「暴力」
領域の中心か……。
この霧がここの主の力だろう。となればとりあえず霧の濃くなっているところを目指せばいいはずだ。まだ日の光は強く探索には何の不自由も無い。
領域に入ってすぐにあるこの交差点はあくまで領域の一部で、しかも端の方だ。まだ中心は奥にある。しかもこの道路には脇のビルの間から伸びる小道も入ってくる。ビル群の間に本体がいたら探すのが困難だ。探知能力があるYOUの指示が唯一の手がかり。しかしYOUも方向がわかるだけで、道がどう続いているかはわからない。ゴールの方向だけがわかる迷路の中にいるのと同じだ。指示のあった方向を見失わないように走る。僕の走る速度に合わせて僕の後ろを、羽衣をたなびかせて優奈が飛んで憑いてきて、押し寄せる霧を優奈がすべて押し戻す。
迷いに迷った挙句にたどり着いた、ビルとビルの間の一車線だけの小道の奥。ここからは彼女が押し戻しきれないほどの量の霧が湧いてくる。優奈が振るう羽衣が生み出す風圧で押し返した後も、押し除けられた空気の間隙に吸い寄せられて、この一帯の霧だけが一向に晴れない。
あまりに霧が濃くて中に入るのは危険。深過ぎるこの中で本体を目視で確認することはさらに不可能。まだ目覚めていないことを願ってレクイエムを投げつける。屋敷に居た子ども達の前に戦ったシェイドの時に気づいたのだが、レクイエムには斬る時も投げる時も魂をある程度ホーミングする性質がある。基本的に自分で狙って振っているが、こんな武器、しかも刃が大きく長い物を使った戦闘の初心者の僕が、初めてシェイドを相手にした時に刃が届き戦えていたのは、この性質があったおかげだ。
だから、僕の手元を離れたとしてもレクイエムはこの霧の発生源に届くはず。たとえこれが見事に命中しなかったとしても、何らかの反応があるはずだ。
飛んで行ったレクイエムも霧の中に入ると見えなくなった。声も上がらなければ光もない。優奈のように防御行動に移ることもない。命中しなかったことは明白だが、僕の期待に反して反応があまりにも乏しい。
「……移動している、すぐに呼べ!」
YOUの声が響く。くそっ、また本体と戦わないといけないのか! 迷っているうちに覚醒してしまった。霧が濃いところを目指してくることを悟っていたのだろう。これだけの霧を置いて、僕達をあざ笑うかのように立ち去っていた。これは相当に手ごわい。覚醒して即座の攻撃ではなく、僕達を手玉に取り様子を見、攻撃するタイミングを狙っているような知性の持ち主。今回の相手がブレイズであるかもしれないと言う最悪の可能性が高まってきた。今からすでに手が震える感覚がする。……落ち着け。
呼び戻してみるが戻ってこない。このまま待っていることにメリットは無い。仕方ない、直接行くしかない。優奈ができる限り霧を払ってくれているが、予想されていた通り、薄くなる程度で晴れない。長時間ここに留まればさっきのように毒に冒されてしまう。しかも素手。想像していた一番まずい方向にすべてが流れている。
突入して間もなく霧の中にぼんやりと三日月状の物体が見えてきた。地面に突き刺さるレクイエム。これだけ目立つ色をしていなければ見失っているだろう。柄を持ち引き抜こうと試みるが抵抗が強く、目を凝らしてみると濃い霧が朱色の刃に不自然に絡みついていた。払っても払っても散らないその霧の綱をレクイエムに押し当てて切断し、その縛を解いて両手に構える。切断作業中に息を止めているのが苦しくなったので、少しだけ吐きだして胸を楽にさせたがもう限界だ。一呼吸だけして再び止めた。息継ぎに制限のあるここで襲われたら一巻の終わりだ。これ以上は諦めて戻らざるを得ない。
息を止めて走るなんて芸当は僕にはできないから、この霧をできるだけ吸わないように呼吸を極力抑えて歩いて移動するのが最良。持っていたハンカチで口元を押さえてみるが一体どれほど効果があるか分からない。息をするのは控えたはずだがこの小道に居た時間が長く、吸った総量は意外と多かったようだ。頭が少しくらくらする。
しかも本体がいたはずの小道から出ても一向に事態は改善しない。ここに来るまでの道の霧は優奈がすべて吹き飛ばしていたのだが、戻ってみると再び一面の霧。目覚めた主に呼応するように深まっている。こんな中でどうしろって言うんだ。
舌を打ち、奥歯を噛み締めたその次の瞬間、僕の顔に何かが巻きつく。本体の攻撃かと焦り、それを引き剥がそうと手をやるが優奈の声が僕を制した。
だんだん頭が覚め、楽になっていく。
顔に触れているところが少しひんやりする。
……優奈の羽衣だ。羽衣の水が霧の成分を吸い取って周りの空気を安全なものにし、供給してくれている。すごい。本当に万能だ。まさか水がここまで多様性に富んでいるとは考えもしなかった。
彼女のおかげで僕は安心して探索ができる。今までこの仕事に協力的ではなかった彼女が僕に手を貸してくれる。優奈が少しだけ心を許してくれた、そう言う事なのだろうか。
「……止まったな。迎え撃つ気だろう。裕也、一つ安心しろ。これはブレイズではない。だが相当に力を蓄えた状態だ。
領域から移動できないヤツにとって俺たちは非常に都合の悪い来客だ。向こうも全力で来る。気を抜くな……」
YOUの一言で空気が変わり、僕の浮かれた心も引き締まる。
少し大きめの交差点に出た時、声がした。
オ前ラ…… 何者ダ?
