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さかまわりの夜[3]

Schrodinger Folks

-follow the day light lines


novel&Illustration by KONNO Takashi

(川の底で見た光景を思い出して)

 脳裏で囁いたのが誰なのか気にとめる余裕もなかった。だが言うとおりにする。

 青黒い光沢と微細な水泡の中に林立する、怪物の足の群れ。時間が支配された環境であれば、すべては遡って元来た方角へ消えていく。

(そうか。そうだ)

 炎だって、一方向へ流れる環境の有り様だ。

 後ろにいるノノモリが同じことを思っているとマコには確信できた。

 環境ならば……この夜の中なら、なんだって逆回りだ。

 果たして炎は、

 眼前で止まった。

 輻射熱もなにもない、空間を影の手で削りだしたような不定型の光る塊。

 それが、一瞬でほどけて虚空に吸い込まれた。

 その場にいた意志ある生き物の誰もが、時間の逆流に寸時動きを止めた。

 無意識により身体を駆けさせていたマコを除いて。

 足下に残された踵一つ分の、最後の足場。

 マコは全力で踏み込み、重心をそこから大きく前方へ、もやの掛かる水面の上へ、引きつけた剣のグリップも岩の縁の外へ、踏み込んで力を溜めた脚の筋を、爆発させる。

 跳ぶ。

 逆巻く時間に飲み込まれることなく、足下からけたたましく爆発した地擦りの音が、三方の森と、進行方向の滝壺へ放たれる。

 跳んだ勢いを左腕に。残してきた重さを剣の右手に。肩と背中をねじる。

 眼前には巨大な竜の頭部。

 目を動かさずに、視界の隅に捉える。

 顎の鱗はまだ開いたままだ。

 体重が向かう方向と剣の軸とを直線に沿わせれば、

(どんな体勢でも、刃は通る)

 意識せずとも。

「――だぁぁっ!」

 ざぷりと、突き出したマコの剣が怪物の左顎を大きく断ち削った。

 途端に爆音が轟いて左耳がきん、と痺れる。

 吼えたのだと気づくまで時間が掛かった。

 色の無い飛沫と竜の甲高い悲鳴。そこにはなにも彩度がないはずなのに、灰色の空と黒々とした木葉の塊に暴力的な原色が差されたようだ。

 跳躍と斬撃の勢いのまま身体をすれ違えさせる間に、苦悶の動きで振るわれた翼の気流が、空中のマコの身体を一瞬で水面に叩き落とした。

 人間一人分を激しくぶつけても、水面は煙の層のように曖昧にしか動かなかったが(飛沫も水泡も波紋も高速で巻き戻されているためだ)、池から突き出した枯れ木に背筋を打ちつけたマコはたまらずに肺から水中に大きな一泡を吐き出した。

 あわてて立ち上がる。腰ほどの水面だ。髪の一房ごとから音もなく水滴が引きはがされて、マコの周りに微細な霧を作る。

 息を吸って、

「痛い目見たでしょ! 次はもっと痛くて治りにくいところを斬るからね!」

 竜と少女に向けて刃を見せ、叫んでやる。

 たいていの獣はこれで追い払える、とマコは経験していた。こなしてきた生死ぎりぎりの攻防を、朝飯に卵を割ったかのように気軽に意識するのがコツだ。でなければ自分自身にも優位を説得させられない。次があるかないかの杞憂に意識が囚われる。

 竜は痛みに叫び暴れている。その背中に、意にも介さず少女は座って歓声をあげた。

「すごい! 竜に刃を通した。おとぎ話みたい。あなたは騎士かしら」

「そんなんじゃない。邪魔する奴は殺してでも仕事をこなす冷静残虐な武装女中だ!」

「残虐……」

 水の気配とノノモリの一言が聞こえた。池に入って近づいてきたらしい。

「王女は知らなかったかもだけど」マコは威圧的に目を細めた(その表情をかつて誰かは「やぶにらみ」と表現した)「私残虐です。骨付きの鶏肉に血がにじんでたって結構ばりばり食べたりです。なので似合わないって声出さないでください。後ちょっと離れててください」

