「悪意」
相手から目を離すことができない。生唾をごくりと飲み込み、冷や汗が流れる感覚を受ける。追い詰められた獲物の気分と言うのは今の状況の事なのだろう。間違いなく美人に分類される目の前の女性の姿をした死神が放つ威圧に、完全に気圧されてしまっていた。その時後ろの方から、かさっと枯葉を揺らす音が微かに聞こえた。
「み…… お……」
背中の紅い染みを広げていく男はかすれ声でそれだけ言うと、ぴくりとも動かなくなってしまった。
「ふん、実験体としては優秀。シェイドと戦えるだけの資質はあったが、扱いづらい性格であったな。闘争心が高いのは有用ではあるが、命令に服従できぬのであれば傀儡として成り立たん。我の計画には邪魔だ」
背筋が凍るほどの冷徹。非常に危険だ。もはや人を道具としても見ていない。まったく感傷を示すことなく、興味すら失ったようだ。彼女が有する興味は完全に僕が手にしているレクイエムに向いている。
「それにしても…… これが高名なレクイエムだと言うのか? まるで人間ではないか。しかも特別何かを持っているようにも見えん」
レクイエムの事を知っているこの死神は一体何者だ? 危険極まりない存在だが、死神として何か共通項があるのであれば争いを避け、そして逃げる隙を作ることができるかもしれない。そんな微塵もないと言ってよいほどの希望にすがるように問いかけた。
「お前は一体」
「力を増すことに躍起だな。何故だ?」
僕の質問の答えと、その先の疑問をYOUが問う。
「ぬ……? 何だ貴様。今の言葉、統制が無いな。……なるほど、宿主の精神を残しているのだな? まあいい、我と同じような原理だろう。何があったか知らぬが人間に所有させるとは……。高名なレクイエムも地に堕ちたものだな」
いちいち鼻につく喋り方をする。この死神の、人間を卑下する思考は実に不愉快だ。確かに彼ら死神から見れば、僕達人間は未練を残してシェイドになったり、霊なる者の脅威から身を守る術に欠けていたり、身勝手に命を略奪したりと、世界の魂の循環のシステムにとって迷惑をかけている存在だろう。だけど、すべてを一括りに見下される筋合いだって無いはずだ。少なくともYOUはそれを理解してくれている。同じ死神だと言うのにここまで違うものなのか? 思わず奥歯をぎりっと噛み締めていた。
「核心を突いたのがレクイエムだな? 流石だよ。よかろう、教えてやろう。……と言いたいところではあるが、残念ながら理由などない。ただしたいだけと言うのが答えだ。人間が美味なる物を求めるのと同じだ。この陶酔感、力を得る時の恍惚……。何度でも、何度でも繰り返したい。たまらないのだよ。力のついたシェイド、遺恨の深い魂の持つ業は特に美味でな。だが、他の死神の守護範囲でそれをおおっぴらに行うわけにはいくまい? 我ながらのささやかな配慮よ。それに我は研究熱心でな。自身の力の応用、更なる可能性を追求して止まぬだけだ」
何だこの死神は……。第一印象から相容れないと思っていたが、そんなレベルじゃない。
狂っている。
苦しみ、悲しみを喰ってそれを至高の喜びとするなんて。
非業の魂を、それを縛り付ける鎖から解き放つための存在、それが死神。
少なくとも僕が見て、知っている死神は、こんな奴ではない。
「そのような汚らわしいものを見るような目は止せ。人間には理解の外である崇高な目的のついでだ。どうせ導かれるのだ、かまわんだろう? そして古くから在り、自覚することなく強大な力を有するに至ったレクイエム、貴様にもわかるまい。
……そうだ。宿主の青年よ、気付いているか? 貴様のその姿、似ているとは思わなかったのか?」
何を言っている? 全く意図がつかめない。ともかくこいつと問答する余裕は僕にはない。何とかここから逃げ出すために隙を窺い続ける。隙が無いのなら、どうにかして作り出さなくては。もうこんな所に一秒だって居たくない。そんなそわそわと落ち着かない心の中を見透かしているように、目の前の死神は語り続けた。
