「僕は無力だった」
あの死神はいない。枯草の間で男は微動だにせず臥している、工場棟と工場棟の間の中庭。
ここが一番拓けている。やはり決戦の場はここだ。例え罠を備える必要があるとは言え相手が何時戻ってくるか分からないのだから、いつまでもここに身を晒している訳にもいかない。敷地内には二棟の工場の他にもう一つ窓が多い建物があった。優奈が鍵を開け中に入る。そしてすぐに鍵を閉める。工場棟と同様ここも暗い。だけど窓が多い分月明かりが十分に入り探索するのに苦労は無い。
優奈が罠を仕掛けるにはそれなりに水が必要。ここに潜り込んだのは優奈が水の存在を感知したからだ。ここは事務所や寮だったのかもしれない。トイレを含め蛇口がいくつもあった。もちろん蛇口をひねったところで水は出ない。それは予想の範囲内だ。だけど辛うじて残された生活排水も極めて少量で、集めたところでたかが知れているように思えた。しかし優奈のもとには僕の予想を遥かに超えた水が集まってきた。雨水タンクや貯水槽、浄化槽に残された水があると言う。集めた水をいくつかに分けて圧縮して、中庭に向けて飛ばしてトラップを仕掛けていった。
水を集める事が主だった目的だが、それだけではない。何か攻撃に使える物、またはそのヒントになる物は無いか探す事も目的だ。ガラクタなんかを使って弓のような飛び道具を作るのも良いかもしれない。だけどそんなに都合よく使えそうな物は見つからない。
探索していく中で、おかしな物を見つけた。古びたぼろ切れだ。廃棄された時この工場に残されたと考えるには難しい。……おそらく服だ。一着分ではない。上着とズボンだったと思われる組み合わせがいくつも。ここはもともとシェイドの領域。しかも今回はあの死神に作られたシェイドだ。この衣類の持ち主達がどうなったのか、想像するだけでも恐ろしい。だけど今はそんな恐怖を振り払わなくては。今まさに自分がこのようになるかもしれない状況にある。何より元凶を絶たなくては、犠牲となった人々が浮かばれない。
結局武器に出来そうな素材を集める事は出来なかった。だけど回収した水で罠を五ヶ所設置できた。そのいずれかに僕がノクターンを誘い込んだ瞬間に閉じ込める。そして同時に、限定された空間の中で避けようのない優奈の砲撃で決着をつける。確実に仕留めるために、この短時間で実行できる作戦としてはまず悪くないと思う。だけど一番の不安は、確実にトラップが発動するまで奴がその有効範囲に留まるかどうかと言う事だ。優奈もそれを一番危惧していた。
……いざと言う時は誘導し足止めしている僕ごとでかまわない。そうでなければ、あの死神を倒す事は叶わないだろう。僕の覚悟を前に、優奈は迷っていたようだが首を縦に振った。あとは思いきってぶつかるだけだ。全力で出し抜いてやる。
万が一の時に態勢を整える為の退路を検討している所に、女死神が姿を現した。僕達の姿を見つけて口角を上げた。だが勇んでこっちに向かってくる事は無く悠然と、あえて僕達が次の行動を見せるのを誘うように迫ってきた。追い詰められた獲物を弄ぶ捕食者の姿その物だ。
……ついにこの時が来た。さあ、来い、追い詰められた鼠が起死回生の一手を見せてやる!
