めても、レーモはその足を止めない。そして洞窟の外に出て、右へと身体を向けた瞬間。


『ぎゃっ!?』


 一際大きく上がる、レーモの短い悲鳴。それと共に洞窟の入り口前からその姿が見えなくなった。

 すぐさま立ち上がる僕とアリーチオ。手に持ったジャーキーを地面に放り投げて走り出すアリーチオに対し、僕は洞窟奥のウサギ(ラパン)達、ピーノ、カスト、ボーナに鋭い声を飛ばした。


「皆は貯蔵庫に隠れてて!!」

『『ぴゃいっ!?』』


 突然の事態に飛び上がって驚く三匹だが、間を置かずして洞窟奥へと一目散に逃げていく。それを視界の端に収めながら洞窟の外に向けて駆け出した。

 同時に、片眼を閉じて念じる。


「(生命よ我が声に応えよ(アニマルエコー)!)」


 瞼の裏に浮かび上がる反応。視界の先にある一つはアリーチオ、後方の三つはピーノ、カスト、ボーナ。ではアリーチオの周辺、洞窟の入り口を(・・・・・・・)取り囲むように(・・・・・・・)居る六つの反応は(・・・・・・・・)

 思案する間にも洞窟の入り口はぐんぐん近づき、入り口を守るように立つアリーチオの背中が大きくなる。

 そして洞窟の外へと飛び出し、アリーチオの傍に立った僕は、反応の正体をその目に見た。


(ループ)?」


 そう、僕達がいる洞窟を包囲していたのは、六匹の(ループ)だった。

 一匹を除いて体格こそ小柄なものの、その肢は引き締まっており、牙は鋭さを持っている。いずれも、目をギラギラとさせて敵対姿勢を隠そうともしていない。

 そして僕から見て右手の一匹の口に、ぐったりと力なく項垂れるレーモの姿があった。


「レーモ!!」

『ダメっすエリクさん!!』


 (ループ)の口からレーモを助け出さんと飛び出そうとした僕を、アリーチオの腕が抱きかかえて止めた。被毛の薄い細腕だと思っていたが、こうして抱きかかえられるとなかなかに力強さのある腕だ。毛もごわごわしている。

 その様を見て、僕達の真正面に立つ他より一回り大柄な黒い(ループ)が、フンと鼻を鳴らした。


『臆病者のアリーチオ、我等が()を裏切りイタチ(ドンノラ)共に与するだけでは飽き足らず、人間(ウマーノ)風情と馴れ合うまでに落ちぶれたか』


 (ループ)の発した言葉を受けて、僕を抱く腕に力が籠もった。ぎゅっと抱き締められたことに驚いてアリーチオの顔を見上げると、瞳孔が小さく縮んで震えている。その表情には迸る怒りが見て取れた。


『アルフォンソ! 臆病者の誹りは甘んじて受けるが、カーン神の使徒様に向かってその物言い、さすがの俺としても捨て置けないぞ!』

『何……? まさか、貴様の腕に抱くその子供(・・・・)が、使徒だと宣うか!?』


 アルフォンソと呼ばれた(ループ)の目が驚愕に見開かれる。同時にその場の(ループ)全員が動きを止めた。

 今がチャンスだ。僕は肩に回されたアリーチオの腕を一気にしゃがんで抜け出すと、アリーチオの目の前に仁王立ちする。右手で自分の胸をドンと叩いて、大きく口を開いた。


(ループ)の皆、確かにカーン様の使徒は僕です! 僕はここに居ます!

 僕は1ヶ月(1メス)の間しかここに居ない部外者ですけれど、この山の皆と出来るだけ仲良くしたいなと思っています!

