「渇望」
終に僕はやり遂げた。長い長い日々だった。この日をどれだけ待ち望んだことだろう。
手にしたときは真っ白だった。一体どうしたらいいのか分からないまま、指針もないまま動き始めたときは絶望にも近い感情が支配した。
惰性で続けていくうちにいくつも困難に突き当たり、放棄してそこから逃げ出したこともある。自分の弱さから目を逸らし、楽な方を探す事に躍起になる毎日が続いた。だけど……。僕は覚悟を決めた。
やらなくてはいけない。やり遂げなくてはならない。
そう決意してから僕の前に広がったのは更なる茨の道。幾度も挫けそうになった。楽な道が見え、そっちに足を向けたくなった時もあった。そんな時、僕はこう考えることにした。
もしまた、この道を歩いている足を止めたらどうなるだろう。
その時はきっと二度と歩き出さない。一番よく知っている僕の事だから間違いない。
それなら止まる事はできない。臆病で、弱くて、いつも隠れてばかりいた僕だって、歩く事ならできる。誰よりも上手くなる必要なんてない。誰よりも速くなくていい。僕に必要なのは最後まで続けるという意志。
歩きながら考えたらいい。出来るのか、出来ないのかなんてことは。たとえ今は出来ないと感じても、進んでいるうちにいつか何とかなるかもしれないんだから。
そう信じて僕は歩き、そしてやり遂げた。
刹那の事とは知っているけれど、心地よい達成感が僕の心を占めつくす。
僕だって、やれるんだ、と。
って、卒論の話なんですけどね! やっと完成させて提出を終え、そして何とか卒業できそうな状況になりました。だけど困ったことに就職は全然決まらない。どうしてもっと早く動かなかったかな。去年高志に言われたことがずっと耳に残っている。
「事故以来ちょっとはマジメになったのはいいけどよ、遅いんだよ!」
……ええ、まったくそのとおりです。
僕の将来はいまだに見えてこないが、義務の方はそろそろ終わりが見えてきた。純白だったレクイエムの刃も、今ではかなり紅くなっている。だけど完全に修復されたとしても、僕はまだ続けさせてもらう。ずっと前にYOUに伝えたが、彼も強制終了させるつもりは無いと答えてくれた。YOUの代わりに僕が死神として「はじまりのもと」に逝けなかった非業の魂を導き続けるのなら、気が済むまで手にしていたら良いと。
そういえば近頃あまりYOUの声を聞かなくなった。僕を信用している、という面もある程度出てきているのだろうが、それはそれでどうも落ち着かない。何だかんだでYOUが様々な指示を適切にくれた事で、僕は今まで彼の代理をこなせてきた。それが無くなり僕の裁量に任されるようになると、小言のように感じてきたくせに無かったら無かったで不安が一気に増してくる。悪いこと、面倒なことが起きるんじゃないか。何かの凶兆のようだ。
そんなことを考えていた矢先、YOUの声が頭に響いた。
……
…
YOUが指示するところに向かうと、例のごとく音の無い世界が広がり緊張感が漂った。この領域には近頃よく遭遇するような違和感は無かった。発生と同時にYOUが感知したもの。
ここはそんなに築年数が経っていないマンションだ。領域の中心は、今僕の目の前にある一室。誰も住んでいないようだ。他の部屋と違って表札もないし鍵がかかっている。これでは入れない。窓もこちらの通路側には当然無くて、どうやって不法侵入するか頭を悩ませていた。優奈がふわふわと戻ってきた。ベランダから覗いてみたが、やはり人が住んでいる気配は無いとの事だ。住人がいない事は仕事をする上では好都合ではあるけれど、さあ、どうやって入ろうか。
案その一。壁伝いに何とかベランダ側にまわってそこから入る。しかしこの部屋があるのは五階。転落したら死神の身体だってどうなるかわからない。実験するつもりもない。そもそもそんなことが簡単にできるような建物の造りだったならここは空き巣の恰好の狙い場になるだろう。
案その二。ピッキングして侵入。安全が売りだ。幸いシェイドの領域の中では僕達以外の時間は止まっているのだから、通報されたり邪魔をされる心配が無い。だけど根本的な問題がひとつ。僕にはその技術が無い。
案その三。このマンションの管理室にアタック。きっとマスターキーなどがある。それを入手して入る。一番確実。ただし管理室がどこにあるのかが不明。あるのであればおそらく最上階か一階のどこかだろう。しかしその管理室も管理人が常駐しているか分からないし、そもそもそこにも施錠されていたらそこで終了だ。鍵を別の不動産会社が管理しているようだったら出直すしかない。時間が経ってしまう。
考えていたって仕方ないのでとりあえず何かアクションを起こそう。まずは第三案を採用と言う事で、管理室を探す事から始めることにした。
それにしてもずいぶんと広い領域だ。このマンション一棟がまるっと収まってしまっている。領域の広さはシェイドの影響が及ぶ範囲に比例するので、大きな領域と言うのはそれだけでシェイドの力が巨大である事を示唆する。目覚めたばかりでこの状態であるのだから、速やかに、出来るだけ本体が覚醒する前に対処しなくてはいけない。急いで鍵を取ってこよう。
がちゃん
……ん? 耳馴染みのある、重い金属が収納されたような音が背後からした。続いて、きぃっと擦れる音が立った。振り向くとさっきまで確実に鍵がかかって閉まっていた扉が開いている。まさか向こうが招き入れているのか?