「そう焦るな。久しぶりの同胞だ。話し相手になってもらっても良いであろう? 似ていると思った事が有るはずだ。人間の伝説に出てくる大鎌を持った死神に。……まだ分からぬか? その死神こそがレクイエム、貴様そのものなのだよ。それは我らの中で最も多くの業を解き放った存在だ」
「え? YOUが……?」
「YOU? なるほど、レクイエムを貴様はそう呼んでいるのだな。何だ、本当に知らなかったのか? もともと人の間ではDeathと呼ばれていたようであるな。くく、人間が勝手に死んでいるだけだというのに。無知とは罪だな」
確かに初めてレクイエムを引き抜き仕事をした時、自分が死神のようだと直感した。レクイエムを持つ自分があまりに世の一般に広まる死神のイメージに似ていたから。だけど目の前の死神が持つのは鎌ではなく片手剣だ。それはすなわち死神の得物は全員が鎌ではないと言う事。鎌なんてかなり特殊だ。それにシェイドに対する索敵範囲の異常な広さの点からしても、YOUは特別な死神ではないかなんて以前から感じている。僕がうっすらと思い描いていたYOUのイメージが一気に実体化した。
「それは俺も知らなかったな。見られていたという事か? ふむ、死神の力は常人には不可視であるが、念のため仕事をする際には人目に付かぬ様意識していたのだが」
「さしものレクイエム様も完璧では無かったと言う事だ。長きにわたって現世に在れば、如何に優れた存在だとしてもそのような事もあろう。宿主の青年よ、どうだ? 伝説が今まさに貴様の中にあるのだ。誇らしかろう?」
「こいつをからかうな。それに話があるのは宿主にではなく、俺に、だろう。まだ若い死神よ」
「はははは! 現世に遣わされ三百年を超える我に”若い”とは! さすがはレクイエム、規範たる死神よ! 勿論、貴様にも聞きたいことがいくつも有るぞ。自身のことも知らぬと言ったな、レクイエム。貴様は一度も戻っていないのか? 今では『はじまりのもと』から現世に遣わされた死神で、レクイエムの名を知らぬ者は居らぬよ。古より現世に在り続け『はじまりのもと』と関わりが絶え、一体どれ程になる? ……まあそれらは二の次だ。レクイエムよ、何故このようなただの人間にレクイエムを譲渡した? 何か理由があるはずだろう。貴様が気まぐれに人間に力を明け渡すとは考えられぬ。何故だ?」
突然アスファルト舗装にひびが入り、捲れあがった。捲れあがった地面から月光を浴びて輝く何かがふわりと宙を漂い、僕の後方に引き戻されていった。優奈だ。目覚めた優奈が間髪入れずに攻撃した。ノクターンと名乗った女性の姿をした死神は無傷だ。平然とした顔つきのまま紅い刀身で軽く捌き、叩きつけたはずの羽衣の進行方向をそらしてしまったのだ。
「我の質問の途中だと言うのに…… 無粋な奴だな。貴様ハウントか? 曲がりなりにも死神の力を持つ者に憑くとは変わっておる。……いや違うな、もしやブレイズか?」
「なぜ生きている……」
静かな声とは裏腹に、奥歯を噛みしめ、目を見開き眉を寄せた表情には怒りがあふれている。忘れかけていた彼女の憎悪があらわになってきていた。
「殺したはず…… 殺したはずなのに…… なんで!」
一気に解き放たれた憤怒と同時に優奈の攻撃が再開し、そして続いた。瓦礫が生み出されていく中、その攻撃を躱し続ける死神。
「我を知っているのか? いや、我はお前を見たことがあるな。待て、思い出す。……ああ、そうか。そうだそうだ。大伴優奈だ」
何だ? 優奈の事を知っている? 攻撃の波が止まると同時に、さっきまでの冷徹な表情とは打って変わって、女死神はとても穏やかな笑顔を優奈に向けて言葉を継いだ。
「お久しぶり、ゆーちゃん。まさかブレイズになるとは思わなかったよ。どうだった? 新しい世界は楽しいかしら?」
何だと? ちょっと待て、今、何て言った? まさか、こいつが……?
