「仮初の凪」
冷たい雨に打たれて目の前の霧の塊が少しずつ溶けていく。
この場に渦巻いていた暴力と狂気、そしてそれを捻じ伏せるほどのさらなる暴力が生み出した嵐は嘘のように過ぎ去り、凪の時が流れていた。
僕は今、何をしたんだ?
ただ単純にレクイエムを振り抜いた。それだけのはずだ。
レクイエムの柄で反射的に押し倒してしまった優奈はまだ地面に両手を付き、座り込んだ状態で僕を見ていた。彼女の方に一歩近づくとびくっと身体を強張らせ、倒れこんだまま後ずさる。力の塊とも言える彼女の怯えた目、それが今の異常な状況を何よりも如実に物語る。
何だ? 何が起きた?
僕の疑問が大きくなるのと反比例するように、響き渡っていた絶叫がだんだん掠れていく。それと共に一つの事に気が付いた。シェイドの様子がおかしい。さっきまで優奈によって破壊された部分は瞬時に回復していた。だが今僕がつけた傷はまったく回復する様子が無い。
終わらせることが出来るのは、お前だけだ
お前だけ? この場で動けるのはシェイドを除けばレクイエムを持つ僕だけだ。今この状況はYOUの言葉通りであるというのなら僕が作り出したと言うことになる。一体何があった? 色々考えたいことはある。だけど今現在体に受けているダメージなどが明確な思考を奪い、まとまらない。訳が分からず呆然としていた僕も、今この場で自分がやらなくてはいけないことを思い出した。
ゆっくり歩いて近づく僕を、上半身だけになった巨大なシェイドが悔しそうな恨めしそうな目で見る。僕が十分近づくと、目つきが変わった。きっとさっきの僕も同じ目をしていた。部分的に無くなった右腕を振り上げ、そして振り下ろす。
僕の背後で、どぉん! と大きな音が立った。動きがのろい。それにリーチが長大すぎる。ここまで接近した僕に当てようと思ったら自分自身を打つくらいでなければならない。当たるわけが無い。
今の一発で力を振り絞りきったようでシェイドはもう攻撃に転じない。レクイエムを頭上でくるくると振り回し、上段に構えなおして振り下ろした。
朱色の刃が右肩から心臓のある位置に向かって深々と突き刺さるとまばゆい光が放たれた。その光が失われていくにつれて、上半身だけの獣の姿からもとの人間の姿に、そして剥き出しの組織が皮膚で覆われ、殺意だらけの表情が和らいでいく。彼は自分に何が起きているのかわからず、呆けたような感じだった。
「止めろ! まだ殺ってねぇんだ!」
突然声を上げた。自分に何が起きようとしているのか、感づいたらしい。っていうか、もともとそういう性格だったのか、やっぱり。彼の望みを聞くことはできない。そもそもどうやったらレクイエムのこの作用を中断することができるのかわからない。
……できないんじゃないかな。諦めようよ。
「ちくしょう…… ちくしょ」
無念を言い残し、レクイエムに吸い込まれた。予想どおり、万人に望まれてないんだな。だけど構うものか。こんな間違った希望に一時的に身を委ねたところで、いつかはその選択に苦しむことになるんだ。
その事に向こうで気が付いてくれたら、それで良い。
……
…
作業終了。扉が姿を消すのとほぼ同時に彼が展開していた領域が消失し、時間の流れが戻る。
がしゃん、がしゃん、ききーっ!
きゃー! ぎゃっ! うわー!
誰か、救急車! 救急車!
