「濁世(じょくせ)」
「濁世」:にごり、けがれた世。道義のすたれた時代。仏教用語
やめ、やめろ! 頼むっ いえすみません! お願いです! 助けてください!
おねが…… あぁあああああああああああああああああああああああああああああああああっ
ぐぇっ…… げぇえっ
やめて、やめて! ホントにお願いだから!
いや、いやぁあああああああっ!
あ、 か…… は あ……
だし…… たす……
ご…… っは ……あ
返…… して…… あたしの手… 取って…… 取ってよ……
真っ暗な闇の中、四方から断末魔が響き渡っている。巨大な鎌を手にした黒髪の青年が濁流に飲まれたかのように流れていった。青年を飲み込んだ奔流は留まるところを知らないかのように渦を巻き、慟哭が彼を引き千切ろうとする。現に彼は左手に鎌を抱え、右手で己の胸元を押さえ苦痛に顔を歪めていた。
悲痛と怨嗟の叫びが共鳴しながらどんどん大きくなっていき、いよいよ青年の脳を焼き切らんばかりになってきたところでぴたりと途切れた。
静寂が戻り青年が解放された瞬間、彼を捕らえていた奔流は突如として治まり彼を放り出した。衝撃が身体を突き抜けるとともに世界が開く。
状況が落ち着いた事に胸を撫で下ろした彼は、大きく溜め息を一つ吐くと周りを見渡した。先程まで彼が拘束されていた空間のようだが、時刻が異なる。今は窓から外の闇が浸み込んでいた。目が慣れてくると、わずかにだが周囲の状況が見えてきた。時々ノイズが走るように景色が歪む。
拘束され床に転がされていたうえ、突然獰猛な魚群に襲われた青年はここがどこなのか知るはずもない。息を乱さぬよう大きく吸って長く吐き、すぐに動き出せるよう筋を緩めるが五感を尖らせ、緊張を解くこと無く観察する。
太めの四角柱が六本、彼の左側にあるこの空間の出入り口のすぐ右横に広めのカウンターが置かれ、壁にはところどころに何かを収めるかのような窪みがある。打ちっ放しのコンクリートがところどころ剥き出しの内装のうえ、天井を見渡すが照明の一つもない。おそらく建設途中で事業が破綻し、誰も立ち寄ることが無くなった施設だろう。おそらく取り壊しの目途も立っておらずそのまま放置されていると想像された。
青年の傍らにふわりとわずかに輝く何かがひらめいた。彼がそちらに顔を向けると、少しだけ宙に浮いた短めの髪をした少女がいた。体の周りに暗闇の中でうっすらと光を放つ羽衣を漂わせ、青年の方を見ていた。顔立ちの整った美しい少女だったが表情は無かった。彼女に対し青年は微笑みかけ、おはよう、と一声だけかけた。
その直後、青年の周囲に一際大きくノイズが走る。
起こった異変に対して意識を走らせた青年の顔に緊張が浮かぶ。その暗い空間に数人の人間がいた。先程までこの空間には大鎌を持った青年と、宙に浮かぶ少女の他には誰もいなかった。一人は髪の長い女性、他に三人の男性。青年が身構えるが、新しく現れた人間達は初めにこの空間に立っていた者達に気づいていないかのようで、彼らの誰もが壁の一画に向かって立っていた。同時に何かよく分からないくぐもった音が部屋中に響きだした。もともと何かを納める予定だったのだろう、そこには幅の狭い本棚、あるいは観葉植物用の大きな植木鉢が入るくらいの奥行きを持つ空間があった。鎌を携えた青年はその集団の背後に進み、彼らが見ている窪地を覗き込んだ。何かがもぞもぞと動いていた。この部屋に響く音を立てていたのもそれだった。青年は目を凝らしてよく見た。
猿轡をされた男性だ。
腕組みをしてにやにやと薄ら笑いを浮かべながら見ていた男が歩み寄り、その猿轡を乱暴にむしり取った。ようやく自由になった唇と舌を懸命に使って何かを喚いている。しかし感情が先走ってしまっており、何を言っているのかよくわからない。後ろに縛られていた両腕を自由にされた途端、拘束を解いた男の肩につかみかかって、やはり早口に何か話し始めた。しかし収められた壁から出てこようとしない。壁の中で喚き続ける男にうんざりしたようで、肩をつかまれていた男はその醜態を鼻で笑った次の瞬間、硬く握った拳でもって壁の男の顔面を打ちつけた。肩をつかんでいた両手を離し、反射的に顔を守る姿勢を取る。たくさんの音を発していたその口からは、今では助けを請う言葉しか出てこない。もう一度すぐにでも殴りつけられるように拳を振り上げていた男は、その姿を見てもう一度鼻で笑うと踵を返して壁から離れていった。