 皆も生きていくため、棲み処を守るため、仕方なく、だと思いますけれど、ここは退いてもらえないでしょうか!」


 僕の決死の言葉に、(ループ)達は動かない。アリーチオも動けない。

 冷や汗が一筋二筋、頬を伝ってポタリと地面に垂れるのを感じた。沈黙に支配された、長いようで僅かな時間の後、アルフォンソがくるりとこちらに背を向けた。


『使徒様の勇壮に免じて、この場は退こう。

 だが忘れるなアリーチオよ。我等の()はこの山の平定を望んでおられる。近日中に、必ずや決着を付けんと主等の主に伝えよ』


 そう言い残して、アルフォンスは森の中へ、東へ(・・)と姿を消した。彼の後ろについて、残りの(ループ)達も森の中へと入っていく。

 そして最後の一匹、レーモを口にくわえたままの者も、そのまま森の方へと足を向けた。その背中に、僕の胸に言いようのない感情がこみ上げる。思わずその(ループ)の前に飛び出した。


『使徒様、恐れながら道をお開けください』

「あの! 今、あなたがくわえているレーモ……ウサギ(ラパン)は、その、友達なんです!

 なんとか、ここに残していっては、もらえない、でしょう、か……?」


 僕の決心が急速にしぼんでいくのが、僕の声が尻すぼみになっていくのが、否が応にも分かった。

 雨に打たれているからでもない、目の前の(ループ)が恐ろしいからでもない。僕は彼、あるいは彼女を目の前にして、ようやく気が付いてしまったのだ。

 レーモは狩られたのだ(・・・・・・)という、その残酷な現実に。


 僕の内心を見透かしてか、それとも僕を憐れんでか。(ループ)は口にくわえたレーモの身体を地面に降ろした。ピクリとも動かない、熱を持たないレーモの小さな尻尾を牙で挟むと、ガチリと噛み切る。

 身体から切り離された尻尾を、(ループ)はそっと、僕の手のひらに乗せた。ふわりとした柔らかな感触と、噛み切られたところから覗く細い骨が、何とも頼りなさげで、しかし重みがある。


『使徒様の友達を食らってしまって申し訳なく思いますが、我々も肉が無くては生きていけない身。平にご容赦願います。

 彼の尻尾は証として、使徒様のお好きになるといいでしょう。では、失礼いたします』


 手渡されたレーモの尻尾を見つめる僕を尻目に、レーモの身体をくわえなおした(ループ)は森の中へと消えていった。

 (ループ)達のいなくなった洞窟前の広場は、いやに静かだ。雨の葉を打つ音だけが聞こえている。

 僕の服はいつのまにか雨に濡れて、全身がびしょびしょになってしまっていた。服が身体に張り付いて気持ちが悪い。でも、身体がどうしても動かない。


 ぱしゃりと水音を立てて、僕の両膝が頽れて草の中に沈んだ。掌の中の尻尾をぎゅっと、雨水が滴るほどにぎゅっと握りしめて、胸に抱いた僕の瞳から、涙がはらはらと零れ落ちる。

 いつの間にか僕の背後まで来ていたアリーチオが、そっと僕の両肩を、今度は包み込むように優しく抱き締めた。

 同じように全身びしょ濡れになりながら、そっと僕の耳元で優しく、どこまでも優しく囁いた。


『いいんっすよエリクさん……今泣いたって、誰も責めたりしないっすから……』

「……っ、うぐ……う、あ、あぁぁ、あぁぁぁぁぁああぁ……!!」


 アリーチオに抱かれたまま、僕は泣いた。わんわん泣いた。雨の中、山にこだまするほどの泣き声で泣きじゃくった。

 生まれて初めて経験した、親しい友の死。

 自然の摂理に従った、あまりにも自然であまりにも呆気ない、被食動物の死。

 山の中で、自然の中で日常的に行われている命のやり取りの、その残酷な一端を、僕はこの日、嫌と言うほど実感させられたのであった。


 そして泣きじゃくる僕と、抱きしめたまま優しく何度も頭を撫でてくれるアリーチオを、眺める影が二つ。

 小高い木の上から広場を見下ろす影は、その漆黒の瞳をそっと伏せて。

 崖の上から二人を見下ろす影は、ふぅっと長い息を吐き出すのだった。


『……畜生め』


 今しがた狩りから帰還したイヴァノエの呟きが、雨音に混じって地面に溶けていった。




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