「凶兆の夜想曲」
覆う薄皮を貫いたような感覚に警戒心を高め、工場の中を探索する。さっきまで感じられていた領域が突然消滅した理由は二つ考えられる。一つ目が、領域の主がブレイズで、僕達の接近を悟って立ち去ったため。もう一つが、領域を作るシェイドが死神によって導かれたため。
僕達とは違う、別の死神に。
この敷地に入った瞬間に覚えた違和感と、以前にYOUから聞かされている話が合わさって、今回の事例はまず後者だと考えられた。明らかにYOUとは異なった理念で動く死神の影が色濃く映し出されるこの場から、一刻も早く立ち去るべきだ。だけどYOUが言うには、死神が近くに居る事は分かってもそれの正確な居場所や距離、そしてそれが誰なのかまではわからないのだそうだ。以前YOUが旅の途中に別の死神が居る地域に入った時に経験し、判明した事だと言う。死神の存在を感知しながら探索し、近くにまで迫った事は分かったものの、結局誰が死神であるのかまで判別する事は叶わなかったと言う事だった。あくまで興味本位であったため、容易ではないと判明した時点で止めたそうだ。
この事は僕にとって非常に有利な事だろう。YOUでも分からなかった、つまりそれは相手もこの近くに死神が来ていることに気づいているが、出会ったとしてもその死神が僕なのかどうかまではわからないと言う事。
……のはずだ。この工場の近辺に居る人間なんてほぼゼロだろうけれど、僕と遭遇しても僕がそうであると向こうが確証を得るまでは一般人に対する対応しかしてこない可能性が強い。ただ、相手は今もYOUに感知されないほど死神としての気配を消す事に長けている。もしかしたら自身の気配を消すだけでなく、他の死神をはっきりと検知する能力を有している事も考えられる。
……考えていたってしょうがない。相手は今まで僕、もといYOUを避け続けてきたんだ。すでに僕を死神と認識していれば向こうが身を隠すだろう。まだ判別できていないのなら無難な接触しかしてこないはずだ。それを期待するしかない。
この工場の敷地は広かった。敷地外から見た限り、少なくとも二棟建っていた。広さ的にはもう一棟くらいあっても不思議ではない。入ってみると光源など全く無く、屋内は極めて暗い。頭上を走る無数のパイプや、中央に設置されているコンベヤーと思われる機械が外から入る僅かな月明かりで見えるけれど、詳細などは分からない。これだけ無数に機材があるのだから未だにこの工場が稼働している可能性はあるが、逆にこれだけ機材が残っているにも関わらず一切のランプ系等の明かりが無いと言う事が、この工場が放棄されてしまっている事を物語っていた。こんな規模の工場が廃棄になるのだから、世の中の不景気は本当に深刻な物だと感じざるを得ない。
とても静かで、人を始めとして生き物の気配を感じない。静かではあるが、寒風に木々の枝や枯草がそよぐ音が聞こえてくる。先程まで居たはずのここの主がすでに無くなってしまった事の証明でもある。
とりあえず何の気配も感じない。僅かに光を感じる方に向かって歩き、扉を押し開けそのままこの工場の中を抜けた。暗闇と言うにふさわしい場所に長く居たためか、外がやけに明るく感じる。正面には思ったとおりに別棟の工場が建っていた。正面の棟と僕が出てきた棟をアスファルトで舗装された通路が結んで、その丁度中央を中型のトラックくらいなら余裕で行き来できそうな幅を持つ道路が横切る。だけど人も車も通りが絶えて長く経つ事を物語るように路肩には雑草が生い茂り、あまつさえ路面のひびからも枯れ草が顔をのぞかせていた。
僕の正面に伸びる道が行き着く先にある工場の入り口は片方の扉だけが開け放たれていた。吸い寄せられるようにそちらに向かう。吹き溜まりになっているのか、敷地内の樹木からの落ち葉がその入り口付近にたくさん集まっていた。だが開け放たれた扉の前には不自然に少ない。引き開けられた扉と壁の間に多く枯葉が認められたのは扉に押しのけられてそこに集められたからだろう。そして屋内に入り込んでいる葉の量は少し。
おのずと心拍が速くなる。無言のまま僕は息を大きく吸って長く吐き出した。……ここだ。
今この暗闇の中に足を踏み入れる事は危険でしかない。開け放たれた魔物の顎の中に飛び込むのに同義。前に立っているだけで、無数の黒い腕がこの扉の奥から伸びてきて僕を中へと引きずり込もうとするような錯覚がする。この先にはやはりただならぬ不吉が在る。気を緩めれば僕を飲み込もうとし続けている闇を凝視していると、カツ、カツ、と中からかすかな音が響いてきた。
「引き返すか、隠れろ。絶対に悟られるな」
YOUに言われたとおり扉から離れ、生い茂る枯れ草に紛れる様にして地に伏せた。全神経を集中して開け放たれた扉を観察していたが、聞こえてきた音に違和感を覚えた。低く大きめな音と硬く高めの音がばらばらに交じり合っている。この音は足音だろう。だとすると、二人? YOUはずっと孤独に死神として役割を果たしてきたと言う。そして一つの地域には一人の死神しかいないと言っていた。それでは、この足音の主達は死神ではないのだろうか?