呆れ果てたように壁の間を見ていた女性が一歩踏み出し、収められた男と向き合う。体に沿わせて下ろした左腕の肘辺りを右手でつかんだまま、やおら右膝を上げた。彼女の腰の辺りまで膝が上げると少しつま先を外に向ける。シャキッと金属が滑り出る音が立つと、彼女の履くブーツのヒールの辺りから冷ややかな青白い光が放たれた。冷たく光った踵を、想像以上の速度でまっすぐ蹴りこむ。怯え、懇願し続けていた男が一瞬静かになった。だが静かであったのもほんの僅かな間で、今度は耳を劈くような悲鳴で部屋中が置き換わった。
「ったく、うるっさいってのよ。助けて、って言ったって助かるワケないじゃない。今の方がずーっとステキ…… ぞくぞくするわ」
左手を自身の頬にそえて、快感に酔いしれるかのような恍惚とした表情を浮かべながら、壁に収められていた男の腹から右脚を引き抜く。そんなことをされていると言うのに壁の男は一向に倒れる様子が無い。良く見ると彼の足首から下はコンクリートに埋められていた。もう固まってきているのか、それとも中で縛られているのか、彼の両足はそこから引き抜かれることはなかった。背中はほとんど壁に触れているような状態で、しゃがむことも倒れることもできない。
「ドSだな、お前ホントに。色気無ぇよ男の悲鳴なんてよ」
「そう? ……でもアンタ達も相当な変態よね」
「言うなや、わかっとんねん。そこのが最低やけどな」
男の一人が顎をしゃくって示した方を見ると二つほど人の大きさをした影があった。
「ホント、ぞっとする。女の敵ね」
「これは俺も理解できねぇ。そっちは普通なんで」
「集まってる時点で普通を主張? あはははは! 何言ってんのよ、ホント」
「そやそや。俺ら全員社会不適合者、ってな」
全員が間違いない、と声をそろえて明るく笑った。
その光景を目にしていた青年はその手に持つ大鎌を横に一閃した。だが彼の持つ凶器は目の前の物に対して何の影響も示さなかった。
「くそ……」
青年にも初めからわかっていたようだ。これはこの閉ざされた世界の主の記録。
少しずつ少しずつ悲鳴が小さくなっていく。ここならば部外者に邪魔されることがないと知っている女性は壁の窪みに向かって何度も何度も蹴りを入れた。蹴りが入れられる度に、掠れていく悲鳴がひと際大きくなる。しかしそれも次第に無くなり、周囲には再び恐ろしいほどの静寂が戻ってきていた。
その光景を見ていた大鎌を持つ青年が、同じくそれを見ていただろう少女の方を見ると、彼女は宙に浮いたまま頭を抱えて震えていた。今まで共に多種多様な凄惨な場を見てきた彼も、困惑と動揺を隠せない様子の彼女の姿に驚き、かける言葉を失っていた。眼下の光景はあたかも彼女がその身に刻みつけられた呪わしい過去の再現。
「……お終いね。ねぇ、それももう動かないんでしょ? あ…… 動かないからいい、とか言わないでしょね? うぅ、さすがに寒気する。いい加減ここに入れてさっさと埋めちゃおうよ。ここからが時間掛かるんだし……」
赤黒い滴をこぼす踵を拭い、刃を収めた女が床の上の人影に声をかける。しょうがない、とでも言いたげな様子で頭をかきながら身体を起こした男は組み伏せていたもう一つの物を担ぎ上げ、壁の中に捩じ込んだ。用意されていた木の板をはめ込み、そこへさらにセメントを塗りこんでいく。壁の中に荷物を押し込んだ男がもう一度四人から離れ、床に落ちていた何かを拾い上げて持ってきた。それは棒のようで、先端はいくつかに枝分かれしていた。その枝が一つにまとまった辺りから少し根元に近い部分で、男の歩行のリズムにあわせて柔軟に動いた。拾ってきたそれをまだ完全に塞ぎきっていない壁の中に放り込む。同じく床に散乱していた布地もそこに入れた。他に忘れ物はないか、と問う仲間に対し肯定の言葉を返すと仕事に加わった。作業も仕上げに近づいていく。ある者は非常に面倒そうに、またある者は鼻歌混じりに地道に続けていく。少しずつそこにスペースがあったことも分からないようになっていった。
涙をこぼしながら、声にならない泣き声を上げながら、宙に浮いた少女がその羽衣を振り回した。天井が崩れ柱が砕ける。いち早く駆け出し、その猛威から逃れた青年が必死に少女の名を叫ぶ。まったく耳に届いていないようだった。彼女の悲鳴に負けないよう、大きく、大きく名前を呼び声をかけ続けた。
ひとしきり暴れ、慟哭が治まると同時に、少女はふらふらと漂うようにして青年のもとに近づいていった。彼に縋り付くように、力なく抱きつくようにして、彼がいつも腰のあたりに着けているカバーの付いた何かの中に、吸い込まれるようにして消えて行った。悔しさに満ちた目をしたままの青年は、床を強く蹴り、この世界の狂気を睨みつけた。
青年の目の前に広がる光景に変化が出始めた。二人の人間を狭い隙間に押し込んだ五人の人間の後ろ姿が少しずつ薄くなっていく。
