「ホラーな夜」
ある夜の、多くの人が経験したことがあるだろう光景です。
わたしの場合はどちらかと言うと殺意が湧きます。
「裕也さん…… 裕也さん……」
現在深夜だ。裕也はもう寝ている。こいつは寝始めるとなかなか頑固で、些細なことで起きることはない。俺がシェイドを感知して、すぐにこいつを向かわせようとしてもそこに至るまでに結構時間がかかって厄介なのだ。毎回深層意識に介入してようやく引き出せるような状態で、この程度では起きるのならば苦労しない。
俺は今、YOUと呼ばれている。俺には名は無い。俺が持つ力、レクイエム。強いて言うならばそれが俺の名だ。もともと俺たち死神には個別の名は必要ない。死神の力を行使できる肉体に宿り、宿主の肉体が魂を失った時その代わりとなり、その肉体に付けられていた生前の名をそのまま使えば十分なのだ。
俺は古くから在った。一体どれくらい前からなのか、もう覚えていない。確か初めのころはヨーロッパのどこかで死神の勤めを果たしていたと思う。その頃はひどく疫病が蔓延していて、いたるところで死体が転がっていた。どの者も苦しみ、生を懇願したが助かる者はまず居なかった。
戦争もあった。長い長い争いだった。それが治まるまで、俺は宿主を六回は変えた。各地を転々とし、そこであふれる非業の死を「はじまりのもと」に導き続けた。
死神には目的など無い。ただひたすらに、「はじまりのもと」に還ることができなかった者を探し、導く。そのためだけの存在だ。人が生き、繁殖し、そして死ぬ以上俺たちは存在する。
「裕也さん…… 裕也さん……」
まだ起こそうとしている。無駄な努力だ。
「優奈、裕也は寝ている。まず起きない、あきらめたらどうだ」
意識の無い裕也の口を使って教えてやる。俺の支配に無いこの体でもこのくらいだったら可能だ。俺も優しくなったものだ。裕也に宿る以前だったら、もしこのようなことがあっても無視し続けただろう。本人が気の済むまでやらせていたらいい。それが本人のためになることもある。
この優奈という少女、この娘はすでに命を落とした存在だ。本来ならばすぐに導かなくてはならない。だがまだ今の裕也とレクイエムではそれができない。あまりに強力な力を持ったブレイズだからだ。
俺も数多くのシェイドとブレイズを導いてきたが、ここまでの力を当初から持つにも関わらず理性を保ち、力に飲み込まれなかった者には初めて出会う。そしてこんなケースは初めてだ。まさか導くまで憑いてこさせることになろうとは。
裕也に憑いてからはいろいろ初めての経験をしている。数百年の永きにわたってこの世界にあるというのに。とても滑稽だ。何よりこの男の存在が俺にとって例外なのだが。
「でも…… あれ……」
そう言われてもこの肉体はまだ裕也の魂の支配下にあり、俺の自由は利かない。何が起きているのかわからない。
……だがどうも変だ。優奈が怯えているようだ。それが気になり、柄にも無く努力してみることにした。
この男は寝てしまうとまず起きない。それはつまり魂が肉体から解離し休眠している状態に近いのかもしれない。魂の支配が弱まった肉体であれば、俺も動かせるやも知れぬ。
いつものように魂の抜け殻となった肉体に俺という存在を染み渡らせる。十分に染み渡った感覚がした後、まずは目を開ける。暗いが、窓から入るわずかな光に照らされた天井が見える。うまくいったようだ。ゆっくりと身体を動かしてみた。
「おお、動くぞ」
腕を曲げ、指を伸ばし、拳を握る。そしてそのまま腹筋を使って身体を起こした。久しぶりの肉体だ。レクイエムを引き抜けないかと試してみたが、それはできなかった。現在の所有者は裕也の魂。もともと俺の一部とは言え、曲げた「律」を戻すことは容易ではない。裕也と俺は今まさに一蓮托生なのだ。
「あの、あれ…… 何とかしてください……」
起き上がった俺は自分の事の確認に集中してしまい優奈の事をすっかり忘れていた。声をかけられて思い出した。そうだ、優奈が怯えている何かが傍にある。その事への興味もわき出し、優奈の存在を感じる方を見ると、顔を背けたまま優奈が壁を指差していた。俺もそっちに目をやった。
……優奈ほどの存在が何故こんなものに怯えているのか理解ができぬ。
