「鬼気」
「……空気が変わったな」
YOUの声が響く。どういう意味か分からなかったが、二人の魂を導いた机と椅子が置かれた手狭な空間から再び広い土間に戻ってきた時、確かに感じた。今までになかった、世界に満ちる緊張。呼吸するのも苦しい。
これに似た空気を以前どこかで……
一歩だけ踏み出すと、左の腰の辺りからちゃぷっと音が立つ。
……そうか、これは彼女と初めて会ったときと同じ空気。
あの日出会った優奈の殺意によく似ている。
かーってうーれしーい はーないーちもーんめ
まけーてくーやしーい はーないーちもーんめ……
歌が聞こえてくる。昔から歌われているだろうわらべ歌。タイトルはそのまま「花一匁」。のん気なメロディと、列を作った子供達の無邪気なやりとりがかわいらしい遊戯。だけど、この歌は昔、食べることもままならないほど貧しかった人達が、自分達の子供を子買いに売り、安く買われていく子と別れる情景を歌ったものだと聞いたことがある。そんな悲しい歌だからこそ、遊戯だけでも楽しくあっていいんじゃないか。
でも、この場にあっては狂気しか感じられない。
とーなりーのおーばさーん ちょいと来ておーくれ
おにーがでーるかーら よーう行かん……
後ろから気配がする。振り返って見た物に驚いて飛び退き、間合いを広げた。そこには着物姿の子供が二人いた。二人とも同じようにおかっぱ頭で、赤い唇をしていた。だが、一人は黒い包帯のようなもので幾重にも目隠しをしていた。
こんなに暗い屋内だと言うのに、二人の姿はやけにはっきりと、色濃く見える。この子達が本体。二人組みのシェイドも在るということか。
二人が手をつないで歌っている。
あーの子ーがほーしい
あーの子ーじゃわーからん
相談しーましょ
そーしましょ
遊戯のクライマックスだ。先手を打たれる前にレクイエムで薙いだ。
姿が消える。だが手ごたえはない。視界の右側で何かがゆれた。それは着物の袖。さらに薙ぐ。また手ごたえはない。
クスクス……
オ兄チャンハイラナイ
左側から声が聞こえた。それと同時に突き飛ばされる。
オ姉チャンダケデイイヨネェ……
ネェ……
ペットボトルを二人でパスし合って遊んでいる。そんなものがこの屋敷の、こんな土間に転がっている? それに「お姉ちゃんだけ」だと? 気がついて腰の辺りを探る。ない。
クスクス……
オ姉チャンダケデ……
「優奈のことに気付いているか…… これは相当に手強いぞ。加えてハンドラーだ。危険性はブレイズ級だと思え」
YOUの声に僕も気持ちを引き締めなおす。ブレイズ並だって? 僕に勝てるのか? ……いや、導かなくてはいけないんだ。
目隠しをした子がペットボトルに口づけする。吸うような仕草をして、ぱぁっと息を吐く。眠ったままの優奈が宙に放り出された。起きる様子がない。
ワァ……! キレイナオ姉チャンダネ……
オラ達トヨク似テルネ
ソウダネ! キットオトモダチニナッテクレルヨネ!
そう言って二人して全く動くことのない優奈にぺたぺた触る。あまつさえちゅっちゅと頬や手にキスしていく。
なんてうらやま……じゃない。優奈をどうするつもりだ。出方を窺っていると、突然二人とも動きを止め、僕の方を見た。辺り一面に一気に緊張が漲る。
ダケド…… オ兄チャンタチハ モウイラナイ……
オラガヤッテクヨ、先ニオ姉チャント遊ンデテ……
ウン、マタ後デ……
目隠しをした子が優奈に抱きつくと、すぅっと姿を消していく。
「待てっ!」
僕の声は無視され、伸ばした手も空を切った。直後再び突き飛ばされた。
ダーメ。怖イオ兄チャンハココデ消エテシマエ……
宙に浮いたままのその子の見開いた瞳が僕を捉えると、周囲にあった物が浮き上がり、僕めがけて飛んでくる。木箱や皿、置物程度ならまだしも、包丁まで飛んでくる。包丁くらい家を引き払う時に処分しなさい! ともともとの主に説教してやりたい。
当たらないように走り回る。シェイドの女の子は必死そうな僕の姿を見て嬉しそうな顔をしている。だがその顔も、子供らしい愛くるしい笑顔ではなく、狂気に囚われた無邪気な笑顔。だが、どことなくおかしい。すべての飛来物を躱しシェイドの子供を間合いに捉え、柄尻で突きを出す。慌てる様子もなく、すーっと滑るように移動して間合いを離された。そのまま移動していき、壁に手を触れると闇となって消えた。
クスクス……
背後から笑い声が聞こえたかと思った瞬間、突き飛ばされた。
オ兄チャンガオニダヨ…… コッチコッチ……