僕が凝視する暗がりからシルエットが浮かび上がる。徐々に近づいてくるに従い、やはりそれは二人の人間だと知れた。二人とも同じくらいの身長だ。一人は髪が短く、肩幅から見てもやはり男性だろう。だがもう一人は髪が長く線が細い。開け放たれた扉から差し込んでいる月明かりに映し出されたその姿は、身に着けたタイトな服が艶かしい肢体を際立たせていた。背は高いが女性だ。この二人が何者なのか知れない以上、そしてYOUが警告する死神の陰が色濃いこの工場内で、僕の事に気付かれてはいけない。そんな緊張に満ちた人間が近くに居る事に気付くはずなく、奥の二人は喋りながら外に向かってきた。
「やっと明かりが見えてきたな。それじゃあ……」
「お誘いなら断るわ。これ以上に親密な仲になりたいの?」
「かっははははは、見抜くねぇ! アンタ本当に上物だな…… わかってるなら話は早ぇえ。どうだ、俺とだけ付き合わねえか?」
「ストレートに言ってくれる人は嫌いじゃないわ。でも残念。あなたと私は会員の間柄でしかないの」
「おいおいおい、釣れねえ事言うなよ。こんな刺激的なパーティーに誘っといて、終わっちまったら、はい解散? まだ物足りねぇンだぜ、こっちはよ」
「思い上がらないほうが良いわ。感じているよりも精を取られてるものよ。もちろん魂もね」
「はっ 俺としては与えてえんだけどな。食うばっかりじゃねえか」
「これ以上抜いたら死ぬかもしれないわよ?」
「アンタとなら望むところだが…… なあ?」
「バカ。折角なんだからもっと楽しみなさい」
何者だろう。死神なのかどうかは判断しかねるが、少なくともこの棟の中で何かをしてきた事は間違いなさそうだ。そして二人の力関係はどうやら女が主で男が従。草むらに伏してより一層気配を消している僕の横を通過していった。
確実に僕に気付くことなく遠ざかっていく。よし…… そのまま居なくなってくれ。安心、油断する事なく気配を消し続けることに徹する。もう少し、もう少しだ。
「何か光ったな…… おい、何だぁ? あそこに何か居んじゃねえか」
くそ! 何で振り向いたんだよ! 身に着けた物で何か光る物があったか? 緊張しすぎて、自分で立てた音に気付かなかったとでも言うのか? それとも偶然か? いずれにしても現実は僕にいつだって優しくない。こんな時まで裏切らない自分の運の悪さに呆れてしまう。
「よお、こんな夜中に隠れんぼか? こんな所に入り込んでちゃあいけねえぜ。行方不明になっても誰も探しに来やしねぇからなぁ」
「待ちなさい! 余計なことは!」
「かっ! バケモノをやった後なんだ、生きたヤツを一人くらい食ったって関係ねえだろうよ!」
あからさまな殺気を僕に向けながら男が踵を返して向かってくる。背を向けて逃げ出すにはもう遅い。しかも逃げ込もうにもそこは暗闇の工場棟だ。出口から遠のいてしまうだけ。僕も草むらから立ち上がる。呼吸を乱さないようにすっと一息吸ってわずかに止め、吐きながら相対した。
呼び止める女を無視して迫ってくる男は、ずっ、と左袖から何かを引き抜いた。月光に照らされたそれは、鈍い光を放つ剣。大きく振りかぶると、勢いよく僕に向かって振り下ろされた。相手は右手で一本で剣を操っている。まっすぐ見据え、柄を握る相手の右手を両手で捕らえた後、外に捻り上げる。突進して来た相手の勢いをそのままに、腕を掴んだまま相手の右側に滑り込むように回り、腕を抱え込むように脇を固めて体重を預け一緒に倒れ込んだ。全部YOUの指示通りだ。地を舐めた相手が抵抗に出る前にさらに力を込めて腕を捻ると、握っていた力が緩んだようで剣を落とした。すぐに立ち上がってこぼれ落ちた剣を右足で草むらに蹴り飛ばした。不意な力を加えられて痛めた右腕を庇う男はまだ立ち上がってこない。
ここに留まる意味が全く無い。こんな護身術、初めてやった。相手が油断していたから反応できたけど、次は無い。すぐに元来た扉へ向かって走る。我ながら無駄の無い見事な逃走の流れだ。しかし一抹の不安が胸をよぎる。さっき蹴飛ばした剣、柄が金色をしていなかったか?
