「声」
「将来、か……」
僕は今一応大学にも通わせてもらい、現在三年目の秋。就職のことなどをマジメに考えなくてはならない時期にたたされている。だが、世に言う若者の例にあてはまるように、非常に無気力で何かする気もない。いわゆるニートの予備軍だ。
せっかく大学に通っているのだからちゃんとした企業に勤めなさい、と両親は説得する。でも、僕には明確なビジョンというものも、それ以前に自分自身で生きていこう、という気力がない。必要ない。まだまだ両親だって現役で働けているし、どうして僕だけでやっていこうとしなくちゃいけないんだ。なんだかすごく面倒くさくてたまらない。
……わかってはいる。そんなことを言っていられるのは今のうちに過ぎないと。実際自分の家だって株だとか、特許だとか、利権だとか、土地だとか、遺産だとか、何か大きな財産があってこれからもそれを使って楽に生活していくことができる、そんな特別な環境になんてない。
何か唐突に事故なんかがあって両親が死んでしまった、なんてそんなことがあったら途端に僕は路頭に迷うことになる。でも、そんなことは非現実的でとても実感が湧かないし、どうせそんな切羽詰ることになったりしたら絶対、自分から何かしらの仕事を探して生活するようになるに決まっている。
「だったら今はまだ何もしなくたっていいじゃないか」
それが僕の行き着いた結論だった。
大学にいって単位のために授業に出て、その後は早々に就職が決まっている友達や、決まっていない友達と遊び歩いている。自分は自宅から大学に通っているから小遣い制で、足りない分の遊ぶお金は自分でバイトして稼いだこともあった。
……でも長続きしない。
始めてもすぐに居心地の悪さを感じてしまい、息が詰まる。二ヵ月働けばいい方だ。初めの給料をもらうまではやってはみるが、結局止めてしまう。早ければ本当にすぐに行かなくなってしまい、バイト先の方からもう来なくてもいい、と解雇通告されたことだってある。だったらなんでバイトなんかしようとしたんだろう。就職して、もしその職場での居心地の悪さをすぐに感じてしまったら同じことになるに違いない。しかもバイトとは違って毎日毎日八時間、加えて残業などなどでそれ以上の長時間の拘束を受ける。たまったものではない。そう考えるとなおのこと就職という言葉が僕の頭から足早に遠のいていく。
自分に困ったことが起こったら、そのときに考えればいい。
今の状態が一番心地いい。学校の友達、自分を保障してくれている家族に包まれて、なあなあで生きていけるのが最高だ。
「気持ちはわかるけどよ、お前もホントに考えたほうがいいって。実際にやる前に考えてないと余計辛いぜ、裕也?」
友達にまで説教される始末だが、できないものはできない。
今日も授業を受けたあとゼミに行って、勉強しているようなしていないような、むしろ友人らが彼らのゼミ活動を終えてやってくるのを待つだけの時間を過ごし、その後みんなで適当に町をうろついて、中途半端にファーストフードを口にし、一人二人と友達が帰っていくのにあわせて自分も家に戻り、用意されていた夕食の中からちょっとだけ食べたいものを食べて部屋に入り、深夜までインターネットのゲームをやって、その後いろんなサイトを見て回り、くだらない罵詈雑言や聞くに堪えない自己主張を目にしていた。
「どうせお前らだって僕と同じ分類の存在のくせに」
だけど僕のほうがよっぽど高尚だ。そんなことにこだわることがくだらないと気づいているんだから。人を見下す発言をして自分の存在がより価値のあるものだと考え、実際自分に価値がないことを忘れようと努力しているんだろう?
僕はそんなことをしない。そんなことをすること自体に価値がない。世の中の人には本当に価値のないことに腐心している者もいるんだな。
……ナニモ チガワナイダロウ……
はっとして周りを見渡した。自室だし、扉も開いていない。気配も感じない。僕一人だ。絶対に僕一人しかいない。居るわけない。パソコンだってミュートにしてある。しかし確かに聞こえた。身体に、特に頭の中に深く響き渡るような声。気味が悪くなってすぐさまパソコンを切り、寝ることにした。
……
ホントウニ クルシイノハ オマエジシンナノダロウ……?
ジブントイウモノヲ シリタクナイノダロウ……?