だがその部屋からは何かが出てくるような気配は無い。代わりに少し重そうなドアの正面には優奈が立っていて、左手で室内を指して導いている。まるで来客を招く部屋の主であるかのように。
「あの、えーっと?」
「はい?」
優奈の力なら破壊して開けるのも簡単だろう。だけど開け放たれたドアには欠けや穴の開いたところは無い。ドアノブも壊れていない。ドアをすり抜けて内側からあけたのか。霊体って一体どうなっているんだろう。向こうからは僕に触れられるのに、僕はレクイエムを介さなければ触れることができない。
「あ、いえ。こうやって」
僕の推測を悟ったように、右手の人差し指をピンと立てる。そこに小さな水玉が生まれた。そのまま鍵穴に指を近づけていく。すぅっと鍵穴に吸い込まれていき……
がちゃん
「はい」
「うん、ありがとう」
染み渡らせた水で合鍵を作ってしまった。本当に何でもありだ。この子、放っておいたら大変なことになる。プライベートなんてあったもんじゃない。引き出しに鍵を付けようが全くの無意味だ。ひょっとして、もう? ……隠そうとするから探されると言うのも一理ある。もうこの際諦めようか。
……
…
その一室に入って本体を探す。入ってすぐの扉は風呂場だった。ここは何の異常も見当たらなかったのでさらに奥の扉を開けた。右手にはキッチン、左手にはリビング。その奥にはまた二つの扉がある。間取は2LDKで、リビングの大きさから見て奥の二間も結構な広さがあると思われた。備え付けではないようで、椅子や机などの調度品は置かれておらず、この中で暴れることになったとしても障害になるような物はない。対策を立てつつ窓側の部屋から開ける。そこは洋室で、やはり何も置かれていない。特に収納スペースもなく、何かが潜むことができるような場所はない。隣の戸を引き開けるとそこは和室だった。……そこにも居ない。目線を奥にやるとこの部屋の一角に押入れと思われる部分がある。そこも引き開けてみた。
……居た。
ガリガリにやせ細った子供が一人。特に攻撃してくるわけでもない。じっと息を潜めているかのようだ。シェイドは眠っている間自分の領域に入った者に対して自動的に攻撃する性質がある。少なくとも僕が相対してきた者達は全員そうだった。今僕と一緒にいる優奈もそうだった。そのためここに来る間もずっと、どこから来るかわからない攻撃に対して気を張ってきたのだ。集中力を極限まで高めないといけないこの時間は本当に疲労を誘う。だけど今回は何も無かった。それが何よりも引っかかる。
目覚める様子も無い。そのまま難なく導くことができた。だが、覚えた違和感を拭う事ができないままだ。攻撃してこないどころか、抵抗もない。ただされるがまま。
そして主を導いたと言うのに領域が消滅しない。おかしい。
「裕也さん……っ」
優奈の声とほぼ同時に僕も変な気配を感じて振り返った。息を呑んだ次の瞬間、僕の背中に冷たい物が走るのと同時に総毛だった。何だ、これ……っ
和室の壁からたくさんの幼い子供たちが生えている。気味が悪いなんてもんじゃない。そしてどの子もうつろな目をしていて生気をまるで感じられない。
……もちろんどの子も一度死んでいるのだが。そんなツッコミはこの際どうでもいい。
壁からどんどん湧いてきて、床にぼとぼとと落ちていく。口を半開きにして僕と優奈の方を見て、立ち上がれる子は立ち上がり、立ち上がれない子は床を這いずって僕達の方に近づく。力なく、よろよろと緩慢に。待っていた、とでもと言うかのように両手を伸ばしてつかみかかろうと迫る。映画やゲームで見たゾンビそのものの動きだ。