「その顔で…… その声で、呼ぶな……」
優奈の声が震えている。くっと握りしめている両手も、声と同じように小刻みに震えていた。
「私を…… 私を、呼ぶなぁぁぁああああああっ!」
半狂乱になった優奈が一気に力を振るいだした。羽衣が月光を受けて輝き、その軌跡が生み出す力の奔流はまさに季節外れの大嵐だ。全く手がつけられない。
「ははは! まるであの時のようだな! 我の宿主を殺した時の再来だ! 真にあれは計算外だったぞ! その節はどうもありがとう、予定が繰り上がってしまったがおかげで我が理論を早期から実証できた。あそこまで徹底的に破壊されていたので修復に時間がかかったがな!」
これほどの嵐の中、ノクターンと名乗った死神が苦にする様子もなくうれしそうに語る。まるで踊っているかのようだ。優奈の猛攻をものともしていない。羽衣を避け、捌くだけでなく、手にした剣で軌道を変えて優奈に向けて流す。優奈も自分の力を受けることなど無いが、明らかに冷静さを欠き、大振りで力任せだった。攻撃の手が止み、にらみ合いの膠着状態が続く。優奈の目と死神の目はとても対照的だった。冷たい目のまま女性の死神が話を始めた。
「……そうだ、教えておいてやろう。先ほど我は研究熱心だと言ったな? 興味があって以前から模索していたのだよ。宿主の身体を生前からコントロールする術をな。……澤原美央と言うこの宿主ほど我の意思に同調し変化したものは無かったよ。そして非常に優秀な器だった。無意識に我が能力の一端を使う事が出来るほどにな。
我の意思に干渉を受けているとは知るはずもなく彼女は自分を中心に組織をつくり、そしていずれシェイドと成りうる多くの死を作っていった。実にすばらしい」
やはりこいつだ。優奈の事件から始まる一連の元凶が目の前にいる。怒りとも、武者震いとも、恐怖ともつかない手足の震えが僕を襲ってきた。突然ノクターンが視界から消え、その直後コンクリート壁が広くえぐれた。優奈の手から放たれた無数の水の針だ。僕もレクイエムを持ち直し左後方に向かって薙ぐ。しかし金属同士がぶつかり合う鈍い音が響き、僕の腕は振り抜かれることは無かった。紅い刀身が僕の背後に回りこもうとしていた女死神の胴を切り裂くのを止めていた。
「話は最後まで聞け」
だが僕はレクイエムに加えた力を緩めない。今ここで優奈を殺したこいつを許すわけにいかない。そんな意思を赤い刃に込める僕を見て女死神は呆れたようなため息をつき、飛び上がってレクイエムの刃から逃れた。話を続ける。
「……だが存命中の宿主に対してできるのは今はそこまでだ。最後には宿主の魂を同調させ、我が力を使用させるのが目標だ。そう、レクイエム今の貴様のように。もちろん、その力の主導を宿主に与えてしまったような貴様とは違う。あくまでその力の中心は、我だ。その基礎的な手法はほぼ確実なものとなってきた故、本格的な実験は次の宿主からだな。
今は新たな試みに挑戦していてな。複数の人間に我の力を使役させる術を研究しているのだ。死神の器の素質のある人間をいくつか探し出し我の力を授けることに成功したが、弱点がある。それは力を授けるにはノクターンを我から切り離さねばならぬと言う事。これは我が能力の一環ゆえ致し方ない。分割してみたが業を回収する能力は変わらずに存在することが分かったので我の力を行使する人形として多数の人間を利用し、魂を集める実験を開始していたのだ。我がいちいち干渉するよりも、自身の意思で行わせることでより効率的になろう。だが……」
顎でしゃくって、何かを指し示す。そちらの方にちらりと視線を移すと、倒れたまま動くことのなくなった男が倒れている。
「結局今の段階では我の力を与える事は成功したが、ご覧の有様だ。人格と才能は一致せん。それゆえこのような事態もある。宿主への干渉と同様、力を授けた者への干渉法も模索せねばならんな。さらに分け与えた力を我が元に戻したため、また一からやり直さねばならぬ。が、今回の件は好機と捉えよう。傀儡をより厳選するためのな」
「なるほど、非常に効率の良いやり方だ。死神としてかなり進化した個体と言えよう」
YOUが人間ではなくもともと死神であり、僕達と考え方が違うのは百も承知だ。いつだって論理的で合理的な彼からすれば、この死神の追及するところは究極的に死神の仕事を集約する事に繋がるのだから、高い評価に値するのだろう。だけど僕は認められない。冒涜も良いところだ。もしかしたら理解を示す事で僕達を見逃させるための口車なのかもしれない。けれどお願いだから、こいつには、こいつにだけはそんな肯定的な言葉を与えないでくれ。
「お褒めに与り光栄だよ、レクイエム。我を理解する事ができるのはやはり同じ死神、しかもより原種に近い優れた者だけだ」
