獣の恩恵
イヴァノエを追って森の木々の間を進み行くこと10分。イヴァノエが足を止めた。顔をくいっと持ち上げて周囲の様子を伺っている。
「イヴァノエ? どうし……」
『シッ、静かに。んでもってしゃがめ、使徒サマ』
突然の行動に疑問を呈する僕だが、言い切る前にイヴァノエが僕の言葉を制した。同時に尻尾を地面に低くつける。
謂われるがままにそっと僕もしゃがみ込んだ。太ももが太いせいで少し窮屈だが、何とか音を立てないよう態勢を保つ。
後ろを振り返ったイヴァノエが僕の姿勢が低くなったことを確認すると、すぅっと目を細めた。
『よし……できればその長い耳も立てずに低くしておけよ、畜生め。
この先、大体75メートルくらい先、鹿が三頭いる。見えるか?』
イヴァノエが視線を向けていた方、僕の前方に目を凝らすと、確かに何か茶色い毛皮を持つ動物がいるのが見えた。
鹿とハッキリ判別できるわけではないが……イヴァノエがどれほど優れた視力を持っているのだろう。ともあれ、何かがいるのは確認できた。僕は小さく頷いた。
『見えたな? 今からあいつらを狩る。俺が出るから、使徒サマはここで見てろよ。
一頭狩れればそれでいい、あいつらは逃げ足が速いからな。殺ったらこっち来てくれ』
そう言うや、イヴァノエはその巨体でどうやって、と思わせるほどの身軽さでするすると、手近な木の上に登っていった。
あまりにスムーズな木登りに呆気に取られる僕だったが、地球でも豹がその体格では想像もつかない身軽さで木に登ることは知っていたし、そういうものなんだろう。
そう自分を納得させて、僕は正面の鹿達をじっと見据えた。
ここからの距離で見える大きさからするとヘラジカほどではない。アカシカくらいの大きさに見える。
一頭は角が見えるのでオス、他の二頭がメスのようだ。子供の姿は無い……僕の目には見えないだけかもしれないが。
イヴァノエが接近していることにはまだ気が付いていないようで、のんびりと草を食んでいる。そこだけ風景を切り取れば、なんとものどかな光景だ。
上方向に視線を移すと、ちょうどイヴァノエが9メートルほど木を登り、横に伸びる枝に足をかけるところだった。その枝はイヴァノエの身体の大きさに比してなんとも頼りなく、今にも折れてしまいそうだ。
だがイヴァノエが足を踏み出しても枝は折れることなく、その体重を支えつつぐっと下へとしなる。そして次の瞬間には。
ザッ、という音と共にイヴァノエの姿が枝の上から消える。どこへ行ったのかと視線を巡らせると、先程まで居た木から12メートルほど離れたところの木の上にいた。
あの巨体で、ただの一度の跳躍で、12メートルもの距離を移動するなど、尋常ではない。驚いている間もなく、イヴァノエが再び跳躍した。
度重なる木の葉の揺れる音に、鹿達もなにかを察知したらしい。頭を上げて辺りの様子を伺っている。
もう僕が居るところからだと、木の葉と枝が邪魔をしてイヴァノエの姿を認めることは出来ない。
今、イヴァノエは獲物までどのくらいの距離にいるだろうか。目を凝らしたところで、俄かに視界内の鹿達が慌て始めた。そして響く、昨夜に洞窟前で響いたのと同じ、立て続けのけたたましい木の葉の揺れる音。
イヴァノエが高速で飛び回ると、まるで周囲360度の木々が一斉に揺れているかのように激しい音が響く。あの音は獲物の聴覚を混乱させるのに加えて、獲物をパニックに陥らせる目的も大きいようだ。
あの時僕はスキルのお陰で冷静でいられたが、捕食者の位置を捕捉出来ないものが標的だったとしたら、その混乱は凄まじいものだろう。イヴァノエがあれだけ自信満々になるのも頷けるところだ。
逃げたくても逃げられず、ぐるぐるとその場を回っていた鹿達の混乱がピークに達し、逃げたくてもどこに逃げれば逃げられるのかを判断できずに足を止めた瞬間。