「ここに戻っていたか。逃げる術は見出だせたか? くくっ、無駄であっただろうな」
「逃げろ、優奈!」
作戦通り優奈を逃がす。飛び立ち離れて行く優奈にだけ注視して後ろを追っていく。案の定、僕の方を全く見ようともしない。格下と分かっているから注意を払う必要もないのだろう。僕に背を向けた相手に向かってレクイエムを振りかぶって斬りかかったが、こっちに振り向くことも無く紅い洋剣で受け止めた。予想した通りだ。
「追わせるかよ! お前の相手は僕だ!」
安っぽい啖呵を切る。普通ならここまでの実力差がある相手の挑発に乗ってくるとは思えない。だけど精一杯やってやる。執拗に付きまとえば僕の誘いに乗ってくるかもしれない。僕はあえてやられ役を買って出ているんだ。何でもやってやる。受け止められると分かっているが連撃を続けた。
「お前の計画もおしまいだ! 何が何でもここでお前を倒してやる!」
無視。
「三百年も生きてきて、結局求める事は私欲か。随分と人間らしいな!」
無視。
「一人の女の子を寄って集って弄ってくれたようだな! 偉そうな事を言ったところで一人じゃ出来ない臆病者だ!」
無視。
「操り人形を作る? お前、怖いんだろう? シェイドと戦うのが、傷つくのが怖いから傀儡を用意したいだけだ!」
無視。
「レクイエムにこだわっていたな。そんなにYOUが怖いのか? よかったな! 今相手をしているのが僕で! YOUの相手にもならない、醜態を晒す事がないからな!」
「……まったく。人間はいつの世も死に急ぐ」
僕の言葉に初めて反応し、振り下ろしたレクイエムを強く払った。一際甲高い金属の衝突音が辺りを満たす。こっちに振り向き、鋭い眼光と同時に威圧をぶつけてきた。怯みそうになったが退くつもりはない。……さあ、来い。ここからだ。
「どうせ数十年で死ぬと言うのに何故それを縮めようと必死なのだ? 呆れて物も言えん。良いだろう、挑発に乗ってやる。どの道あの娘単独でこの結界を越える事はできぬからな」
よし、かかった! 明らかに僕を馬鹿にしたように手を抜いて攻めてくる。それでも僕にとっては受けるだけで精一杯だ。実際に押されているのだが、そうとは気付かれないように罠を設置したポイントに誘い込んでいく。今ここで一番近いのはあの男が倒れているところだ。もう五歩近付く事ができれば、後はこの女を檻に閉じ込めるだけだ。何度かノクターンの刃が体を掠めたが怯まずに僕も攻める。
「良い気迫だな。だが我と貴様の力量に彼岸と此岸ほどの隔たりがあるのがわからんか? いや、分かっているからこそ、か。だが分からんな。恐ろしくないのか? そこの男と同様、貴様も倒れ伏す事になるのだぞ?」
ノクターンが僕を諭すように語りかけ、同時に完全に足を止めた。今だ、今しかない! 優奈、早く!
「……何を狙っているのか、大体想像がつくぞ。貴様が相手をしているうちに逃がしたと思わせておいて、実はあのブレイズの娘が攻撃の要であろう? 当然だ。強がっているが貴様では我を屈服させることなど不可能だ。……レクイエムならまだしもな。さあ、かかってくるがいい。お前の憎き仇はここにいるぞ?」
余裕でいられるのも今のうちだ。お前はこれから絶対に避けられない攻撃を受ける。気付いた時にはおしまいだ。優奈の水の力は僕の、いやお前の想像もはるかに上回る多様性を持っている。それを思い知れ!
「……どうした、何をほくそ笑んでいる? 何も起きないぞ?」
何で、何で攻撃しないんだ? 今まさに優奈が仕掛けたトラップの直上に居るんだ。僕ごと鳥籠に閉じ込め、同時に打ち込むだけなのに。優奈自身の能力なんだ、不発なはずがない。それなのにいつまで経ってもトラップが起動しない。紅い刃をレクイエムの柄で受けたまま焦る僕を余所に、ノクターンは何が起きるのか楽しみにしているように僕を見下していた。全力で刃を押し返し再び斬りつけると同時に、僕とは違う雄叫びが上がった。
駄目だ、優奈! それじゃあさっきと同じだ!
「ふん、愚かな娘だ」
レクイエムを軽くいなして僕を蹴り飛ばし、月光を背負う優奈に対峙した。女死神の持つ剣の刀身が輝きだしている。何をするつもりだ?