ダカラ タシャヲサゲスミ ワスレタフリヲスル……
時間を置いてはさっき聞こえた声が響き渡る。眠りに落ちようとする瞬間、瞬間に。
怖い。一体なんだ、何なんだ。必死に耳を押さえて丸くなり、その声が聞こえなくなるように祈った。しかしその祈りは通じることはなく、時々、ようやく忘れられそうになったころに声が響く。僕を追い詰める言葉ばかりだ。
「くそっ! だったら何だっていうんだ!」
いい加減に頭にきた。どこの誰だか知らないが、こんな悪趣味なことをしやがって。ベッドから起き上がり、天井に向かって声を荒げた。
カワルコトニ キョウフシテイルノダロウ……?
「だから、お前は一体誰だ! どこから話してるんだ!僕にどうして欲しいんだ!」
僕がそう怒鳴った時だ。部屋をノックする音が聞こえ、母が心配そうに部屋を覗き込んだ。
「裕ちゃん…… どうしたの?」
「あ、いや…… 何でも、なんでもないよ。ごめんね、お母さん。夜中に大声出して」
ベッドに立ち上がったまま母に気まずく返答した。心配そうな顔はそのままだったが、冷静に返答した僕の言葉を信じてとりあえず扉を閉め、僕の部屋を後にした。
目撃した人物が母でなかったら間違いなく頭がかわいそうな人に思われただろう。
だが幻聴などではない。一体なんだったというんだ、あの声……。
それから先は聞こえることはなく、やっと眠ることができた。
そんなことがあったことを忘れ、しばらく通常の生活を送っていた。それまでと何も変わらず将来に対しては無気力でその場限りの、よく言う「今が良ければそれでいい」という生活。
今日の分の大学の授業も終わり、自分の将来をちゃんと決めていく友人たちと電車に乗っていた。いつもとは趣向を変えて街で飲もう。もう日も沈み、流れていく風景が夕闇に飲まれていった時だった。
コワイノダロウ……?
突然聞こえてきたあの声。聞こえているのは僕だけだった。友人たちは全然何とも無いようで、お互いどうでもいいような馬鹿げた話で盛り上がっていた。僕だけは動揺を隠せず、あたりを見渡してしまっていた。
「おい裕也、どうしたってんだよ。彼女でもいたか? って、いるわけねぇか!」
はっとしてなんでもないと答える。友人たちは深くは詮索しなかったが、明らかに挙動不審となった僕を見て心配していた。
……
何だ……?
電車の窓からふっと外を見たとき、鏡のようになった窓に映った僕の姿に覚えた違和感。だが何がいつもと違うのか、よくわからなかった。
電車で得体の知れない恐怖を感じた僕は、いつも以上にしかも無理していつもの酒量を過ごしても飲み続けた。大分酔いが回って吐き気のする一歩手前くらいまで行っていた。トイレに立ち、ちょっとふらつきながらも自分一人で用を足して手を洗っていた時だ。鏡に自分の姿が映っていた。ぼんやりと歪んで見える。きっと酔っているから焦点が定まっていないんだろう。蛇口を閉めた時だった。
オシエテヤロウカ……?
身動きが取れない。完全に固まる全身。息をするのが精一杯だ。あんなにひどかった酔いが一気に覚めていく。
突然何かが、下を見たまま動かない僕の肩を叩く。びっくりした拍子に金縛りが解け、青い顔のまま振り向いた。
「おい裕也! 裕也! 大丈夫か、本当に……」
「なんだ、高志か…… おどかすなよ」
「驚いたのはこっちだぜ? 一体何分経ってると思うよ? もう10分だぞ。そりゃ心配して見に来るっつーの。見にきたら洗面台で固まってるしよ。……本当に大丈夫か?」
「ああ、大丈夫。って10分? まだ2、3分じゃないのか? 僕が立ってから」
「何言ってんだ。2、3分で様子見に来るかよ、それも男のよ!」
「それもそっか。悪ぃ悪ぃ。でもさ、ホント何でもないから」
そう言って顔を上げ、ちらっと鏡を見た。
……やはり少し自分の姿がぼやけている。だが友人の姿はまったくぼやけていない。
何だ、これ……。
得体の知れない気味の悪さに、背筋に冷たいものが走る。何の悪い冗談だ。
戻ってみると、一斉に僕の長い離席を冷やかす。適当にあしらいつつ自分の席に戻って、何事もなかったようにまた馬鹿げた話の中に入っていった。とりとめもない愚痴や先生たちへの文句、不満を笑い話にしながら盛り上がっていた。酔いも覚めてしまったから、またいくらかアルコールを取る。
……盛り上がっていないと、じわじわと押し寄せる恐怖に押しつぶされてしまう、そんな気がしていた。