「いいけれど」ノノモリの声の距離が変わらなくなったので、マコはそちらを気にしないことにした。

「残虐なので帰ってよ!」

「嫌だよ」少女が笑う。

「今はあんたに聞いてない! そっちのぶっそうな奴!」

「この子だって嫌だよ」

「なんで」

「果物が食べられなくなっておなか空かしてるんだもの」


 竜がぬるりと動いて、マコの脇腹に食らいついた。


「は」息が詰まる。

 速すぎる。

 目が追い付かなかった。

 王女が叫んでいる。耳の奥が血圧で張りつめてなにも聞こえないが、たぶん自分の名前だ。

 今夜はこの子に叫ばせっぱなしだ、と、マコは思った。

 竜の少女が告げてくる。

「この子がいるのは空腹の境界線。

 飢餓が精神の水面をゆらゆら揺らす。

 甘美に決して辿り着けないから口に含むものは全部代用の味。

 甘ければいいのに決して甘くない。

 マコ、あなたの胃液は甘いかな? やっぱり辛いかしらね」

(わけがわからない!)

 だが竜に胴体を食いちぎられかけているのは確かだ。

 脚が浮く。臓物ごと身体が持ち上げられた。

 右手の剣を反回転させ逆手に握りすぐそこに見える眼球に突き立てなければ。

 そう思った。

 剣が無音で落ちた。

 腕が自分の意志に反してかくかくと痙攣していた。

 たちの悪い呪い人形のよう。

 落下時間があやふやになった剣は間の抜けた放物線に沿って空中に浮かんでいく。

 ここにきて、痛覚が働いていないことにマコはぞっとした。ただ、痺れるだけ。思ったより早く、自分は死にかけているのか。

 横目でノノモリを探す。

 水面になにも持たず突っ立っている眼鏡で猫耳の女の子。こちらを見たまま、表情のない真っ白い顔。

「死んでる……場合かっ……」

 濁った叱咤をうめいたとたん、急激に視界が流れた。

 黒い木々と白い空の境界が溶ける。

 くるりと回って水面、王女、竜と少女、滝壺と岸壁、自分の腹から漏れ散る赤黒いもの、そして墨色の地平線。

 振り回されて放り投げられたのだ。

(マコが境界を見つけるの)

 いつかどこかで言われた誰かの言葉が、脈絡無くひらめく。

 だがそれは今ではない。

 いつか誰かがつぶやいた、無人の海の落雷のような、ただの声。

 自分の体の重さを感じない。

 この奇妙な夜は、自分が坂から転げ落ちた頃から始まった。落ちては遡り、落ちては……

 空しか見えない。

 目の端を明滅する砂目が混じった太陽の線。日光をかすませているのは大気か、それとも自分の血飛沫か。

 逆回った一日はどうすればもとに戻るのか。

 思考がほどけていく。

 腹に開いた穴から魂がもれているのかも。

 石畳が見えるはずもないのに。

 イメージを思い出す。

(境界を見つけるの)

 その声が、なぜか竜の少女の姿と重なる。

 噛みついといて、なにを勝手な……。

 こっちは、もうすぐ、死ぬってのに……。

 ふわふわと発想の糸が浮かんでいる。なにか思いつきそうだった。

 だが糸をつかむ手は指一本も動きそうもない。





 滝壺の方角へ振り投げられたマコの体が、水面を跳ねて、逆の方へと落ちていく。空に。

 視界の端に滲んだ光景がぎりぎりと頭のどこかを締め付けるのを無視して、ノノモリは膝丈の水面の中に立っている。微動もせず。

 表情も動かさずに。

 動いている場合ではない。

 奥歯を食いしばって。

(境界)