上空から全力で打ち下ろされた羽衣を紙一重で躱して、手にした真紅の剣で切り裂く。寸断され、再生して攻撃できるようになるまで時間が必要な状態にされてしまった。それにも屈さず、次は無数の針を一点に集中して発射する時のように右手に水球を作り出した。針が撃ち出された時には射線軸上に対象はおらず、優奈の左側に回っていた。優奈が再び相手に向けて左手を突き出し水球を作った瞬間に、ノクターンが切っ先を優奈に向けた。直後に強い光と衝撃が走る。
「……捕えた。もう逃がさぬ」
決着がついたのは突き飛ばされ倒れた僕が立ち上がるまでの数瞬の出来事。優奈は各辺が光の筋で作り上げられた直方体の中に捕らえられていた。優奈のもとに駆け寄ったが、光に囲まれた面のところでぶつかってしまう。これ以上まったく近寄れない。優奈の声も聞こえない。すぐそこに見えているのに。下がって、と言っているのだろうか。優奈の意図を察し少し離れると、残された羽衣で内壁を叩きつけた。光に囲まれた面にノイズが走る。しかし砕けるどころかびくともする様子は無く、彼女は閉じ込められたままだった。まるで空間ごと切り取られて、その映像をモニターで見せられているだけのようだ。
「そこで黙って観ていろ」
ノクターンがタクトを振るかのように自身の手に持つ細身の剣を操る。剣先は届いていないのに僕の目の前でみるみる彼女が傷つけられていく。あの優奈が手も足も出ない。飛んで移動しても光の籠は優奈と共に移動するため脱出することができない。的確に傷つけられていく。何が起きているんだ。
優奈が力なく地上に降りてきた。いや、落ちてきたと言うべきか。そのまま箱の中で伏してしまった。駆け寄って彼女が捕らえられている空間と僕を隔てている見えない壁を叩き続ける。時を追うごとに優奈が弱っていくのがありありと分かる。
ちくしょう、どうすればいいんだ。結局優奈を傷付けさせてしまっている。自分の無力さが憎い。歩いて近づいてきた女死神が壁に密着している僕の襟を掴み、引き離すと同時に僕を地に投げ捨てた。
「おもしろいだろう。この能力によって力が付くまでシェイドを隠してきたのだ。ここまで強く張れば外界と完全に遮断されブレイズと言えども破る事はできん。……もはやお前達が知っても何の意味も無いがな」
僕を見て何か言っているがどうでもいい。とにかく何とかしなくては。僕は大きな声を上げて身体を捻じり、レクイエムに全ての神経と精神を預けるようにして振り抜いた。ノクターンが慌てたように、手を当てていた結界から飛び退いた。
突如刃先が輝いたレクイエムは、切っ先も届かない距離にある結界を切り裂き、ガラスのように砕き散らせた。優奈が地面に落ちる。驚愕の表情を浮かべる死神の脇を走りぬけ、優奈を抱き上げようとした。だけどやはり触れることができない。落ち着きを取り戻したノクターンが僕達の方に近づく。
「どうやって助けるつもりだ? もはやそれはお前の獲物ではない。……渡せ」
優奈に触れられるのはレクイエムだけだ。とっさの判断で柄で優奈の胴を支え、飛び退いた。驚くほど軽い。ノクターンがすばやく振った剣が優奈の足を掠め、軽い苦痛の声がもれた。
止めることはできなかったがその程度間合いを離したくらいでは何の意味もない、と言いたそうにゆっくりと近づいてくる。優奈がレクイエムにしがみついてきた。そのまま走って逃げるしかない。幸い霊体の優奈には物質的な重さが無く僕に負担は無い。しかし掴まる力も弱くなってしまっている優奈は自分自身の身体も支えきれず、程なくずるりと落ちてしまった。
どうすれば、どうすればいいんだ? このままじゃ、優奈が……
「しつこいな。手加減している間にこちらに渡せ。さあ、大伴優奈よ、今から現世のしがらみから解き放たれ、貴様が幼い頃より姉と慕った女の一部となれるのだ。喜ぶといい」
うるさい、だまれ。これ以上好きにさせてたまるか!
