第3章 四橋財閥②
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「思ったよりも傷が浅くて良かったわ」
保健室常備の止血薬を麻耶の傷口に塗ってやりながら、乃乃乃は思わず安堵の声を漏らした。
蹴られた時に付いたであろう制服に付着した多数の汚れから考えれば、体中に青痣や擦り傷がもっと出来ていてもおかしくないくらいだったが、幸いなことに目立った傷といえば頬を殴られた時に出来たのだろう口元の小さな切り傷だけだった。
「もうちょっと早く私が駆けつけてれば、霧咲先生の代わりに奴らをギッタンギッタンにしてやったのに……」
晃からの念話を受けて教室から飛び出した乃乃乃と吹雪が駆けつけた時には、もう既に敏也と湊先生が言い争いをしている最中だった。さすがにあの場面からでは乃乃乃にはもう出番は残っていない。
「そんな……私は大丈夫だから。お願いだからノノちゃんたちは皆本くんと争わないで。彼のお爺さんが出てきたら、学校を退学させられちゃう……」
「そう、それよ!」
麻耶からの忠告はとりあえず横に置いておいて、乃乃乃は正面から彼女に向き直った。
「湊先生と霧咲先生さ、たかが一教師の分際で帝国の政治の中枢にいる皆本家の御曹司にあんな真似をしちゃって大丈夫なのかな?」
敏也が去り際に残した「覚えてろ」という捨て台詞はただの脅しじゃない。
彼がやるといえばやるだろうし、祖父の皆本公爵だって家門の名誉を汚されてこのまま黙っているはずがない。
乃乃乃にはどう考えてもあの二人の未来が明るいものになるとは思えないのだ。
しかし、麻耶から返ってきた言葉は、乃乃乃の予想に反するものだった。
「多分……大丈夫なんじゃないかなあ……」
「えっ、どうして?」
思わず身を乗り出してしまう。
「……湊、先生は、四橋の仲介でここの教員になってるから。いくら皆本家からの圧力があったとしても、先生の後ろに四橋が控えている以上、学園も易々とは辞めさせることは出来ないと思う」
「四橋って、まさか、あの四橋財閥の……?」
乃乃乃の問いかけに、麻耶はそうそうと頷く。
――四橋財閥。
皇帝がいない今、皆本家が帝国の政治と軍事の半分を握っているとすれば、四橋財閥は経済と軍事のもう半分を握っていると言われる。
国名に魔法の一語を冠しているからそういうイメージをあまり抱かせないが、帝国の科学技術は分野によっては他の大国に比べて数世紀は先に進んでいる。そしてなんとその八割以上が四橋財閥の持つ技術だというのだから、帝国におけるその影響力は計り知れない。
世界で四橋だけが実用化できているとされる量子コンピュータや、帝国軍主力戦闘機『燈火』に搭載されていることで有名な推進機関・リニアエンジンの開発など、その優れた科学技術の根幹は三十年程前にたった一人の天才が作り上げたと言われている。
帝国と合州国・日本連合軍との戦争や、その直後に起った国家社会主義大雅人民共和連邦との戦争において帝国が大勝をおさめた原動力が、たった三機の戦闘機と一隻の潜水艦、そして四機の軍事衛星だったことはあまりに有名な話だが、それらが全て四橋財閥傘下の四橋重工で製作されたものだったことからも、その桁違いの技術力の片鱗を伺うことができるだろう。
しかし、それよりも近年お茶の間の話題にのぼっているのが、四国の高松と帝都とを結ぶ鉄道路線であるスカイリニア及びその真上を走る超高速道スカイウェイだ。
帝国と日本は、本州の中部地方と近畿地方の境目を分断するように建てられた長大な壁によって完全に互いの行き来を隔てられてしまっている。
しかし、帝国と日本は元々一つの国家だったこともあり、敵対国家でありながら血縁者が両国に分かれて居住していたり、本社と支社が互いの国家をまたぐ企業が多いなど、人的経済的には切っても切れない関係にある。
それを解決するためにと設けられたのが帝国領特区四国だ。
帝国民と日本国民はこの四国においてのみ互いに交流を持つことが許されていて、自由に経済活動を行ったり、相手の国に住んでいる血縁者と会ったりすることができるようになっている。
概念的に言うならば、江戸時代の長崎の出島に近いものだといえるだろう。
この四国の中は完全な休戦非武装協定が結ばれていて、帝国は本土への入口ともいえるスカイリニアの駅など最低限の施設以外には一切軍備を配置していないのだが、帝国領四国の目と鼻の先に首都大阪がある日本側は、帝国から持ちかけられたその協定に対し一も二もなく賛同の意を示したという。