突如新しく出来た壁を中心に波が立った。直後大口を開けた巨大な魚が壁から飛び出し、再び大きな波紋を作って床へと潜っていった。先程彼を飲み込んだ魚と同じ物であろう。青年の前に居たはずの五人の姿は無くなっていた。一瞬見開いた目もすぐに鋭くなり、大鎌を両手に持ち直した。しかし力みすぎることなく一つ大きく息をつき、むしろ力を抜いた。重心をやや爪先に乗せる。耳を澄ませ、視野を広く取る。その所作の一つ一つが彼が今までに多くの経験を積んできたことを物語っていた。
すっ、と床に小さく波が立った。その波はすぐに消えた。この屋内には光源は無く、闇夜に慣れた目でも些細な変化は見極めがたい。だが青年はそれに気付いていた。しかし大きく動くことは無かった。時々同じような波が立ったがいずれもわずかで、彼に飛びかかってくることも無かった。
一歩下がる時、靴底についていた砂利と床がこすれあった。刹那の間もなく横の壁からこの空間の主が飛び出し、その口を閉じる際大きな音を立てて再び床に戻っていった。間一髪飲み込まれることを回避した青年は跳ねた心拍を抑えながら、四方と上下の水面の様子を覗う。相変わらず小さな波が時々起こるだけで、大きな動きを見せない。
彼の右側にかすかな波が立った直後、少女の羽衣によって砕かれた天井の瓦礫の一部が落下した。同時に波紋から巨大魚が飛び出し、瓦礫は飲み込まれ床下へと消えて行った。その異様な光景を目にした青年は一つの仮説を立て、それを検証することにした。静かに、静かにその時を待つ。彼の周囲の床に何度か波紋が立ったが、青年は動かなかった。餌を探し求めるこの空間の主が、近くに手頃な物を見つけられなくて諦め離れるのを待つ。床面に小さく立つ波紋が青年から遠ざかって行くのを確認すると、彼はあえて強く床を蹴り、音を立てて前方に飛び出した。駆け抜けた彼の真後ろを横切るように主が飛ぶ。わずかに狙いを逸らした主が餌を口にすることなく床に潜ると、青年はすぐにもう一度同じことをした。主は潜った床面からさして離れていないところから再度勢いよく姿を現し、天井へと飛び込んでいった。
走る時に邪魔にならぬよう大鎌を体にひきつけるように持っていた青年は二度うなずきその場に留まり身を屈め、手にした鎌の柄尻を床に付けてその時を待った。
波紋が彼の右前方にかすかに立った瞬間、青年は柄尻で床を強く擦る。強く引っかいた鈍い音が立った次の瞬間、波を立てて巨大な影が姿を現し、大きく口を開いたまま宙を舞った。高く飛び上がったその巨体が身を屈めた青年の真上を通り抜けるまさにその時、その切っ先で大きく虹を描くように大鎌を振りぬいた。
主は今までのように滑らかな動きで水面に戻らなかった。身を捩じらせ、悶えるように大きく床を波立たせて落着した後、必死に刃の届かない底へと逃げていった。青年も立ち上がり、わずかな気配も見逃さないように感覚を研いでいく。
何度も巨体が宙を舞った。先程までとは違い、狙いを定めている様子はない。ただ痛みから逃れるためだけに必死に跳ねているようにも見えた。彼の刃が届くところに飛び上がった時、青年は機を逃さず上から下へ真っ直ぐ振り下ろした。床に落ちた主は底に逃げていく力も無く、その巨体の側面を上にして浮かび上がっていた。
大鎌を手にしたまま、青年はこの部屋の主が最初に姿を現した壁に向かって歩いていく。ぼんやりと、周囲の壁とは色を異にするところが光っている。そこに手を当て、目を閉じた。
「……今、出してあげるから。また少し痛むだろうけど、我慢してくれよ」
そう呟いた後に大鎌を両手に構え、大きく横にスイングして一旦止めた。そして人間の胸の高さあたりで壁に向かって刃を放った。
刃はその奥にあるものを隠す石の壁を難なく貫き、光を放つ大元に食い込んだ。それと同時にそれまでとは異なる強い黄金色の光が壁の奥から放たれ、この空間を満たしていった。
……
かすかな声が、刃を伝って青年の身体に響く。
それは、謝辞の言葉だった。
そしてこの世界のすべてが擦れ、光の中に消え失せた。
……
…
光が弱まり、今なら目を開けられる。青年が前に立つ壁は一部が崩れ、木製の板がむき出しになっていた。先程までこの水槽の中を泳ぎまわっていた石の魚は、今はもう一匹も居ない。
板と板の隙間の奥に空間がある。青年が確かめるようにそこを覗き込む。今はまだ外に日があって、この建物の中にも僅かながら光が入ってきている。そのかすかな光が暗闇に閉じ込められた物を照らす。その中には二組の骨組みが見えた。
彼らに背を向け、青年は赤かった刀身まで全体が金色になった大鎌を持ち直した。穏やかに鎌が彼の手を離れると、青年は強く音を立てて両掌を合わせた。