『オラァッ!!』
一番大きな、オスの鹿の背後から飛び出したイヴァノエの牙が、その首筋を正確に捉えた。牙が突き立てられた首から鮮血が噴き出す。
同時に頸椎と延髄も噛み砕かれたのであろう。どうっと倒れ伏した鹿はピクリとも動かない。
一瞬のうちにオスを仕留められた二頭のメスは、突然現れたイヴァノエの姿を認めて一目散に、バラバラの方角へと逃げていった。
そのうち一頭が僕のいる方向に逃げてきたが、僕と鉢合わせすることはなく、そのまま脇目も振らずに駆け抜けていく。僕としても無闇に殺すつもりはないし、そのまま追わずに放置した。
鹿が逃げていったのを確認した僕は、ゆっくりと立ち上がると仕留めた鹿の傍に居るイヴァノエの元へと歩いて行った。ずっとしゃがんでいたせいか、少し足が痺れてしまったのはここだけの話だ。
足元を確かめながらイヴァノエの傍まで行くと、彼は鹿の首の後ろ部分の肉を噛んでは毟っていた。そのまま鮮血の滴る肉を咀嚼し、味わっては飲み込んでいく。
あんまり美味しそうに食事をするものだから、僕の腹の虫が空腹を主張し始めた。ウサギと融合したこの身体、生肉は受け付けないだろうと思うのだが、空腹は空腹だ。
僕の腹の鳴る音を聞きつけたか、イヴァノエが食事を中断してこちらを見る。口の周りは血で染まって真っ赤だ。
『使徒サマも腹が減ってるんだろ、食えよ。ウサギの身体のままじゃ食えないだろうから、人間に戻ってからな』
そうしてイヴァノエは口の端を吊り上げた。それに対して肩をすくめ、苦笑する僕だ。
確かに、目の前の大きなご馳走を前にして、見ているだけというのも勿体ない。僕はナイフを抜いて鹿の首の肉を削ぎ取る。皮を剥ぐと、赤身の強い綺麗な肉が姿を見せた。
だが、鹿肉は生で食べると病気を引き起こす可能性があるため、日本では生食が禁じられている肉だったはずだ。狼になれば生肉の消化は出来るだろうが、病気の危険性は付き纏うだろう。
僕はウサギの獣人から人間の姿に戻ると、付近の木々の周りに落ちた枝と葉を拾い始めた。
何を始めるのかとキョトンとした顔をしているイヴァノエをよそに、僕は枝と葉を一ヶ所に集める。そしてその集めた枝葉に指を向けて、一言。
「火よ熾れ!」
僕が呪文を唱えると、集めた枝葉の山から煙が立ち始めた。程なくしてパチパチと木がはじける音と共に、炎が上がり始める。
突然の炎に驚いたのか、イヴァノエが後ずさった。
『のわっ……! 使徒サマ、なんだってこんなところで火を』
「鹿肉は生のままで食べると病気になるんだって、前に本で読んだんだ。だから焼いてから食べるんだ」
鹿肉を長い枝に突き刺して炎で炙りながら、僕は口を開いた。前世からの記憶も混ざっているが、イヴァノエに説明しても詮無いこと。ちょっとの誤魔化しも含んでいる。
辺りに肉の焼ける香ばしい匂いが漂い始める。その食欲をそそる香りに涎が垂れそうになりながら、僕は肉が焼ける様子をじっと見つめていた。
そうしていい具合に焼けた鹿肉を、僕は満面の笑みで食するのだった。味付けも何もしていない肉の塊だが、鮮度は抜群だ。
普段のように聖域や街の中で過ごしていたら確実に味わえない、自然の中に生きる獣の恩恵を、僕は心行くまで堪能するのだった。
ちなみにこの鹿は、首周りの肉を食べた後、イヴァノエの魔法によって運びやすいサイズに解体してもらった。骨や肺、腸などの一部の内臓はその場に埋めて、臭いが漏れないよう処理をしてある。
あとは洞窟で待つウサギたちのために、ここに来る途中で見つけたヤマモモの実でも持って帰ろうか。
僕とイヴァノエは両手いっぱいの食料を手に、拠点にしている洞窟へと戻ったのだった。