不意を突かれたので姿勢を崩しはしたが転ぶには至らなかった。踏みとどまり振り返ると僕の方を見たままシェイドが後ろへ流れていく。走って追いかけるが、やはりさっきと同じように捕まえるにはやや速い。見失わないのが精一杯だ。襖が開いたところから小物が飛んでくる。避けきれない物はレクイエムで弾き、そのまま追跡した。襖を開いてシェイドが逃げ込む。僕もその部屋に飛び込む。僕が入ると襖が閉じた。
そこは今まで通ってきた部屋よりも少し広い。そしてもう少し暗かった。
ドーコダ
一歩一歩部屋の隅々に意識を配りながら進む。僕の脇で、すっと動く大きなものが視界に入る。思わずびくっとして見えた側に振り向いた。
……それは僕の姿だった。僕が動くとその通りに動く。鏡のようだ。目を凝らせば部屋中で僕と同じ動きをするものがいる。鏡だらけだ。枠など無く、鏡面だけがたくさんあった。それはそれで気味が悪い。宙に浮いているものもある。後ろから勢いよく僕の頭に何かがぶつかる。小物のようだが結構痛い。
いろいろなものが飛んでくる。鏡と闇に包まれているこの部屋ではどこから襲い来るのか把握できない。次々に僕に当たる。そして飛んでくる小物が数を増していく。果てには鏡の中からも飛んで来た。もはや現も幻もあいまい。
闇雲にレクイエムを振り回したところで本体をとらえられるわけもなく、無駄に体力を消耗してしまう。ここは耐えるところだ。
逃ゲタッテ 暗クタッテ 関係ナイヨ
ダッテ オラニ触ラレタデショ?
ドコカラダッテ当テラレルヨー。オラハ的当テ名人ダカラ!
「ぐっ!」
側頭部が痛い。飛んできた物が僕の頭に衝撃を与えるのと同時に高い音を立てて崩れ落ちた。僕も思わず膝を折った。足元に見えるのは陶器の欠片。くそ、花瓶なんか置いたまま家を手放すなよ……。衝撃を受けてぐらぐらする頭を軽く振って立ち上がって、本体を探した。髪が少しぬれている。軽く出血しているようだ。
クスクス……
ドコカラ来ルカワカラナイデショ
ドンドン増エルヨ。イクラデモ……
カクレンボモ、オニゴッコモ、的当テモ。全部オ兄チャンノ負ケダヨ……
クスクス……
着物姿の子供が目の前に音も無く現れる。苛立ちもあって、思わず手が伸びた。僕にとっても不意の行動で、相手にも予想できなかったらしい。僅かに遅れてそのまま後ろに流れて闇に溶けたその子の腕を掴むことはできなかったが、僕の指先はシェイドの手首を掠めた。
……掠めた。
僕からシェイドに触れた? 何だ、今の。
危ナイ危ナイ モウオシマイニシヨウネ。ジャアネ、オ兄チャン
僕の周りに合わせ鏡の世界が広がる。頭が痛い上にさらに視覚的に気持ち悪い。そして僕の周りに無数の刃が列を成す。
ドレモ本物ダヨ…… オラハ一人ダケダケドネ
クスクス……
分カンナイデショ。
クスクス……
勝利を確信したかのような余裕のある笑い声とともに、全方位から一斉に無限の刃が僕の方へ向かって来る。だけどそれがこの子の最大の過ちだ。
左後方、そこに向かって思いっきり蹴りこむ。刃が僕に届くよりも前に、僕の足にある程度の大きさの物からくる反動が確かにあった。蹴り飛ばされたものは僕の足の延長線上にあった鏡を砕き、床に倒れる。迫りくる無数の刃も鏡の奥へと帰っていった。
……
その時、僕はどんな顔をしていたんだろう。
合わせ鏡の世界にできた欠けから飛び出し、大きく振りかぶったレクイエムをそのまま床にめがけて振り下ろす。眼下には恐怖に顔を引きつらせた、小さな子供と同じくらいの大きさの人形がいた。必死に両腕を交差し、頭を護っている。しかし、止めることはできない。
その胸部を貫いた瞬間、この部屋に巣食う闇がすべて追い払われた。
……
…
死期が近い者、シェイドは鏡に映らない。優奈も姿見に映らなかった。
この子は一体どっちだったんだろう。
シェイドと共に行動していたのだから、おそらくシェイドの類だったに違いない。
大切に、大切にされていた人形に生じた小さな魂が、この闇の屋敷の主の孤独を紛らわせていた。そこに悪意があったとは思えない。
してきた行為に善はない。これ以上行わせることはできない。
だけど僕もまた、ただ闇雲に怖がらせているだけなのかもしれない。
僕の責務に追われて、一体僕はどんな顔をして、どんな風に彼らと接してきたんだろう。
床に転がったまま抜け殻となった人形を抱え起こし、台になりそうな背の低い箪笥の上に座らせた。床の上を転がったせいでまとった和服に付いた埃を払い、おかっぱ頭の髪を整える。
……
一度だけ、もう動くことの無い瞳を見遣った後、無言でこの部屋の襖を閉めた。