ジャマスル気ナラ死ネヨ……
霧の奥の方に浮かぶ影がある。声もその影の方からしている。……本体だ。
「お前か! ここで事故を起こしてるのは!」
ダッタラ何ダ?
正義ノ味方ゴッコナラ他所デヤレ
殺シ続ケテリャ イツカ当タルンダヨ…… 止メル気ハ無ェ……
アイツラ、絶対殺ス……
ココカラ出ラレネェナラ、当タルマデ殺シ続ケルダケダロガ!
「無関係の人まで手にかける必要なんてない!」
アァ? 知ッタコトカヨ
他ノヤツラモ思イ知レヨ 俺ノ痛ミヲ万分ノ一デモナ……
ヤバい奴だな……。生前からこうなのか、それとも変性したからこうなったかはわからないが、このシェイドは相当にキている。それに僕との会話が成り立つ。あの子達と同様、防衛、闘争本能だけのシェイドになりたての状態とは明らかに異なる。
一気に霧が深まり、うっすらと見えていた本体がまったく見えなくなった。その次の瞬間霧が凝縮したかと思うと突然爆発し、周囲に紫色の霧を撒き散らす。近くに浮いていた優奈の姿すら見えない。水の羽衣のおかげでこれだけの霧の中でも意識を失わなかった。
……だけど何か変だ。肌が痛い。ちりちりと染みる。
嫌な予感がする。とにかくここを離れなくては。この霧の中に居るのは命取りだ。
ドコ行クキダ?
全力で走り始めた僕の右真横から、呻くようなくぐもった声が響く。頭を掴まれそのまま勢いよくビルの壁に叩きつけられた。腕で反射的に側頭部をガードしたので頭への直撃は避けたが、腕が痺れただけでなく脳震盪も起こし、めまいが激しい。だがレクイエムだけは離さない。これを手放したその時は完全に嬲り殺される。
頭を掴まれたまま再び振り回され、窓ガラスを突き破ってビルの中に放り込まれた。まだ何かが頭を掴み続けている。眼下にはスーツ姿の会社員と思われる人たちが仕事をしている机が見える。天井に押し付けられているようだ。眼前の光景が静止していたのはわずかな間だった。今度は机が流れていき、再度外に放り出されて再びビルの壁面に押さえつけられた。
激しいめまいのせいでだんだんガードが間に合わなくなっていく。次振り回されたらきっと頭に直撃だ。頭はぐらぐらしていたが腕は何とか動ける。片手でレクイエムを短く持ちなおし横に薙ぐと、手ごたえは無かったが僕を押さえつけていたものが頭から離れた。
どさっと落ちた。ちょっと膝を打った程度。思えば幸運だ。押さえつけられていた場所が2階以上の高さのところだったら自殺行為にだってなっている。よろよろ立ち上がる。だけど腕と足がとても重い。受けたダメージが相当重いようだ。
……いや、違う。それだけではない。焦点が定まりきらない目で見ると、何かが両手足に巻きついている。
霧だ。腕と足の周りだけ霧が一段と濃い。そして、身体の他の部分に比べて巻きついているところの痛みが激しい。
……ダメだ。この霧の中はコイツの体内に居るようなものだ。そして霧が晴れることは期待できない。せめて……
俺ガ近ヅクノヲ待ッテンダロ? 甘ェヨ、コノママ焼ケ死ニナ……
ヒャハハハハハハハ!!
