「無邪気」
……居ない。
見つからない。一部屋一部屋をくまなく探すが、今のところ先に入った二人も、シェイドにも出くわさない。何かが傍にいて見られているような感覚はある。また一枚襖を開けて、次の空間に出るとそこは廊下。仕方ない。出ざるを得ない。領域を一旦抜ける。
クスクス……
あの笑い声だ。左右、そして上下に視線を配る。
左の方で何か黒っぽいものが部屋の中に引っ込んだのが視界に入る。足音を殺してゆっくりその方向に向かい、おそらく黒っぽい何かが入った部屋の前に行く。襖に手をかけようとしたその時、今度は右の、さっき出てきた部屋のあたりでやはり黒っぽい何かがこちらを覗いているのが視界に入る。僕が振り向くとサッと引っ込んだ。
あれがシェイドに間違いない。先に入った二人が、僕をからかうような真似をするわけがない。
元のところに走って戻る。開け放っていた襖が閉じられていた。その襖に手をかけた瞬間、闇が僕を包み込む。広がりきった後、すぐに晴れた。
相変わらず廊下に居る。だがおかしい。染みの広がり方、破れ方がさっき触れた襖と違う。さっきは右手側に光がもれている雨戸があったはずなのに今は右にも左にも雨戸が無い。
玄関に手をかけた時と同じ。どこかに飛ばされたようだ。
クスクス……
また笑い声が聞こえる。周囲に注意を払う。今度は右の方で何かが動いた。動いたと思われる方へ走り、再び開ける。また闇が広がる。そしてやはり別の部屋の前に立っていた。
クスクス……
領域に入ると問答無用で襲いかかってきた今までの者達とは違う。ずっと僕を見張っているだけ。……むしろこっちの方が気味が悪い。
今もなお廊下に居る。こんな怪現象に襲われているが、廊下にはまだ外から入ってくる音がある。早く領域に戻らないといけないのに、入ろうとすると別のところに飛ばされる。
くそ、このままだといけないというのに。気ばかりが焦る。
小さくパチパチと音が聞こえてくる。本やテレビで聞いたことがある、ラップ音という現象。シェイドの仕業であれば、何が起こっても驚きはしない。あたりに注意を払い続ける。どこから聞こえてくるのか。
おーにさーん こーちら
てーの なーるほーうへ……
……遊んでいる? 僕と鬼ごっこでもしているつもりか。
まさかもうすでに先に入った二人を……
……
…
あーぶくたったー にえたったー
にえたかどーだか たべてみよー
むしゃ むしゃ むしゃ
まだにえなーい
周囲は完全の闇に包まれ、ここがどこでどんな状態になっているのかまったく分からない。椅子に座らされているようだ。
あーぶくたったー にえたったー
にえたかどーだか たべてみよー
むしゃ むしゃ むしゃ
まだにえなーい
「むしゃむしゃむしゃ」という歌詞と共に全身に何かが吸い付く。恰幅のいい男性はその度に身体を小刻みに震わせ、顎をかくかくと動かしている。視線はぶるぶるして定まらず、表情はもはや正気を保ってはいなかった。口角からは唾液がたれていた。
始めは恐怖に支配されていたのだろう。だが今はそんな感情すら麻痺し、何も分かっていないようだ。
にえたかどーだか たべてみよー
むしゃ むしゃ むしゃ
もうにえたー
「待て!」
遠くからはっきりとした、誰かの声が聞こえる。
吸い付かれるたびに混濁する意識のなか、声に対して一瞬正気を取り戻した。
「た助けてくれ、助けてくれ!」
届くかどうかはわからない。その誰かが近くに居るのかもわからない。しかしこの恐ろしい状況から出られるかもしれない。必死だった。
「助けて! たふ へ へ……」
再び何かが吸い付き、全身の筋肉が弛緩していく。
クスクス……
遊ボウヨ
マダ遊ボウヨ……
アノオ兄チャンモ、ユキチャント遊ンデクレテルノ
オジチャンモ オラト一緒ニ遊ボウヨ……
耳元で響く、低く呻く声。恰幅のいい男性は目尻に涙を少し溜めている。
しかしその表情には恐怖も、戸惑いも、嘆きも、喜びもなかった。
とだなにしまっておきましょう
おふとんしいて もうねましょ
歌と共に引きずられていく。
のちに闇の奥からごきん、ごきんと鈍い音が闇の中に響き渡り、間もなく静かになった。