「買被り過ぎだ。俺など一死神に過ぎん。そしてその一死神から見て、お前は異端だ。我々の在り方を大きく逸脱した存在は調和を乱し、滅びに近付ける存在となる。お前の発想と能力は非常に革新的で優秀だ。だが選択した道は進化ではなく、破滅であろう。お前が行った事は混乱の火種を蒔いたに過ぎぬ。なるほど、この事だったのだな。俺が以前より感じていた不安は。一刻も早く貴様を『はじまりのもと』に還さなくてはならぬ」
「還す? レクイエム、貴様ならまだしもこの宿主の青年が我を? 冗談は止せ。現在の所有者はこの宿主であろう? 貴様は自身の力を譲ったのだ。何があったのか知らぬがな。ゆえに我を断ずる役目を担うのは貴様ではなくその青年よ。出来ると思うのか?」
YOUは答えなかった。いや、分かっているのだ。悔しいけれどその通りだ。僕達に対して狂気の計画を話したということは、逃がすつもりも、逃がしてしまうようなドジを踏むこともない、そういう自信があるからだ。YOUが言っていたように、強大な死神。
「宿主の青年よ、貴様はどうだ? 今ならばそのブレイズを我に渡し、今後この地域での我の行動に干渉せぬことを条件に見逃してやっても良い。貴様では荷が重かろう。我の事は任を解かれた後、レクイエムに任せておけば良かろう?」
そんな事は分かっている。僕一人ではどうにもならないのは明白だ。だけど……
「……愚かだな」
ノクターンはため息を漏らし、やれやれとでも言いたげに目を伏せ首を横に振った。今しかない! 僕の考えを察したのだろう。優奈が僕を見た直後、左手を前に突き出し、掌に作った水球から広範囲に水の針を飛ばした。直後優奈の羽衣が向かって右からノクターンを襲う。左にも右にも避けられず羽衣を受けるしかない。それに合わせて僕も踏み込む。羽衣を受けたところにレクイエムの刃が待つ、絶好のタイミング。しかし僕の一撃は地面を捉えただけだった。
「……まぁ悪くない。遅いがな」
深々と地面に突き立ったレクイエムの柄を踏みつけ、僕を見下す。優奈の羽衣をその場でいなし、僕の一撃を造作も無く紙一重で避けてしまった。何の問題もない、運命は変わらない。そう言いたげな目だ。僕を一瞥した後、視線が優奈の方に向けられた。
「だが、一つだけ想像していなかったことがあった。それが娘、お前だ。まさか贄に選ばれた者からブレイズが現れるとは……。あんな形ですばらしい実験の舞台を失うことになるとは思わなかったよ。だが、結果としてはどうでもよい。いずれこの身体を捨て次の身体を探し、実験を続けるだけだ。
この身体に定着しているうちは吸えるだけの魂を吸わせてもらう。生前に澤原美央達が作っていった十分力のついたシェイドの回収を行い、入れ替わった後も様々な死を直接作っていたのだが……。
レクイエム、この地にいたのが貴様だったことも我の想定外の出来事だったよ。せっかく作った物の多くを奪っていくとは。仕事熱心なことだな。
……いや、貴様がやってきたのではなかったな。大した人間だよ。死神ですら手を焼くブレイズを手なずけていることも予想外だ。
……だが、もともとそれは我の物だ。返してもらおう」
ノクターンが切っ先を優奈に向けると刀身が輝き始めた。嫌な予感が走る。声を上げて全力で地を穿ったレクイエムを引き抜く。バランスを崩す前に足をどけたノクターンの、優奈を指し示していた紅い剣を払うように全力で振りぬいたが、真紅の弧が描き出されるのと同時に相手は剣を引き飛び退いた。死神の体だけあって反射速度がかなり高いだけでなく、おそらくYOUに劣らぬ歴戦の死神なのだろう。何かをなそうとしているところに対しての、不意を突くタイミングだったはずなのに躱された。だけどこの際傷を負わせられなかった事はどうでもいい。すぐさま転進し走り出す。
「優奈!」
走って脇を駆け抜ける僕の一声に反応してちらりとこちらを見たが、ノクターンの方を睨みつけ両腕を前に突き出し、水球を作り出して攻撃態勢に入っていた。
「やめろ! 逃げるんだ!」
ここまでの流れを見る限り僕達に勝ち目が無い。相手はたった一人の死神だというのに。悔しい。優奈の仇が目の前に居るというのに全く歯が立たない。完全に心を揺さぶられた優奈が冷静に戦えるようには思えない。代わって僕が意地を張って挑んだところで結果が見えている。二人がかりでもおそらく駄目だ。
悔しさを奥歯を噛み締める事でごまかし、優奈が僕を追い越して飛んでいく。さっき僕に置いていけと言った。あいつの狙いは優奈だ。追って来たら僕が壁になって阻むしかない。後ろの気配に最大限の警戒を払って走ったが、女死神は剣を持って腕組みをしたまま僕達が遠のいていくのを見ているだけだった。
「逃げる? どこに逃げると言うのだ? ふん、どこまででも行くがいい。我の結界から出られるものならば」
離れているはずなのに一向に小さくならず、すぐ傍から聞こえるような女の声。怒声でなく、落ち着いて僕を説得するかのようなその声に、かつて覚えたあの肚の底から込み上げてくるような恐怖が僕を襲ってきた。
逃げなくては。そうでなければ絶対