「転進」
逃げろ、どう転んでも敵う相手じゃない。本当ならば今この場で優奈の仇を討ちたい。だけど相手はあの優奈の攻撃ですらものともしなかった。力でいえば僕は彼女のはるか格下でしかない。力押しで何とかできるような事はありえない。それにあの死神は優奈を狙っている。一度彼女を殺しただけでなく、その魂までを喰らうつもりの本当の悪魔だ。
そんな事させるものか。彼女だけでも何とかして逃がさなくては。
あの女死神が本気を出せば僕達が走り出した直後にすでに追いつかれているはずだ。だけど予想に反して追撃される事も無く、僕達は背後の工場棟の中に飛び込むことができた。
何を考えている? あの日、僕がYOUと出会った時の事が脳裏をよぎる。YOUは僕があの直後に絶命する事を知っていた。追わずとも手に入る体だと知っていたから好きなようにさせたのだ。僕達が逃れる事が叶わず、あの死神の手中に収まる未来が見えているとでも言うのか?
「定められた『律』からは逃れられない」
かつてのYOUの言葉が思い起こされる。僕は今まで、何度も定められた死の『律』を変えようとしてきた。だけど一度も叶わなかった。今回も……?
……いや! そんな事は無い! 死神とは名ばかりの、こんな悪魔の思惑通りになってたまるか! この子を、優奈を二度と見捨てないと誓った。僕は必ず守り抜く。彼女を二度も殺させるものか!
工場の中はかなり暗い。上の方にある窓や排気口から月明かりがわずかに射し込んでくる程度で、最初に入った棟と同じように明りとなる物が何もない。機材も同様に残されている。どちらかと言うとこっちの方が残されている量も種類も多いと感じた。これなら隠れる場所も多い。ただ中央の所は隠れられるような機材がほとんど無くて、広い空間になっていた。
YOUの話からすればたとえ死神と言えどもともとは人間の肉体だ。反応速度、耐久力は飛び抜けたものがあるが、それ以外は本当に人間で、怪我もすれば病気にもなるし、老いていく。僕で実証済みだ。精神、魂は不変でも、肉体は生老病苦のしがらみからは逃れられない。それはどの死神にも当てはまる。この光の乏しい棟の中で僕達を探すのは容易なことではないはずだ。
だけどここに飛び込んだからと言って、僕達にとって事態が好転したわけではない。僕だってこの中を自由に動けるわけではない。所詮時間稼ぎでしかない。諦める事は考えられないし、もしも朝になって光が射すようになれば闇に隠れて逃げる事も叶わない。それにこの工場棟は僕達が入ってきた門とは正反対の方角だ。奥に行けば行くほど退路から遠のく事になる。状況は時間が経てば経つほどに悪くなる。一秒でも早くここから立ち去らなくてはならない。
残された機材の陰に隠れ、ゆっくりと慎重にこの棟からの脱出経路を探す。足音を立てたりしないように、闇の中で障害物に当たったりしないように、さらに袋小路に追い詰められないように道を選びながら進む。いつも以上に神経を尖らせている。これほど意識を集中させている事なんて無かったんじゃないだろうか。そんな中、カツ、と硬い音が立った。僕からではない。あの女死神が入ってきたんだ。さっきからずっと上がりっぱなしの心拍が、さらに一際強く、速くなったのを感じる。
……
最初に響いた靴音の後、しばらくは無音が続いた。何をしているんだ? 僕としても気が気ではない。ほんの少しだけ、隠れている機械の陰から顔を出して入口の方を見た。ここからだと他の機械の陰になって入口を見ることができない。再び頭を引っ込め、動きを止めたまま息を殺し、相手がどんな動きを見せるのか耳をそばだてて探り続ける。だけど聞こえてくるのは上がったままの僕の心音だけ。あの女死神にも聞こえてしまっているんじゃないかと思うくらいだ。