 視界の中に境界を探す。

(彼我の境界)

 竜とマコ。

(生死の境界)

 命の飛沫が逆加速された滝と混じり合い、

(傷の境界……)

 濁った紅色の霧となっていく。

(穴、空隙、血は環境として流れ去らない。意志に反するくせにそのありかたには意志が籠もる。想い。流された想い。発露される感情。赤い。黒い。肉の中に循環する金属と酸の色。すべてはこの色。草木も岩も山も、神話すら。すべてに血が流れる。マコだけではない)

 口早に、こめかみの圧を高めて、思考を早めていく。益体もないまじないを唱えるように。

(赤。黒。灰色のこの世界。循環が加速された。傷が往来した。逆回る世界。時間の境界が歪まされた。私の呪いにより、私の見る世界は歪んだ。私の立つ環境がすべてねじ曲がった。かつて家族を、この子の周囲を滅ぼしたように)

 竜の少女を見る。

(正せなくとも)

 予感はあった。

(境界に触れれば呪いを行使できる)

「代償も知ってるでしょうに」少女が思考の隙間に口を挟んでくる。いや思考と思考の輪郭が重なったのか。そんなことをふと思う。どうでもいい。「それはどうでもいい」口にもする。

 ノノモリは思考の速度で、

「これから境界線を一つ、奪う」鋭く囁いた。

「なんの?」楽しげな声の主をノノモリは見ない。

 周囲の環境を世界という乾燥した物差しに置き換えて、ただ見る。

 怪物も、死にかけているマコも、海に漂う海草の切れ端のように。

 ここは水面の上。

 ゆらりと自分の尾を揺らす。

 道無き水面に映る世界を、釣りのように。

 引っかけ、見た世界を、止めた尾で、ねじる。


 怪物が苦悶の叫びをあげた。





 びり、と鼓膜がぶらされてマコは気を取り戻す。

「あわわ……」空中を漂いながら手足をばたばたさせて、バランスをとっていると自分の脳をだまそうとする……

(あれ?)

 手が動く。

 この高さなら全体が見渡せる、池の上。立っているノノモリ、竜と少女。両者はにらみ合っている。竜の脇腹に大きな穴が開いていて、傷口から得体の知れない煙が上がっている。ちょうど今のマコのように……

「あれ?」

 自分の腹をさすると、傷もなく、慣れた女中服の柔らかい生地が掌の表面をこすった。


「傷の、対象を移し換えた! やっちゃったのね、ごほ、ごほ」

 暴れる竜にまたがった少女は、その下から立ちのぼる蒸気にむせているようだった。ノノモリの位置でも刺激臭がかすかに判る。

「やっちゃった、ノノモリ。呪いを自分のために使った!」

 竜の右脇腹には、その頭よりも一回り巨大な咬み傷。世界のどこにこの大きさの口を持つ怪物がいるだろうか、ノノモリは気が抜けた精神で考えた。

 不定の呪いにより境界線に干渉し、傷をすり替えたのだ。

 空中でじたばたしているマコを見る。

(上手く行って良かった)

「良くはないよ! 許されないことだよ。あなたの存在が呪いそのものに浸食され……、わあっ」

 致命傷ではないがとても無視できる痛みではないのだろう、暴れた竜は滅茶苦茶に翼を振り回し、でたらめな方角に浮かび上がった。「もう」白い少女はため息をついて、怪物の背にしがみつくのをやめた。不格好に飛び降り、音もなくノノモリの数歩先に降り立つ。

「さあ、どうするの? 竜は怒ったよ。今まであの子を傷つけた生き物なんていなかったんだ。おなかが空いたのに痛い思いをして、逃げ出すと思う? 怒ったら、おなかが空くんだよ。もっともっと!」