「待ちやが、れ!」
僕の背に向かって投げつけられたその叫びは不自然に途切れていて、遅れて言葉にならない叫びが建物の間にこだました。さすがに驚いた僕は逃げるその足を止めて振り返り、そして見た。そこにあった光景は、一秒でも早く逃げなくてはいけないと分かっているのに、足をその場に縫い止めてしまう程に混乱したものだった。
「な…… んで……」
「予定が変わった。お前はもう要らぬ」
腕組みをした背の高い女がいつの間にかそこに居て、男の背中を左足で踏みつけていた。ただそれだけなら、へまをした仲間を懲罰している光景なのかもしれない。だが振り向いた僕の目の前に飛び込んできたのは、踏みつけた背から再び上げた彼女の踵に続く異常な物。あれは以前見たことがある。月明かりに照らし出された女の靴から赤い雫が滴り落ちた。キラリと月光を反射した冷たい輝きが、もう一度地に伏す男の背中に刺し込まれた。
「叫べぬよう両方の肺に穴を開けてやった。男らしく静かに死を噛みしめながら逝くがいい。……そこの青年よ。どうだ、面白いだろう? 人間と言う物は本当によく技巧を凝らす。我は感心してならぬよ」
美しい笑顔を見せながら履いているブーツを僕に示す。あれは、ショーコと呼ばれていた女の子が履いていた物と同じ。何故こんな物を持っているんだ? さらに急に口調が変わっただけでなく、放つ威圧がさっきとは桁違いだ。場の空気が一瞬で張り詰める。ピリピリと肌に刺さるような錯覚を得るほどに。きれいな笑顔に隠された常軌を逸する狂気が僕を飲み込む。目の前にある異常事態に僕の頭がついていかない。
そんな僕を嘲笑うかのように女が核心を突く一言を発した。
「青年よ。貴様、見えていたな? 紅く輝く我の力が」
しまった! やはりあれは死神の武器。僕が自分からばらしたんだ、死神の力を持っていると。最悪の予想通り、こいつが死神だ。じゃあ、さっきの男は? そんな疑問は今はどうでも良い。この背を向けて全力で駆け出したが、僕が出てきた棟への入り口の前には涼しい顔をした女がすでに立っている。異常に速い。退路を断たれてしまった。さらに腰に手を当て、造作もないとでも言いたげだ。
「どこへ行くのだ? せっかく同類と出会ったのだ。積もる話もあるのではないのかね?」
「構えろ!」
頭の中に大きく響く。YOUの緊迫感に満ちた言葉を受け、反射的にレクイエムを引き抜いた。今までに感じたことがないほどの不安感に襲われ心拍数が上がり続ける。相当に危険だ。僕なんかよりも危険性を察知する能力の高いYOUが、死力を尽くして逃げろと叫ぶ程の危機。自分の手足が震えているのが分かる。優位にあるのは明らかに向こうだ。だが僕を蔑む様にほくそ笑んでいた正面の女から、突然不敵な笑みが消えた。
「貴様、その大鎌は…… まさかレクイエムか!」
驚愕の表情を浮かべた端正な顔立ちの死神から余裕が消える。レクイエム、YOUを知っている? 様々な疑問が湧くが今は置いておかなくてはいけない。真に重要なのはこの危機から脱出する事のみ。だけど、出来るのか? 不安に押し潰されそうな僕を余所に、目の前の死神は得心いった様に腕を組みながら頷いている。
「なるほどなるほど。かような大死神を前に素手であるのは失礼だな。我が魂と切り離したこの力、今一度返してもらうことにしよう」
右手を前に突き出すと、彼女の正面の空間が光で囲まれ、箱のようになった。重なるようにいくつもいくつも生み出されていくうちに、その箱の中に洋剣の姿が明らかになっていく。刀身が鮮やかな真紅に、柄が曇りのない輝かしい黄金になると、光の箱がぱりんっと軽い音を立てて砕け散り、収められていた真紅の剣が女の手に握られた。
「我が銘はノクターン。静かな夜に彼方より届く、すべての魂へ安らぎを与える物哀しげな旋律よ」
月明かりに照らされたその刃は、ただただ美しく、そして冷たく、紅く輝いていた。