「近寄るじゃ…… ねえよ!」
立ち上がって叫ぶ。だがどうすれば打開できるかなんて分からない。YOUに教えられたことも無い。だと言うのに僕は、どうすれば良いのか初めから知っていたように体が動いた。
レクイエムの柄尻を地面につきたて、そのまま思いっきり僕と優奈が入りきるような円を描いた。そして地面から柄尻を離し、勢いよく地面を叩く。同時に耳鳴りがして、許されざる者の姿だけでなく僕の目の前の景色すべてが歪み、ノイズが走った。
……
…
ざぁっと風が流れるような音がした次の瞬間、ノイズが晴れて視界良好になった。ここはどこだろう。同じように枯草が茂っているが、さっきまでいたところとは全然違う。
僕はしゃがみこんで、足元に倒れてしまっている優奈の状態を診た。血は流れていないが鋭い切り傷をいくつもつけられ、ひどく痛ましい。息を切らして苦しんでいる。
死神につけられた傷はシェイド自身の力で癒すことはできない。ブレイズも同様なのだろう。僕が何とかして治せないかと手を伸ばしても触れることができない。
何もできない。
悔しくて、いつの間にか涙が頬を伝っていた。
「何で…… 何で作戦通りにしなかったんだ……? 僕ごと撃って構わないって…… 頷いてたじゃないか……」
「撃てるわけ…… 無いじゃないですか……」
僕のぬれた頬にそっと冷たいものが触れる。……彼女の手。優奈が精一杯の力で手を伸ばしている。触れることはできないが、頬に当てられた手に右手を添えた。
「……怖かったんです。本当に当てちゃうんじゃないかって……」
「それで良いって、言ったじゃないか! ここであいつを倒さなくちゃ、いつまでも……。撃てよ! 何で撃たなかったんだよ!」
「嫌です! だって……」
強く拒絶した後で息を整えると、とても穏やかに笑顔を見せた。
「裕也さんは、生きてるんですから……」
頬を伝う涙が止められない。僕は覚悟していた。YOUには申し訳ないけれど、優奈を逃がすための犠牲になるつもりだった。だけど優奈は、自分の仇であるあの死神を倒す事よりも僕を生かす事を選んでしまった。
僕じゃ出来ないのに。僕では敵わないのに。
優奈を苦しめただけで助けてあげる事すらできない僕に、何を望むと言うんだ。
神様、お願いです。もうこれ以上この子を苦しめないでください。優奈が何をしたと言うんですか? こんなに残酷な運命を課せられても、最後まで優しさを失わなかった彼女を助けてください。お願いです、お願いします。
けれど業の深い僕の願いが聞き入られる事は無く、刻々と優奈は衰弱していく。僕の涙はとめどなく流れ落ち、顎を伝って大地に滴り落ちた。
……気が付いた。僕の頬に添えられた優奈の右手を握れている。今まで叶わなかったのに、彼女に触れられる。気付いた僕は強く彼女の手を握り返していた。見れば優奈が左手でレクイエムを掴んでいた。
「なぁんだ…… こうすれば、良かったんですね…… もっと早くに…… 気付けばよかった…… 怖がってた私が、バカみたい」
優奈はレクイエムから左手を離さない。どう言う事か理解した僕は横たわった彼女を抱え起こし、夢中で抱きしめていた。
ありがとう、YOU。あなたは本当に偉大な神様だ。ありがとうございます、この奇跡を与えてくれて……。
「……温かい、ね」
「そう、かな……」
声が震えてしまっている。ずっとこうしていたい。だけどわかっている。この時が来たんだ、と。
力を緩めてお互いの体を少し離すと、穏やかな顔で僕を見て、目を閉じ頷いた。
「……お願いします」
声にならない嗚咽のせいで答える事ができない僕は、ただ頷き、自分の両手を握りしめて立ち上がった。
……これまでにない強い光が、僕の周りのすべてを照らす。
その光の中で、僕は、最後まで目を開いていることができなかった。