 芝居がかった速度で彼女は腕を竜に指した。

「見て、あなたにはもうどうしようもないわ。時間の狂った世界で、危機を、存在を削りながら切り抜けても、もう時間は治らない。あなたに境界を見つけることはできないよ。わたしにだって! 灰色に染まってもうじきなにも分からなくなる。いっそその方が楽だわ。優しいのよ、わたし。分かってるでしょう、あなたが一番」

「そうね」ノノモリは答えた。全く違うことを口にした。

「ノルタリ砦を覚えてる? マコ!」

 落下にばたばたしていた武装女中の動きが、ぴたりと止まった。





「あ」言われたものを思い出したわけではなかったのだが。

 ぷかぷか空中に落ち続けていたマコは、確かに(それだ)と思った。

(名前だ)

 名前は、砦というのは……なんだっけか、

(構造)

 あの偏屈そうな依頼主が言っていた。

 構造。

 ぶわりと強い風が吹く。

 暴れ竜の羽ばたきかと思ったら(竜は正気を殺気に置き換えた顔でこちらを見ている。まもなく本格的に食い殺しにやってくるだろう)、そうではなかった。

 風景が、環境が放つ大気が、まるで変わっていたのだ。

 滝の姿だけはそのままに、池は石造りの堀に。

 高低差のある崖はぎざぎざの返しがついた石壁に。

 遠くには縦横に長く延びる堅牢な城壁。一面の森は切り開かれた木材の建造物に。壁以外はすべて月のない闇夜の空に。灰色にぼやけた世界は色濃い夜闇に塗り換えられた。

 地面すら、黒い油を流し込んだように、空に変わってしまった。

 眼下のところどころに赤い星が見える。

 マコが浮かんでいる高さから見える垂直面すべてに、石の建造物が植え付けられている。

 壁にはびっしりと細い溝が刻まれていた。矢を射るための穴だ、と、ずいぶん前に祖父が教えてくれたことを思い出す。

 これは……砦だ。





「名前は時間を規定する石標」

 ノノモリは足を濡らしながら少女に告げた。

「ヘスペリデスの実を巡り発生した二度の戦役。名前が教えてくれた。ここは砦だったと。時間が無限に巻き戻る私たちの環境、歴史も環境を構成する。名付けられた環境をポイントしてやれば、時間を固定することもできるはず。そう考えた。私とマコが観察するならば、世界は観測者の視界に従う。それも不定の呪いの振る舞い」

「へえ。そうなのね」少女は薄笑いのまま聞いていた。「でもそれは時間の境界線じゃないけど」ぽつりとささやいてくる。

「ノノモリは物差しの刻み目を見つけただけ。境界線は見つけられない。絶対。見てよ。逆回りの時間も、止まった昔の時間も、あなたたちの存在を支えるには狭すぎるんじゃない? 固定された名前はぐるぐる同じことを繰り返すだけだよ。なにが違うの?」

(まあマコには退屈でしょうね)

 ノノモリは、目の前の少女とは似ない笑い方をした。もう一度口を開く。

「マコが見つけてくれるでしょう。あの子は最初から知っていたもの」

「え?」

「マコには分かっていた。時間の連続を、なにが規定するのか」

 ノノモリもたった今、それを思い出したのだ。

 あの武装女中が今、もっとも、境界線の近くにいる。




挿絵(By みてみん)

 空へと落下していく高度の変動に伴って、今まで歩いていた森、緩やかな丘になっていた森の稜線が見える。今目を向けている方角に、マコたちが出発した街があるはずだった。

 そこすらも、砦の一角になっていた。人里と砦の境目が分からない。どこまでも直角の石の群れ。

(砦、本当に? でかすぎる)

 なにと戦うの?