諦めかけていた。その時、どがん! とすごい音が響く。直後に何かが噴き出す音が続いた。
そして、雨が降り始めた。
……雨だ。時間が止まってしまっている中、雨が降っている。それに今日、さっきまで晴れていた。
……何だ?
頭に浮かぶのは疑問ばかりだ。そしてその中に見えてきた希望。
空気が雨に洗われ、霧が晴れていく。僕の手足に絡みついた塊も溶けていった。
何ダ!? ナンデ雨ガ?!
テメェ…… フザケンジャネェ!
慌てた様子のシェイドがはっきりと見えた。姿は僕とほとんど同年代の男。できれば僕は関わりあいたくない系統の人だ。服はその派手さをわずかにとどめる程度にボロ切れとなり、服の間から見える彼の身体は皮膚もずたずたになって、下の組織がむき出しになっているところが多かった。骨の何本かが身体から飛び出ている。
宙に浮くシェイドの視線の先に、僕も目を遣った。そこには水柱が立ち、それを背にして鎧を身にまとう優奈が居た。水柱の立っている場所の反対側の歩道に、消防で使われるあの赤い消火栓がへし折れて転がっていた。優奈が大量の水をあたかも雨が降っているかのように領域全体に散らしている。
「殺させない」
たった一言そう言うと、次の瞬間男の背後に居て、羽衣を振り抜いた。相変わらず目で追えるような速度じゃない。完全に仕留めたと思われたがシェイドは彼女の風圧の前に霞のようにかき消されかと思うと、離れたところで再構成された。その瞬間からシェイドも標的を僕から優奈に変えた。再度優奈が羽衣を伸ばして打ち据える。すると自ら身体を分解し直進してきた彼女の武器に絡みつき、そのまま優奈に接近する。取り憑けば彼女の攻撃を無力化できると考えたのだろう。
迫りくる霧に対して優奈が左手を前に出した。手甲の掌から巨大な凹レンズのような盾を作り出し、シェイドを押し返す。そしてそのまま盾を自分の装甲から切り離し、蹴り飛ばして地面に落とした。
取りつくのに失敗したシェイドが優奈の盾から離れて地上で再び形を成す。そのタイミングにあわせて空中にいた彼女が両手を前に出す。優奈の両手から何かが放出された。凄まじい速度のそれを避けるのが間に合わなかったシェイドは左肩から削り取られ、そして優奈の掌の延長線上にあるアスファルトも鈍い轟音と共に深くえぐられた。
眼を疑った。アスファルトは欠片も残らず粉砕されている。
放たれたそれは無数の針だった。
水で出来ていて、針の形を保っているのはほんのわずかな時間だった。こんなものを撃ち込まれたらたまったものではない。苦痛の叫び声を上げて優奈を睨む男。その形相はすでに人間とは思えなかった。えぐられた左半身が絶叫とともに霧に包まれ、もとのように再生した。
再生していく最中にも優奈の攻撃は止まらない。敵意ある眼で睨みつける者に一瞥をくれ、その者に対して指をさす。同時に地表から太い氷柱が三本、突然現れシェイドを串刺しにした。その水源はさっき切り離した彼女の盾。円錐は刺さった後にも径を増し、その体をひきちぎった。苦痛の響きが止むことは無い。予測がつかないうえに情け容赦のない優奈の攻撃は、ただ見ているだけの僕の背筋も凍りつかせた。
引き千切られた男の体が煙となって、逃げるように移動する。それを捕えるかのように優奈の雨に濡れた地面からいくつも檻が現れたが、捕えることは叶わず、煙は最終的に檻の届かない空中に逃れてそこで本体の形を成した。
大量の水源があればまさに無敵。この降り注ぐ雨も彼女の手足。
優奈がブレイズの脅威をまざまざと見せつける。
クソ…… コノ、メスガキガ!