優奈が水球を放ち、正面の子供達を押し退け活路を開いてくれた。とても鈍いので捕まることなくリビングにまで逃げることができた。数が多すぎて一人ずつ導いていようものなら別の子に捕まってしまう。捕まったらどうなるかわかったものではないので、近づかないのが鉄則だ。
逃げながら対策を考えていると、リビングの方にゆっくり押し寄せてきた子供たちが一人、また一人とくっついていき、どんどん大きくなっていく。特に手が巨大化していった。最終的にすべての子供たちが融合し部屋いっぱいの大きさになり、とてつもなく大きな腕と掌を持つ子供となった。
彼らで一つ。この領域の主の真の姿。
巨大な子供がやはり緩慢な動きで僕達に抱きつこうとする。だけどそんなにゆっくりな動きに捕まるほど僕ものんびりしていない。障害物が無いのでリビングの中央に現れた本体を中心に回るように背後に回り、レクイエムを振り下ろした。しかし思いの外すばやく巨大な左腕が振り回されたので攻撃を中断し回避せざるを得なかった。室内だからといって意外とこの巨体にとって不利と言うことでもないようだ。むしろ出口を塞がれると一気にこちらが窮地に立たされる。出た方が良さそうだ。巨大な右腕が迫るがそれを掻い潜り、元来た入り口から外に出た。シェイドもゆっくり追いかけてきて、また腕を伸ばしてきた。僕達はそれを再びかわしたが、大きな掌が通路においてあった鉢植えの木を掴んだ。一気に葉が落ちる。幹はがさがさに乾き、バキバキと音を立てて崩れ落ちてしまった。そうなってしまった鉢植えを見てシェイドが悲しそうにあー、あー、と泣く。
……どこかおかしい。そしてまたゆっくり、僕達の方に泣きながら迫る。掴まれたらあんな風に生命力を奪われてしまうのか。ひとたまりもない。とにかくうまく導く状況を作るまでひたすら逃げることにしよう。
「あんな奴……」
「待て、子供だぞ! それに様子がおかしい!」
自分に襲いくる者に対して厳しい優奈を制し、とりあえず距離をとることに専念した。
……
…
あんなに敵意が感じられないシェイドは初めてだった。ただ僕達に抱きつこうとするだけ。そしてあの、青々と茂っていた小さな木が枯れ落ちてしまった時に見せた、醜悪なのだが悲しみに歪みきったあの表情が胸に刺さる。
「孤児……か?」
「……いいえ、きっとあれは……」
家族と離れたまま命を落とし、寂しく一人漂ううちになぜかあそこの部屋にたどり着き、そしてどんどん同じような魂が集まってあのような形になったのだろうか。それであればあのような悲哀に満ちた顔と行動に説明が付く。だが優奈にとって僕の考えはすっきりと落ちない解答のようだった。
もう一度振り返ってみる。今の日本の環境からは考えられない一人目の子供の姿、そして他のすべての子供たちの生気のまったく無い瞳。
彼らは生前から家族に見放され、孤独しか知らない子供達。愛情を知るはずの時期にまったく愛情を与えられなかった。そして嫌悪、憎悪すら与えられなかった。
完全な放棄を受けた子供達。
優奈はきっとそうだと言う。もしそうなら、想像以上にあの子達は苦しんでいる。怒りも憎しみもわからず、ただ一つわかっているのは、自分達の心が飢えていること。だが与えられなかった愛情を少しでも感じようと自分からどれだけ手を伸ばしても、自分が与え、感じるのは絶望と悲痛。
決して慰められることが無い孤独。
「……急ごう」
立ち上がった僕の言葉に彼女も無言で頷いた。