 答えはすぐに知れた。

 さっきまで地表だった、星がちりばめられた地面から、聞き慣れない複数人の怒号が聞こえ、きらきらと細い糸が放たれた。

 マコより低い位置にいた大きなシルエット……竜に向かっていく。

 糸のいくつかは鱗に弾かれ、一本だけが体表に残った。短いうめき声。

 さらに糸の群れ。

「竜だ! 突破させるな! 射て!」怒号。

 糸ではない。あれは矢だ。狩猟弓と変わらない、だが見たこともないほどの多数。

 回りかけた体勢をどうにか立て直し、マコは地表だった面を見直した。同じ高さに橙色の星が散りばめられた、近い距離の夜空……

(いや、あれも、星じゃない)

 篝火だ。所々に設置された火と、それに照らされた金属の光点。武具を持った人間が何人もいる。いや何百人はいる。

 怪物に向けて殺到し、槍を構え、弓を持ち、攻撃を仕掛けている。まさに戦争の規模だ。

 なんてことを。

 竜の斜め上、この方向にはマコもいるのに……

(!)

 マコはここで自分の間抜けさを悟った。

「思いっきり巻き込まれてるよ!」

 ひゅん、と空気を引き裂く音がして、自分の斜め上(どっちが上かは自分自身とっくに分からなくなっていたが)に矢が飛んでいく。マコの背後にあった石壁……もとは滝が刻まれた崖の岩面だった、それに弾き返される鋭い金属音。

 さらに一矢。こちらはすれすれだ。髪の房の先端に風を感じる。

(冗談じゃない!)

 当たれば死ぬ。さっきも死んだような気がしたがとりあえず忘れることにして、マコはぞっと目を見開いた。

 一方的な射撃は実のところ一瞬だった。轟音で均衡が揺れる。竜が爆発的な火花を吹き出して、兵士の一角を吹き飛ばしたのだ。

 轟音と罵声と悲鳴と「射て!」また再び風切りの音。

 矢を構える地上の兵士の目が見えるよう。

 そういえば、ノノモリはどこだ? 竜の少女も、もう怪物の背にはいない。

 竜に何本も何本も矢が突き立つ。

 弾かれた矢、流れ矢が、竜と篝火の炎を受けて光り、疑似的な夜空から降り注ぐか細い流星のように高速で流れる。本物の流星もああいう笛の音を立てるのだろうか。

(だから死ぬってのっ)

 マコはあわてて周囲の環境を観察し直した。

 彼女は逆回転の時間の影響で、上へ上へと緩やかに落ち続けている。傍らの滝の落下と同じ方向に。下から上に吹きあがる水霧と滴が、温度の知れないこの空間の中ではっきりと冷たい。

 この戦場で、時間が逆方向に進んでいるものはマコと滝だけのようだった。

 そのほかの生き物も、矢も、普通に重力に従って地面に張り付けられているように見える。空中高くマコの方に飛んでくる恐るべき矢も、普通に木と鉄の弾力によって無理矢理打ち上げられたものだ。

 何故だ?

(私とあいつらの差ってなんだ?)

 仕事にも私生活にも用をなさないたぐいの疑問、そんなのを気にしているのは世界でもノノモリくらいのものだったのに……今はマコも気になって仕方がない。

(職場の洗い桶からご主人のお客様を見てるような気分だ)

 首をぶるぶる振ってさらに見る。

 滝は残りマコ四人分程度の高さで直角に断ち切られ、砦の外壁もそこで終わっていた。崖の断面から覗く夜空には星がない(篝火を星と見間違えたのはこれも要因だった)。厚い雲に覆われ、その他にはなにひとつ。いや。

 橙色の霞。

 ほんのかすかに篝火に照らされた、細かい枝葉が見える。

 葉と葉の隙間に、拳大の球体。

 果実だ。

 人が組んだ石だけの世界に、たった一本自生している、色鮮やかな低木。

 この世界のマコたちと同じくらい、周囲から浮ききった奇妙な存在に見える。

 だが、そもそも……

 自分たちは、これを探しにきたのだ。

「竜座実」

 その名前を奇跡的に覚えていた(とマコは思った)。

 怒号も金属の重奏もさりげない大気の揺らぎのようにして、ありふれた風に揺れている。葉擦れの音が――

 後頭部からの物騒な金属音にかき消された。

 背後の絶壁から。

 凶悪な予感にうなじがびりと震えて、

 マコは振り返らない。

(こっちなら死なない)