優奈に手も足も出なくてキれたシェイドが叫び声を上げた。
肩、いや背中に手を当てたかと思うと、自分の皮を勢いよく剥ぎ取る。男が背中から二つに裂け、裂け目から霧があふれ出し形を成し始めた。
それは巨大な猿に似ていた。体中を毛の代わりに、優奈が降らせている雨にも溶けないほどの濃い霧で覆っている。巨大なくせに素早く、ビルの壁を蹴って飛ぶように移動する。移動した軌跡に霧を残している。本体から離れた霧は雨に溶けていくが、しばらくは宙を漂っているほどに濃い。
巨大な獣を前にしても優奈は自分の方が強いことをはっきりとわかっているようで、まったくひるむことが無かった。素早くなったがむしろ巨大になった的に向かって針を撃ち、羽衣で強打する。彼女の攻撃は確実に命中している。しかし相手も的になるためにむやみに巨大になったわけではなく、頑丈な表皮と体力を持ち合わせ一向に倒れる様子が無い。何より回復力が異常に高かった。優奈によって破壊されるとそこからすぐに霧が湧き出し治ってしまう。攻撃力も跳ね上がっている。丸太ほどもあろうかという腕で殴りつけたコンクリート壁には幾筋ものひびが入り、その度に轟音が響く。だが彼女を捉えるには速度がまるで足らなかった。
なんだこれは。もう漫画の世界の戦いだ。
「これが人に非ざる者の戦いだ」
これが本来、YOUがいた世界。レクイエムが完全なもので死神の力を失っていなければ、人の身でありながら彼らを抑え、導いていく。
改めてぞっとする。僕がどうこうできる次元ではない。太刀打ちできるはずが無い。
追い詰められているのは明らかにシェイドの方だった。しかし決着がつく様子は無い。
「わかるか? 終わらせることが出来るのは、お前だけだ」
何を血迷ったことを。あんな嵐の中に飛び込んで帰ってこられる人間なんているものか。
はっきり言う。僕は怖い。もう二度と見捨てないと決意した。だがもし戦っているのが優奈でないのなら、もうこの場に居ないだろう。
ここにあるのは決意が揺らぐほどの死の予感。
それでも今ここから逃げない理由は、彼女が戦っているからだ。これ以上あの子を失望させるわけにはいかない。たったそれだけの理由。死神の役目だとか重責だとか、もっとも重要なことは理解しているが今はそんなことでここに居ない。
チッ ソレジャア、アノ兄チャンカラ始末シテヤルゼ!
勝てそうも無い優奈と戦っていることにイライラしたのだろう。ずっと弱い僕を殺して鬱憤を晴らすつもりか。口から一気に霧を吐き出す。優奈に対する目くらましのつもりだろう。そして遠巻きに見ていているしかなかった僕の方に一直線に突っ込んできた。まだふらつきが残るが僕も身構える。
「……バカでしょ?」
僕の前にはもう優奈がいて、先端を刃のように尖らせた羽衣で獣の頭から尻までを貫き、上に振り上げた。
目を丸くした優奈が後ろを見る。切り裂いたはずの獣は濃い霧に変わった。
馬鹿ハテメェナンダヨ、姉チャンヨォ!
勝ち誇ったような声が背後からする。そこにはすでに巨大な右腕を振りかぶり、殴りつける寸前のシェイドが居た。吐き出した霧の方が本体。僕も優奈も完全に騙された。
僕が振り向くのに少し遅れて優奈が僕の前に移動した。思わず僕は優奈をレクイエムの柄で押し払っていた。僕の行動を予想もしなかった彼女は簡単に突き飛ばされ、僕から離れた。
もし逆の立場で優奈がこうしたのなら、たとえこの絶好のタイミングの攻撃といえども避けられよう。だけど僕には無理だ。あの豪腕に比べたら小枝みたいなこのレクイエムで受け止められると思えない。よしんばレクイエム自体が無傷でも、押さえている僕の身体は粉々だ。
破れかぶれになるしかない。とりあえず向こうが全力で殴ってくるのなら、僕も全力で打ち返してやる!
身体を捻り、思いっきり振りぬいた。
……
…
少し時間があって、恐ろしくなるほどの大絶叫が響き渡った。
……痛くない。吹き飛ばされた感覚も無い。無事だ。生きている。
顔を上げると、右腕と胸から上が無くなった巨大なシェイドの本体がいた。無くなった胸から上は僕の視線の左側にずれ落ちていた。残った体積は多かったが、胸から下は優奈の雨に少しずつ溶けていった。
唖然としたまま、突き飛ばしてしまった優奈の方を見る。彼女も目を見開いて、僕がした事を見ていた。
そして僕を、怯えた目で見た。