白い壁に黒い平べったいものがついていた。長い紡錘形の端の辺りから細長い糸のようなものが伸びている。時々あたりを探るように動く。
そう、コックローチだ。日本語で言えばゴキブリという。
どうしてこんなものを恐れる。お前達の方がよほど恐ろしい存在だというのに。だが仕方ない。生前の記憶が相当に強いのだろう。半分呆れながらも俺は暗がりの中で本棚に入っている雑誌を一冊手に取り、丸めた。
……ぬぅ、冷静に考えれば、新しい宿主の身体を使って最初に始末するのが昆虫だとは。堕ちたものだ。まあいい。そのまま壁に張り付くコックローチにめがけて振り下ろす。
「あ! あっちに!」
優奈に教えられるまでも無い。肉体を動かすのがあまりに久しぶりだった為か手元が狂った。かつて飽きるほどレクイエムを振ってきた俺は、わずかな隙間であったとしても的確にそこを突く。その自信があったが完全に支配下に無い肉体ではうまくいかなかった。まだまだ未熟ということか。もう一度狙うが、うまくいかない。
もう一度、もう一度とやるが巧みな動きでかわされ続けた。部屋の隅にすばやく移動していく。だがそこならば逃げられまい。止めとばかりに振り下ろそうとしたその時だ。
「いや、いやぁああああ!!!」
優奈の絶叫。飛び立ったコックローチが優奈が居る方へ向かう。もちろんコックローチに優奈の姿が見えるはずが無い。回避する様子も無く飛んでいく。怯え、混乱しきった優奈が羽衣を振り上げた。
いかん! こんな屋内でこんな虫ごときに力を使わせては! その場に在った何かを左手につかみ、レクイエムを振るが如く薙ぎ払った。ぱしっと軽い手ごたえがあって、何か軽いものが壁に当たるのが聞こえた。涙目の優奈の羽衣は振り下ろされること無く、部屋は形状を保ったままだった。
音のしたほうへ行くと、コックローチが腹を見せて転がっていた。それを掴み窓を開けそのまま放逐。後は何事も無かったように物を片付ければよい。窓を閉め振り向くと、優奈がそっぽを向いている。そっぽを向いているが、ちらちらと床に目線をやっている。ちょっとむすっとしたような顔をしている。コックローチは始末したというのに。他がいるのだろうか。床を見ると俺が最初に使った本がページを開いて落ちていた。
……なるほど、そのページが問題か。
使った本は青年漫画誌だったようだ。たまたま開いたページには男女の情事が大きく描かれていた。俺はそれを拾い上げ、ページを閉じて机に置く。
「裕也も男性だ。それに今のは不可抗力。許せ」
優奈くらいの歳であればそのくらいのことはわかっているはずだ。多く語る必要も無かろう。
俺も数々の初めてのことをした。短時間だったが久しぶりに疲れた。もとのように裕也に身体を明け渡して、俺も休むことにしよう。
……
…
「ん…… あ~~ふぁ。ねむ……」
昨日も起こされることなかったな。シェイドが発生しないことはいいことだ。平和が何より。起きるとすでに覚醒状態にある優奈が何かむくれている。っていうかもう慣れたが、自分の寝ている姿を女の子に見られているというのは何か落ち着かない。
……だけどどうして今日は不機嫌そうなんだろう。首を傾げていると机の上を指差された。そっちを見る。
うぉおい! マジかよ!! 僕は確実に片付けておいたはずだぞ!
表紙に水着のグラビアアイドルの写真がでかでかと掲載された青年漫画誌が転がっている。わざわざ優奈が眠ってる時だけにしか見てなかったのに!
え? なんで?!
慌てて片付ける。そしてそういう時こそ冷静にならなくてはいけないことを思い知った。
棚に押し込む時に一気に雑誌があふれ出た。その中の大多数が同じ類のもの……。しかも開いたページがことごとくそういう系。優奈の僕を蔑む目が痛い痛い。
ああ、神様。あなたは本当に居るんでしょうか。どうしてこんなことに。
諦めて心を落ち着け、冷静に本棚に返していく。戻していく中、ちょいと視線に入ってきたものが気になった。
……え? 何この茶色い染み。ってこれ、僕が大ファンのゲームの初回限定しかも予約特典のポスターじゃないか?! それも折れてる!!
もう入手できないよ?! 生産数も少ないから結構価値があるのに!
い、一体昨日の晩この部屋で何が起きたんだ……
ゆるーいお話で恐縮です。
それでは次からは第九章。よろしくお願いします