 無理矢理に予感を一方向に結像させて、

(絶対こっち!)空中で首を真横に振りひねる。直後に、ばねが弾ける破裂音。マコの頬骨をかすかに沿って、弓矢どころではない極大の金属棒が撃ち下ろされ、遠く眼下の竜の鱗を一枚断ち割った。怪物が呻きをあげる。

 弩だ。砦の石壁に縦長く開いた銃眼の奥、人間なら三人は腰掛けられそうな、大げさな構造の巻き上げ弓が設置されているのが一瞬見えた。森の深部から現れるような災害的な魔獣に対抗するための、個人では扱えない兵器だ。マコは過去の職場で、「三十年は引っ張りだしてないねえ」と兵庫管理の老人が油布で手入れしている光景を思い出す。それが今、使われ慣れている軽快な速度で矢を放った。

 さらに金属が噛み合う音。紐と鉄ばねが軋む音。さっき聞いたのはこれだ。どこかで矢が装填されている。

 背後の銃眼は人間一人分ほどの間隔でびっしりと開けられていて、死を振りまく百眼の巨人のようだ。

 竜よりよほど酷い。マコは毒づく。

(悪趣味な絵物語だって、頁の中に放り込まれるよりはなんだってましだ)

 丸腰なのがなによりも気持ち悪い。

 マコは腰の剣帯から鞘を取り外し、逆手で握った。

 はらり、と、視界の隙間に赤灰色の葉が落ちる。下へ。そのまま地上へと紛れて消えた。

 マコの落下速度は同じく、方向だけが相対して、空だ。崖の終わりまであとマコ三人分はある。銃眼の前をいくつも斜めによぎるコースだ――

 集中する間もなく。

(!)

 すぐ上方、穴の奥に鉄杭の先端が見え爆発した。鎖骨から心臓を貫通する軌道。マコの右手とマコの鞘がいつの間にかそれを遮る位置に移動していた。

 目の前で大音声と火花が炸裂した。今まで見たなによりも強烈なショックに、マコは間違いなく一秒気を失った。

(…………この…………!)

 気を振り絞って瞬き。鉄の骨格を仕込んだ剣の鞘が指一本分歪み、表層の化粧板が大きく断ち割られている。自身に負傷はない。とっさに身を守れた。

 だが衝撃でマコの体は大きく崖から離されていた。視界に入る銃眼の数が一気に増えた。椀の側面をなぞるような丸い軌道を想像する。このまま落ちると手がかりも何もない空に吸い込まれてしまう。

 それよりも、自分が怪物の仲間に見間違われて石弓に撃ち落とされない保証がない。空に落ちていく武装女中なんて、自分が見たって、幽霊かなんかのたぐいだ。

(どうするかな)

 慌てようにも、ひたすら落ちている最中に、そもそも何ができるというのか。

 自分の体勢が自覚できない。

 地上の様子を見ようと首と顔と眼を捻り始めると……

 竜の苛立った瞳と視線があった。

 まっすぐに。

 ヘスペリデスの竜はこちら越しに果物を見ている。

 ノノモリが語った昔話を思い出す。

(竜はもともと呪われてる。甘いものを食べたくて、それを邪魔する人間と戦争をした)

 まあ、そうするよね。

 甘いものが好きなんだから、自分もきっとそうだ。

 殺しあうかどうかは分からないけど。

 マコは思った。

 竜は口を開けて、喉の奥から火花を解放した。

 連鎖する。

 崖からの射撃に対抗するためだ、と想像はできるが、その範囲があまりにも大規模だ。手狭な堀を、世界ごと茹で尽くそうとしているような、視界いっぱいの赤銅色の光と熱風。爆炎が一帯を飲み込もうとしている。

 世界に向かって、これが環境だと言い聞かせられる気がしない。

 目を瞑るかどうか、一つだけマコは迷った。

 そのせいで見ることになった。

 熱気が、目の前で、

 いくつかに割れて、

 さらに微細にひび割れ、

(え?)