スカイリニア及びスカイウェイが通っているのは、その特区四国と帝都とを直接結ぶルートで、これが海路を除けば四国と帝国本土を結ぶ唯一のルートでもある。
スカイリニアは最高時速700キロを優に超える超高速鉄道で、始発の高松を出たら、鳴門、浮遊駅、八丈島、大島、鎌倉、横浜、品川を経て終点渋谷に着く。
完全に海上を走る路線で、信じられないかもしれないが、線路や道路も海上50メートルの地点に浮いている。
そう、完全に宙に浮いているのだ。
鳴門から八丈島までの間、およそ600キロにもわたる線路が一切接地しないまま宙に浮いている様(浮遊駅含む)はまさに壮観で、そのあまりにあり得ない神秘的な光景から世界的な観光スポットにもなっているくらいだ。
四橋の公式発表では、自社開発の重力子エンジンによるものだとされているので、おそらく重力制御しているのではないかと言われているが、それが具体的にどういう原理で宙に浮いているのかは、他の国のどの研究機関も、そして四橋財閥以外の帝国の企業であっても仮説すら立てられていないというのが現実なのだ。
渋谷に本社を構える四橋財閥は自他共に認める世界一の企業であり、帝国を支える重要な柱であるこの会社は、機密防衛のために一企業でありながら私設の護衛武装組織を持つことを皇帝から特別に許されている。
一般的に「剣の皆本、科学の四橋」などと言われているが、実際のところ四橋財閥はかなり強力な能力者たちを抱え込んでいると言われ、事実、護衛武装組織のリーダーは、皇帝・御影数馬の恋人とも噂される円卓第12位、『戦姫』軍司雪穂が務めている。
それだけの力を持ちながら、四橋財閥の会長一族は徹底した秘密主義に覆われており、皆本家などとはちがって決して表舞台に出てくることはない。
皆本家が今の帝国の表の支配者であるとするならば、四橋財閥は裏の支配者だといえる。そして帝国全土におけるその影響力は、皆本家に勝るとも劣らない。
そんな四橋財閥が湊の背後にいる以上、麻耶が言うように、例え皆本家であっても自分たちの意見を強引に押し通すことは難しいだろう。
もしここが同じ帝国の中でも、皆本公爵家が屋敷を構えていて強い影響力を持つ名古屋だったならその限りではないかもしれない。しかしこの横浜特別区の領主として皇帝から直々に封ぜられているのは第3位の『監視衛星』だ。
その横浜公爵本人が行方不明だから皆本家がこうしてここでも大きい顔をしていられるわけなのだが、学園があるここ横浜は渋谷新宿と並んで四橋のお膝元でもある。
この横浜で四橋財閥が学園に払っている寄付金の額は皆本家のそれの比ではない。
当然ながら、学園に対する発言力という点でも四橋のほうが遥かに優っている。
そして皆本家と同等の軍事力を保有するとも言われる四橋財閥は、力で強引にどうこう出来る相手ではない。
つまり、皆本家の脅しが一切通用しない相手なのだ。
「そっかぁ……それじゃ湊先生たちは大丈夫だね。ん? そうか! だからあんな社会人として生活するのに致命的な欠点を持つ湊先生が、ここを辞めさせられずに雇われ続けていられるのね!」
うんうん。なるほど……と乃乃乃は一人納得顔で頷いた。
それにしても……と乃乃乃は続ける。
「湊先生が四橋財閥にコネを持っているだなんて、麻耶っちよく知ってたね……」
何気なく言った一言だったが、意外とクリティカルだったらしく、それに対して見せた麻耶の狼狽は乃乃乃の予想以上のものだった。
「えっ、えと……その……」
わたわたと何やら落ち着かない様子で、視線も怪しくあっちこっちを彷徨っている。
明らかな挙動不審。
そんな彼女の姿を見て、乃乃乃はピンと来た。
「もしかして、麻耶っちって……」
乃乃乃が呟くと、麻耶はドキリとしたように表情を固くした。
「……湊先生のこと好きなの?」
「えっ?」
麻耶は一瞬驚いたような表情を見せた後、「あっ……」と呟くと、突然かーっと顔を真っ赤に染め上げて先程よりもさらに激しく動揺する仕草を見せた。
「ちっ……違うよっ。わ、わわわわ、私なんてとてもとても……湊先生には霧咲先生という存在がいるし、ルシルちゃんだって。それに他にも……」
両手をぶんぶん振って必死に否定する麻耶だったが、それが彼女の本心でないのはバレバレだった。
「そんな隠さなくたっていいじゃない。そりゃあ好きな人のことだったら何でも知っておきたいもんねぇ」
「だから、ち、違うよ。湊先生と四橋財閥のことは千春ちゃんちのお父さんが四橋に勤めてるから、その関係で耳に挟んだことがあっただけだし……」
