「幽明(ゆうめい)」
第八章のはじまりです。
日曜日。今日は就活の予定もない。まだ内定をもらえてないからもっと必死になれ、と思わなくもない。しかし毎日毎日就活と仕事と卒論に忙殺される日々となると僕の心まで死んでしまう。心の平穏が約束されてこそ頑張れるというもの。とりあえずいつも行く大学や三須浪とは逆の方へとぶらりと出かけることにした。
母の作る「朝ごはん」を食べ、優奈がいつ眠っても良いようにいつものようにカバーを付けた500mlのペットボトルに最近雑貨屋で見つけた革製のペットボトルホルダーを取り付けてベルトループに引っ掛ける。昨日一日出てこなかった優奈は今朝僕が起きるよりも早くから覚醒した状態になって、僕のベッドの隣に浮いていた。
優奈の休眠のサイクルは僕達からは干渉できないうえに本当に不定期で、予測が全く立たない。二、三日ずっと起き続けていることもあれば、一日の間で休眠と覚醒を数回繰り返したこともある。数日間全く起きてこないケースもあった。力を使ったことによる反動というわけでもなく本当にランダム。
日にち感覚が無くなる、と前に優奈が言っていた。僕と一緒にいることがこの世界との唯一の接点で、それが断たれてしまったらこの世界で本当に孤独になってしまう、と声を振り絞っていた。
……だけど僕は焦らせるようなことは言わない。YOUも言わなかった。以前までのYOUだったら絶対、ならばレクイエムを受け入れるように、と言っていただろう。しかし今では方針を変え、彼も彼女が自ら受け入れられるように変わってくれるのを僕と一緒に待ってくれている。
一人一人が少しずつ変わって、三人が同じ方を見るようになって、そしてそれぞれが別々にその方に向かって歩き始める日がやってくるまで、僕達はこうして関わりあっていこう。
昔ならこんなこと煩わしくてごめんだ、と思っていた。そんな僕がこんな風に思えるようになるだなんて、当時の僕が見たら絶句するに違いない。とても信じられないだろう。でも人間は変わっていく。自分自身がこの変化に戸惑いながらもひとつひとつ乗り越えて生きていこう。それが僕のできる事なんだろう。
休眠サイクルに干渉できないが、長い事四六時中一緒に居たためか、どの水の中に優奈が居るのか何となくの雰囲気でわかるようになった。さすがに味覚を試したことは無いが、見た目も、振った時の音も、ボトルを持った時の重さや手触り、冷感も、水そのものの匂いも、どれも正直差がわからない。だけど彼女が寝ている水からは何やらぞわぞわと、明らかに他の物とは違う気配を感じる。まさに霊感と言うべき感覚だと思う。決して良い物とは言えない感覚だが、この感覚があるということは優奈が近くに居ると言う事。いや、僕が彼女の傍に居ると言う事。
「お前は世界から拒絶された優奈をこれ以上歪ませないための楔だ」
あの屋敷から帰ってきてからYOUに言われた。格下の相手、しかも幼子の姿であった同類に対してまで無情の攻撃を加えたように、優奈が暴走した時には本当に手が付けられなくなるだろう現実に僕は身震いを覚えた。
そうさせないための僕の役目は、彼女が導かれる意志を固めるまで世界と彼女を結び続け、彼女を守ること。
……そう。今度こそ、見捨てはしない。
……
…
相変わらず目的地があるわけでもないまま電車に揺られ、いつも目にしない景色が流れて行くのを楽しむ。気ままに時間を過ごす小旅行。三須浪方面だったらこんな風に座っていられないが、郊外であればだいたい混み合う事もない。席は十分に余裕がある。
がたんがたん、がたんがたんとほぼ一定のリズムを刻むレールと車輪の振動にまどろみも覚えてくる中で、ふいと優奈の方を見る。僕の右隣の空席に優奈がちょこんと座っている。優奈自身は他の女の子達と比べて背が高いわけでもなく、どっちかと言うと小柄。ブレイズになってもなお、駅のホームで最初に見かけた第一印象と変わらず美少女と言った容姿だが、その表情は冷たいと言うよりも、無感情に硬いまま。あの遺影に残された笑顔が脳裏によぎった僕は、胸を締め付けられるような感じを覚えた。
「……まぶしい」
僕が見ていることに気付いた優奈が、僕の方を見て呟く。やっぱり一般的な幽霊のイメージと同じで、強い光が苦手なのだろうか。ロングシートタイプの車両の向かい座席に座っている人も居ないのでブラインドを下ろそうか、と優奈に提案したが首を横に振った。光が苦手とかそういう事ではないらしい。
「この世の中はこんなに明るくてきれいで、楽しい事があふれているはずなのに、見ていると何だかざわざわするんです。……私、やっぱり夜の方がいい。こんな風に思ったこと、無かったのに」
放っておいたら彼女は間違いなく世界を呪う。それはたくさんの人に悲劇をもたらすだけでなく、彼女自身を更なる地獄へと送り込むことになるだろう。「ブレイズ(地獄)」とはよく言ったものだ。彼女を閉じ込めようと閉まっていく地獄の門の楔になれるのは、優奈を知ることができる僕しかいない。
「……いつか、前みたいに明るい世界を楽しめる時が来るよ。あわてなくていい。その気持ちを思い出せるまで僕と一緒に居たらいいさ。僕は必ず傍にいる。不安になったら、泣いてくれたって良い」
驚いた顔をした優奈がこっちを見る。続いて二度ほど瞬きをし、小さく開いた口をまた閉じて会釈をした。……笑った顔が見たかったな。まだ時間がかかりそうだ。
彼女から感情が無くなったわけではない。彼女が見たこの世の絶望が、彼女のプラスの感情に重い重い蓋をしてしまっただけ。この蓋が開いた時、きっと彼女の世界も変わる。
僕は僕がした罪を拭うためだけじゃなく、彼女が世界を許すための力になりたい。それを少しずつ感じてもらって、凍てついた優奈の心が溶けてくれますように、と密かに祈る。
かたんかたん、と規則正しく小気味よい振動に身を任せ、二人並んで窓の外の明るい景色を見る。
世界は、冷たいだけじゃない。
それを思い出してくれる日は、きっと遠くない。