 白と夜の破片が、

 平面になり、

 板になり、

 布のように翻り、

 いくつものいくつもの破片が白く星状に連なり、気流に乗り、

(これって)

 無限の花弁となってマコの体を吹き抜けた。

「……花?」

 火と花の境界線は誰にもわからない。

 声が聞こえた気がする。

 誰かがいつか、そう言った。

 こうしてみれば、確かに違いは、よく分からない。

 焼かれないだけで、眼は光惑に埋められる。

 風に押されてマコの体は大きく流れた。

 斜め上へ。崖の切れ目へ。そこから上は、色の定まらない空だ。

 いや、

 枝葉がほんの一瞬よぎる。

 ……ついさっきも同じことがあったな。

 マコははっきりと思い出した。

 さっきは、彗星のような速度で空に向かって打ち上げられたのだ。

 その時に比べれば今は小走り程度の速度だが、それでも、すれ違う機会はたったの一瞬――

「――おうわっ!」

 落ち着いている場合ではなかった。

 空に滑落しないよう慌てて右腕を伸ばし木をつかむ。竜座実の低木。堅く細かい葉の感触。ちぎれそうな枝を引っ張る、慣性に従った己の体重。見てみればマコとノノモリを足したくらいの小振りな茂みだ。このために、誰もかもが、大層な思いをしてきたのだ。

