「飢餓」
ごっ ごっ ごっ ごっ
固い、だけど金属ではないものを打ち付けるような音がゆっくりと壁中を駆け巡っている。未だに身体の自由が利かず、芋虫のように床に転がっている僕の五臓六腑に響き渡るにしたがって、どんどん気持ちが悪くなってくる。
どこかで聞いたことがあったのかもしれない。覚えていないが身体は知っているようだ。この音が良くないものだと言うことを。
待ってくれ、冗談じゃない。こっちは縛られて、しかも薬で身動きが思うように取れない状態なんだ。一体どこから来るのかわからない。すべてが静止した中で音を生む存在はまだ目覚めていないはずだ。
コ コ ニ …… 苦 シ
本当に呻くような、今まで聞いたことの無い声が響き渡る。空気ではなく地面を伝って僕の身体に直接届く、救いを求める声。悲痛なのは間違いない。だがそれ以上に怖気が僕を包んでしまい、近寄ることを本能が拒否している。しかしそんな事を言っていられない。こっちも命がかかっている。必死に全身を澄ましてどこから響いているのか感じ取ろうとしたが反響しあってしまい、どこから伝わって来ているのかやはり分からない。
コ コ …… 誰 カ ……
コ コニ居 ル ノ ニ ……
ド ウ …… テ …… 聞コ エ ……
「……ここ? ここってどこだ? おい! 答えるんだ!」
視点も定まりかなり身体の自由が利くようになってきた僕は、這いつくばったまま何とか声を出す。声の主が暴走し始める前に何とか見極めなくては僕も危ない。
コ コ …… コ コ ……
出 シ ……
ウ ウ ウ …… ……
猶予が無い。世界が静止した時からずっと響き続けている固い響きは止むことがない。それどころか響き方が大きくなっている。猶予の無さを示す事実が明らかになっているのに一向にどこから来るのか掴めず、僕の焦燥はらせんを描いてどんどん深く大きくなっていく。
もぞもぞともがきながら周囲を見渡していると、突然僕の視界ですばやく影が動いた。その次の瞬間には、影を追った僕の視線の先に居た男の頭が半分無くなっていた。腹を貫かれた女の子に覆いかぶさっていた男だった。再び動いた影を眼で追う。影が進んだ先には別の男が居た。頭の上で手を組んで床の上での行為をニヤニヤと見ていたその人間の鳩尾には大きな風穴が開き、もたれていた壁が丸見えになっている。血は一滴たりとも流れていない。
僕の近くでドムっと音がする。見上げるとショーコさんと話をしていた男が下顎から右肩にかけて失っていた。次々と抵抗することも無い者達の命が奪われていく。だが彼らも、自分の命が失われたことに気が付いていない。
「立て!」
YOUに言われるまでもない。このまま転がっていたらただの的だ。もう身体は動く。問題なのは両手を縛られているということだけだ。なんとか立ち上がって走り出した僕の進行方向には最後の男が立っていた。その男の左半身がもこっと盛り上がる。反射的に左に飛ぶ。直後に男の半身が消えてなくなり影が飛び出した。僕に直撃することなくそれは直進して壁に消えた。
くそ、死神の身体はどうして筋力は人並みなんだ。縄を解かなくてはさっきまでと何も変わらない。結局いずれ食いちぎられるのを待つだけだ。走りながら部屋全体を見渡す。ショーコさんと呼ばれていた髪の長い女の子が右手にナイフを持っていた。これだ。体勢を立て直し、状況を打開する鍵のもとに出来る限りの力でもって駆け寄るが、後一歩というところで女の子の身体が吹き飛ばされてしまった。右足が付け根からなくなったその身体は僕からさらに離れ、その手に持つ刃は行方が知れなくなった。このままだと僕も時間の問題だ。
何とかならないか、と焦燥が高まりっぱなしの僕の目に、キラリと光を放つ何かが映った。そっちを見るとブーツが転がっていた。そのヒールから長い刃物が生えていた。飛んで行って落ちた拍子に飛び出したのだろう。さっきショートヘアの女の子を貫いた仕込みナイフ。この際何でもいい。血がつき、足が付いたままのそれは非常に気分の良いものではない。だがそんな事に文句を言うのは生き残ってからだ。それを引き起こし縄に切れ目を入れる。
ぶつっと鈍い感覚と共に腕が少し楽になる。しっかりと絡められたロープはなかなか解けることが無く自由になるのはもう少し後になりそうだ。
僕がロープと格闘している間もずっと部屋中を影が跳ね回る。狙いをつけているわけではないようだ。顎を削られた男がさらに脇腹を削られた。壁にもたれた腹に風穴を持つ男は左脛を失った。ごそごそと両腕を擦り合わせながら一箇所に留まらないように努める。ズっとひときわ大きく、一つにまとめられた僕の両腕が動く。一気に縄が緩み、ようやく自由が僕に戻った。
左腕にロープを残したままレクイエムを一気に引き抜き、黄金色に輝くその柄を両手でしっかり握り締め、僕の胸に向かって一直線に向かってきたそれを受け止めた。
レクイエムにしっかり噛み付いたそれがビチビチと尾ひれを振る。石でできた魚。
命を感じられないその瞳に寒気を覚え、柄を水平に保ち上下に大きく揺さぶる。その勢いに食いついた牙が緩んだ魚は天井に向かって放り出された。叩きつけられて落ちてくると思ったが、ちゃぷんっと天井に波紋を作り潜って逃げていった。
出 シ …… テ ……
渇 イテ …… 腹 ガ 空 イ ……
呻き声が足を伝って脳に響く。このシェイド、矛盾している。自分を見つけて欲しいと言っていながら近寄られる事を拒むかのように、この場に居る者を餌としか思っていないかのように食い漁る。しかも魚は一匹ではなく、時と共にその数を増していく。これでは見つけるどころかこの部屋に留まることさえままならない。
……ここではないのか?
魚をかいくぐって部屋の外に出た。部屋の外には魚は飛び出してこない。他のところから餌となる人間を感知しているのなら今僕が居るここにも魚が現れてもおかしくないはずだ。YOUに問う。
「間違いない。ここが中心だ」
これ以上に無い信頼感。僕が仕事をしなくてはいけないのはここで良い。観察を続けると魚達が飛び跳ね続けているこの空間の中、一箇所だけ魚が出入りしていない壁があった。そこだけ壁の色が異なっている。きっとそこだ。もう一度ピラニアの飛び交う生簀に飛び込む。直感を信じて魚の猛攻をかわしその壁に向かって刃を向けた。
レクイエムが壁をすり抜けることなく突き刺さる。いつものような光は放たれず、変わりに絶叫と共に壁が大きく波立った。
その壁に立つ波紋の中心から巨大な魚の口が突然現れ、響く絶叫に身を強張らせていた僕はそのまま飲み込まれた。