「へぇ、それじゃ麻耶っちは一人の女の子として、今まで湊先生に対して一度たりともそういう感情を持ったことがないって言えるの?」
「そ、それは………………」
麻耶は黙ったままうつむいてしまう。その沈黙こそが何よりも明確な返答だった。
(あーあ、嘘のつけない子は大変だわ)
乃乃乃は思わず苦笑しつつも、
「大丈夫。私は麻耶っちを応援するよ!」
ぽんと彼女の肩を叩く。
「わ、私じゃとても……無理……」
「そんなことないって!」
言うと、乃乃乃は両手で力強く麻耶の肩を掴んだ。
「いい? 確かにあのルシルちゃんは――ちょっと例外かもしれないけれど……。でも、湊先生が自分の恋人だって認めてるのはあの地味咲さんだけなのよ! そりゃ私も彼女の剣の腕前にはびっくりしたけど。でも……ねぇ……」
こういっては失礼かもしれないが、乃乃乃が一番不思議なのは、星の数ほども言い寄ってくるだろう女性たちの中から彼が選んだのが、よりによって最もぱっとしなさそうな地味咲さんこと霧咲円だったということだ。
もちろん好みのタイプは人それぞれだから他人が口を挟めたものではない。
だが、性格の良さを基準に考えるなら、麻耶にだって十分にチャンスはあると思うのだ。
外見だって、ルシルのように他人を圧倒するような美貌ではないし、小柄で決して大人っぽいとはいえないのだが、それを補って余りある可憐さが彼女にはある。
実際、麻耶の可愛さは学園でも五指には入るほどで、あの天野が必要以上に彼女につっかかっていくのも、能力に対するやっかみと同じくらいの割合で容姿に対する嫉妬があるからだ。
「それに、私はなにも麻耶っちに霧咲先生やルシルちゃんに勝てって言ってるわけじゃないしね。幸い湊先生は能力者なんだから何人でもお嫁さんを貰えるんだし、要は彼女たちと一緒に湊先生に選ばれちゃえばいいわけなんだからさ」
一見無茶な言い分だが、これにはきちんと根拠がある。
帝国の男性能力者には、特別に一夫多妻制が認められているからだ。
これは両親ともに能力者のケースの方がそうでないケースよりも能力を持った子供が生まれてくる確率が格段に高いという統計上の理由と、男性の能力者の出生率が女性のそれに比べて十分の一と極めて少なく、従来の制度では女性能力者が同じ能力者の配偶者を見つけるのが困難だという現実的事情が重なったため、法律が一部改正されたためだ。
平均的な力の能力者一人の価値が他国の最新鋭戦闘機五機にも勝ると言われている中で、合州国を筆頭に、日本、国家社会主義大雅人民共和連邦、新鮮人民開放国など周辺国に敵が多い帝国としては、一人でも多くの能力者を誕生させることは国防という面から見ても極めて重要な案件である。
当初は一部の真面目な女性団体と、反能力者の主張を声高に掲げる純人間主義者の工作員たちが入り混じって不公平だの差別だのと声高に叫びつつ世論を煽っていたらしいが、この法改正を一番望んだのが他ならぬ女性能力者たちであったことから、この反対運動はあっという間に立ち消えてしまったらしい。
要するに、湊に恋人がいたとしても麻耶にはまだまだチャンスが残されているということなのだ。
「それは……そうなんだけど……」
か細い声で麻耶は乃乃乃の言い分を認めたが、それでもやはり気乗りしなさそうな様子だった。
「ま、今はそれでもいっか」
あっさりと乃乃乃は引きさがった。
麻耶はまだ一年生なのだから時間はまだ十分にある。それにこの先彼女自身の心変わりだってあるかもしれない。
何も今すぐに結論を出さなくてはいけない話ではないのだ。
「ノノちゃん、教室に戻ろ」
そう言って保健室の扉を開けた彼女に、頷きながら乃乃乃も続く。
「ん? そういえば……」
そこで不意に乃乃乃は、先ほどの麻耶が見せた態度に微妙な違和感を覚えて思わず首を傾げた。
今改めて思い返してみると、湊のことを好きだと見抜かれたことに対しては激しく狼狽していたものの、指摘した内容自体については意外そうな表情を見せていたような気がする。
つまり、その前に彼女があれほど取り乱したのには何か別の理由があったということだ。
「あれ? じゃあ本当はなんだったんだろ?」
疑問に思ったが、
「ん~~~~~~~~ま、いっか」
考えるのが面倒になったので、そのまま保留状態にして先を行く麻耶を乃乃乃は慌てて追いかけた。
そしてその疑問はそのまま四天王杯横浜予選決勝戦当日まで思い出されることなく、綺麗さっぱりと忘れ去られてしまうことになる。