……忘れてた。ここ、街中だ。時間が止まっていたから実感がなかった。あんな巨大なモンスターが跳ね回り、優奈が力を振るったなら巻き添えが大量に出て当然だ。とんでもない事件を引き起こしている。冷や汗が噴き出てきた。めまいもする。
自分も壁に叩きつけられたり、周りの人たちと同様皮膚をただれさせる毒霧の中にいたりしたのだからダメージが大きい。体力の消耗が半端ではない。ビルの壁にもたれかかって座り込んだ。しかし座った姿勢を保つこともできず、そのまま横になってしまった。意識を失うことは無かったが、そのまま救助を待つ情けない姿を晒している。
肌がとにかく熱い。あの毒の霧が確実に身体を蝕んでいる。呼吸も荒くなる。そんな僕に鎧を脱いだ優奈が隣にしゃがみ込んできた。僕の焼けるように熱い身体に羽衣を差し伸べ、包み、冷やしてくれた。すごく楽になる。
僕がシェイドを斬り裂いた時、確実に僕のことを恐れていた。だというのに……
「ごめん」
彼女は一瞬きょとんとした顔をしたが、目を伏せ、首を横に振った。
……
…
救急車が何台も何台も来た。僕は重傷者として結構早くに病院に連れて行かれた。裂けたスーツ姿で、戦っている間もずっと持っていたショルダーバックも傷つきまくり。他の人たちと見比べても一線を画して被害者度が高い。早いとこ新調しないと……。またチャンスが逃げていく。もういっその事、これで食べていける方法があればなぁ。
今回は以前入院していたところとは違う病院だ。ベッドに寝かされ、点滴をぶら下げられた。することもできることも、特に無い。時間だけはたくさんあった。
だから、天井を見ながら考えていた。
今日はいつもと勝手が違った。自分の力の使い方を理解し、自我を持つに至った強力なシェイドをYOUが見落としていた。
そしてその領域に入る時に感じた違和感。いつもなら足を踏み入れた時に周囲の音がふっと消え、そこに入ったことを感じる。だが今日は、音が聞こえなくなる前に何かが有った。
……
そう、何か一枚、領域の表面を覆った膜があるかのようだった。
僕達に何者だ、と聞いたあのシェイドは死神という存在を知らなかったはずだ。となるとその膜はYOUのようにシェイドを感知できる者がいて、あえてあのシェイドの存在を隠すために彼の領域の上に張り巡らした物。そんな感じがする。
一体誰がそんなことをして得になるというのだろう。シェイドを使ってこの周囲に混乱をもたらすことに何の意味があるのだろう。
そして最大の疑問は、死神以外にシェイドの存在を知る者がいるのだろうか、ということ。
発生した時からその場所を離れることのできないシェイド同士の間でコミュニケーションがとられているとは考えにくい。シェイドが自分以外の他のシェイドのことを知っている可能性ですらとても低い。
だが例外がある。ブレイズだ。
もしかしたらある種のブレイズが死神の手から逃れ、同属に手を貸しているのかもしれない。優奈は自分の領域をあえて展開しないということができる。そのため彼女が目覚めていても周囲の時間は止まらないし、その状態であればYOUの探査能力にかからない。
それに類するような能力を持ち、他のシェイドの領域を覆い隠すことができる者がいることは十分に考えられる。そうなると他にも存在を隠されているシェイドがすでにたくさんいて、僕達に知られないところで被害を出しているかもしれない。
「……その可能性は高い。だが、感じられぬ以上探し出すことができぬ。不可解な事件の起きている場に赴き、偶然その領域に踏み込まない限りは」
だけど現実問題としてそれは不可能。僕は人間だ。存在を隠されたシェイドを探し、被害を食い止めることも重要だが、それを行うのは寝食を削るだけの自己犠牲に留まらない。人間、生命体である以上、自分をないがしろにしてできることではない。それに時間、移動手段、そして費用。これらの問題も人である以上解決しなくてはいけない。普通に生きていくことだって大変なのだ。
YOUもそのことを十分理解し、こればかりは仕方の無いこと、と珍しく許容してくれた。
定職を探すことだって……。う、思い出したら凹んできた。ちくしょう、高志のヤツ、うらやましいなぁ。根はマジメだし行動派だったからなぁ。ナーバスになっている僕の事なんかお構いなしにYOUは僕の最近の死神の仕事ぶりの評価をしてくる。微妙に辛口。やめてくれ、人生に自信なくなるから。お小言が終わった後はさっきの事件と類似しそうなケースの記憶を僕に伝えてきた。
死神が領域に入っても攻撃も何もせず完全に姿を消してしまい発見が困難である者や、人に取り憑きその人ごと領域を移動させてひとところに留まらない者。
そう言った本体が見つかり難いシェイドも有るには有るそうだが、その領域が展開されないために感知されなかったのは優奈が初めてのケースで、移動もせず根付いた通常のシェイドが成熟し強大になるまで気が付かなかったことなどないと言う。
「あるいは…… いや、何でもない。忘れてくれ」
「何だよ、らしくないな」
「確証がない。俺の憶測でお前を惑わすわけにはいかぬ。確信に変わった時、話すことにしよう。話さなければ間違っていた、ということだ」
何だかすっきりしない感じがするが、まあ良いや。疲労しきった身体はこれ以上思考する力をも奪っていく。大体においてYOUの声は僕と同じなので、ぼーっとした今の状態だと自分の思考なのか彼の思考なのか分からず頭がどんどん混乱してくるんだ。何も言わなくなったYOUと同様、僕も何も考えないことにした。
今僕の体には濡れた布が巻かれ、これ以上熱くならないように冷やされている。それに加えて救急車が来るよりも前からずっと、そばで手当てしてくれている。
安心して、眠ることにしよう。