 木は、すぐ側で破砕されている滝口の霧を浴びてほのかに湿っていた。

 いくつも葉をちぎり枝を掴む。マコの重さを摩擦が止めきれず、右手袋の表面が大きく滑る。

「やばっ」

 左手も遅れて伸ばす。なんでもいい。茎一本でも手がかりがなければもう落下を止められない。

 際限のない巻きもどりの空に飲まれてしまう。

 ――丸い何かが、左の掌に触れた。

 必死に握りしめる。

 そのまま、

 ぶつりと。






マコの左手が竜座実を摘み取った途端、世界が一つ瞬いた。






 視界の軌道が急激に変わった。

 肩くらいの高さから地面に落ちた衝撃を想像したら、そっくりそのままの痛みが腰骨と背筋を走り「いったーい!」我ながら間抜けな悲鳴が口から飛び出した。

「あたたた……………」

 もう、マコの身体は、それ以上落ちることはなかった。

 お尻と両手がしっかり土の地面に支えられている。私こんなに重かったっけ、と反射的に考えた。前も同じことを考えた気がする。何度体験しても慣れないのだろう。

 肺に溜め込みすぎた空気をゆっくりと漏らす。

「……………………」

 嘆息に黙ってしまえば、何も音がしなくなった。

 ささやかな滝が普通の速度で落ちている音に、マコはずいぶんの間気づかずにいた。

 さっきまでしがみついていたヘスペリデスの木、その形を見ていたのだ。

 逆光になって、低木の姿は影しか見えない。

 光は、いつかどこかで見たような、手で再現できない薄い紫色のまま。点滅していない空の淡さだ。

 背後から聞き慣れた声がした。

「……朝に戻ってきたみたい。たぶん」

「あ! 王女!」

 振り向けば、いつの間にかそばにノノモリが立っている。

 ごくごく平然とした眼鏡の、耳も尻尾も大して動きやしない、上品な野良猫のようないつもの薄い表情だ。

「どこにいたんですか?」

「崖を登ってた。脇に古い階段が残っていたから」

「えー。死にそうにならなくても登れたのか」

 うんざりする声もちょっとだけ死にかけた色のまんまだ、とマコは自覚した。

 実際疲れきっていたが、どうにか立ち上がる。

 ひんやりとした夏の朝の風だ。高所から見る景色も、覚えているのと同じ緑の森。

 鳥と虫の声が混じりあい、遠くで木霊を打っている。確かに朝……日が見える直前のようだ。

 さっきまで大気に混じっていた爆炎か花のかけらはどこにもない。竜も少女も……

「そうだ、あの子は」

「呪いの発現が止まり、見えなくなったわ」

 元の自分と出くわしたというのに、さらっとした表情で言ってくるので、マコもそれ以上何も言う気にはなれなかった。 

「戻ったんですか、私たち?」

 これも信じられないことではある。

「マコが時流の境界線を見つけたから」

「この実のこと?」

「厳密には違うわ」

 ノノモリの声は、声だけは、いつもよりも少しだけ柔らかい。

「マコ、あなた、始めに言ってたじゃない。生きてればお金は減るし、薄くなった財布を膨らませるために生きてるんだって」

「へ?」

 そんなことを言われるとは考えもしていなかった。当たり前だ。

「マコはたった今仕事を果たした。仕事に対して賃金の発生を確定させれば、それが人の時間を定める境界線になる。少なくとも、今の私たちにとってはそうみたい」

 真面目な顔で言うことだろうか。

「ええええー」

 マコはすっかり脱力した。

「今までのおとぎ話はなんだったんですか。竜は? 砦は? そんなのよりお給金で助かったんですか、私たち?」

「うん。そう」

 ノノモリはおかしそうに口を笑いの形にした(絶対こちらの顔を見て可笑しくなったのだ)。顔の半分が白黄色に照らされる。

 遙か向こうの丘の稜線に、もと来た街の外壁。その縁取りがきらきらと強い輝きを帯び始めていた。

 無限に間延びしたようにも感じられる、ゆっくりとした速さで。

 夜にまぎれて何かをするには、もう少しだけ時間が残っているな、と、マコは何となく思った。

「王女、この木、実がちょっと残ってるんですけど」

「うん」

「もう、竜はこれを食べにこないんですか?」

「伝説というのは歴史の終端にできるインク溜まりみたいなもの。現在まで事実が連続するところには伝説はないわ。……不定の呪いが呼んだものも、どこまでもさかのぼる時間から取り出した伝承の切れ端にすぎない」

 遠回しな言い方だったが、意味はよく知れた。

「じゃあ……ちょっとくらい、私たちが代わりに食べてもいいよね」

「え、食べるの?」

 何を言い出すのか、という顔で驚かれた。

「うん」

 お腹が空いていたことを何年かぶりに思い出した気分だった。

「美味しいかも」

「味は知識にないんだけど」

「私くらい美味しいって竜が保証してくれましたよ。身体張って」

「雑食と美食の境界線って、誰にも説明できないと思うわ」

「まあまあ」

 なにをなだめているのか自分でもわからなかったが、マコは低木の中に隠れていた紫色の実をもう一つちぎる。

 摘み取られた跡を三つと、マコはなんとなしに眺めた。

 実を、かろうじて綺麗だったエプロンの一角で拭いてからノノモリに投げ渡してやる。

 不格好にバランスを崩しながら受け取った王女は三秒だけ実の表面を見つめて、それから苦笑してみせた。

 マコはそれに笑い返してから左手の実を気楽に口に運ぶ。

 二人が竜座実をかじった直後に太陽の円形が、正しい方角に、ゆるやかな弧を描いて現れる。

挿絵(By みてみん)

(まあ、伝説って、こんなもんだろう)

 マコは上機嫌に呟いた。

 なかなか甘かったが、なんてことはない、普通の果物だ。


 以来、年に一度実を結ぶという竜座実を食べるのが何者か、知るものはまれである。

挿絵(By みてみん)

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