息を潜めてしばらくすると、再びカツ、カツ、と靴音がし始めた。再び顔を少しだけ出すと、ぼぅっと仄かに照らし出された女死神の姿が見えた。何だ? 何か光源を持っているのか? それならこの闇の中に居たら、より不利になってしまう。急いで外に出ないといけない。頭を低くして進んでいくと、元来た入口へ戻れそうなルートを発見した。しかし入口をよく観ると輪郭がぼんやりと仄かに光っている。さっきの闇に浮かぶ女死神の姿が頭をよぎった。……近付かない方がいい。何か細工をしていると考えるのが正しい。幸い別の扉がすぐ近くにある。こそこそと、気取られる事の無い様に細心の注意を払って進んだ。
もともと非常口なのだろう。鍵はシリンダー式で屋内からなら簡単に開けられる物だ。鍵を開けた時は幸い音はほとんど立たなかったが、押し開く時にぎぎっと強く軋む音を立てた。構うな、どうせ外の月明かりが射しこんだ時に気付かれる。ここにたどり着いた時点で僕の勝ちだ! 急いで外に飛び出し、走った。直後に優奈が扉を閉め、即座に合鍵を作って外から鍵をかけて固定し、ドアノブを破壊した。非の打ちどころが無いサポートだ。これならばそのまま追って来れない。ベースである女性の力で、留め金の架かった非常口を壊して出てくる事なんて出来るはずがない。死神の剣では物理的に破壊する事ができない。あの入口の方から出て改めて僕達を探すしかない。上々だ。優奈が作ってくれた時間で、何としても脱出しなくては。
……
可能な限り速く走って、この工場の外壁の所までやってきた。優奈だけでも逃がさないと。僕を置いていく事に抵抗を見せたが、狙いが自分である事を理解している優奈もしぶしぶ僕の提案に従い、この外壁を飛び越す事にした。ふわりと浮き上がり、外壁よりも高い所まで行くとそのまま外へと向かう。しかし何かに跳ね除けられるようで、壁よりも外に進めていない。さらに上空まで上って脱出を試みるが同じ結果だった。
出られない。この先は工場の敷地外だから結界はここまでのはずだ。この高いコンクリート壁の上を優奈なら飛び越せるはずなのに、見えない力に遮られて外に出て行くことができない。入る時には優奈は眠っていたから問題なかったのか? もしかしたらあの死神が結界を更新し、境界を越えられないようにしたのかもしれない。いずれにせよこの障壁を打ち消す術が無くてはここからは出られない。レクイエムなら切り裂けるかもしれないが、振っても刃が届かない。紫煙のシェイドを両断したあの時のような力が出せれば良いが、こんな時に限ってうまくいかない。優奈がコンクリート壁を砕こうと羽衣を振るったが弾かれた。一体何だ、この鉄壁の結界は。これがあの死神の見せた自信の根拠なのか? せっかく稼いだ時間が浪費されていく。どうすればいい?
これがあの女死神の力なのは間違いない。出られないのならその力の根源を断つしかない。だけどアレを倒す事ができるのか? 優奈が猛威を振るったのに倒せなかった。レクイエムも容易に止められた。優奈と僕が同時に仕掛けてもいなされた。どうすれば……。残された時間はほとんど無い。
……いや、まだ手はある。不意打ちだ。だけど生半可な攻撃では防がれてしまう。さっきのような僕と優奈の二人同時攻撃でも傷を負わせられなかったような相手だ。この世界に在る時間も戦闘経験も遥かに上の存在で、しかも反応速度が尋常ではない死神の体を持つ。相手の意識に上る前に攻撃を加えて倒すしかない。僕が囮になって、優奈が気付かれないよう遠距離から攻撃する。だけどそれも不確実だ。完全にあのノクターンを足止め、固定しなくてはいけない。どうすればいい?
……そうだ、罠を仕掛ければいい。優奈と初めて会った時に彼女にはめられたあの檻が絶好だ。思いついた作戦を優奈に持ちかける。優奈も倒さなくてはいけない事に同意し、首を縦に振った。ここは工場の裏庭で、作戦を決行するにはいささか狭い。もっと広いところに移り待ち受けよう。