「そこに居る」
……カーテンをあけ、道路を見遣る。
俺の部屋は二階で、家の前を通る道路に面している。昨日のように縁側から見るよりも広い範囲を一望できる。……見える範囲には居ない。
気にしすぎるのは却って良くない。俺が向こうを認識していることを教えているようなものだ。そうなると憑き纏い方が激しくなり、実害を伴うことさえある。そう言う事を知らなかったガキの頃はよくうなされたり熱を出したりした。酷い時は連れて行かれそうになった。
それはまだ小学校に上がったばかりの頃だった。偶然目を合わせてしまった老婆の霊が昼も夜も俺の後ろにずっと居るようになって、体調を害してしばらく学校を休んでいたある日の真夜中だった。それまで見渡せば必ず俺の視界に入ってきたはずのそれが姿を消し、ああよかった、と一息ついていたときだった。
これでやっと熱も退く。明日からは安心して学校に行ける。
ガキとはかわいいものだ。勉強なんてイヤだと思っていたはずなのに、いざ行けなくなるとそこが恋しくなる。そんなほのぼのとしたことを考えていた。
横になっている布団の枕元から突如手が現れ、頭をつかまれた。そして一気に下の方へ引きずりこまれる。決してありえないはずの感覚。あれは今でも背筋が凍る。子供ながらに、死ぬと思った。確実に殺されると。必死にもがいて身体から離れてたまるかとムキになって堪えていた。
ところが再び目が覚めた時には普通の朝だった。消耗しきって寝ていたらしい。どうして助かったのか、良く覚えていない。今でも分からない。
母さんもオヤジも俺のように「みえる人」ではないから、身内が助けてくれたのではないだろう。実力行使で連れて行こうとする奴が、ガキ一人抵抗した程度で諦めて離れていってくれるなんて虫のいい話もない。今思い出しても思う。ああ言う連中は見えるだけの俺じゃ手に負いきれない。
ところであの夜の出来事で、一つだけ強く印象に残ったことがある。
なぜ最も強く印象に残ったのが「色」なのか、さっぱり覚えていない。
「紅」
周囲は完全な闇。目も堅く瞑り、俺の目に映るものなんてなかったはずなのに。
紅なんて、俺の周りに一切なかったはずなのに。
それなのに、俺の脳裏には強く真紅が焼き付けられていた。
ガキの頃は今よりももっと色々なモノが見えていた。きっとその色も霊的な何かなのだろうが、それと同じ色を二度と目にすることは無かった。
ひとまず俺の近くに居ないことに胸をなでおろし、朝飯をいただいて登校する。昨日通った交差点、そこに昨日見た小学生の女の子はいなかった。
……
…
夏の校舎はムシムシと暑い。たまらないほどやる気を奪う。風が吹き込めばまだ頑張れないこともないが、大抵無風。エアコンを備え付けてくれ、と切に願う。扇風機でもいい。なんとかしてくれ、この不快指数を。席によってはプリントが風に舞ったりしてイラっとすることにもなりそうだが、それは贅沢な悩みと言うことで黙殺してやる。だから、せめて……
叶わないに決まっている妄想をしながらふっと窓の外をみる。俺の席は窓側から二列目。座ったままでもグラウンドが見える位置だ。今の時間体育をしているクラスはない。女の子達が体操着姿で授業に臨んでいるのが見えたらちょっと得した気分になれたんだが……。
ふっと鼻から息をついた、その直後。俺は人知れず凍りついた。
……居る。長袖を着た少女が、校庭に一人。
窓際の学生の何人かが俺と同じように外を見ていたが、首を傾げたりする奴はいなかった。
それから四日。家でさっきまで閉まっていたはずの窓が開いていたり、遠くにその姿を見かけたりすることが頻繁になった。そして遠くで見かけていたはずのそれは、少しずつだが確実に近づいてきている。気が重い。
前の日の晩、ただでさえ雰囲気が悪い上に非常に蒸し暑かったのでエアコンを28℃設定でつけていた。ここ数日睡眠不足が続いていたので贅沢だと思いながらも決行。タイマーセットしておいたのでさらにエコには配慮している。十分に身体を休めるためには少しくらい贅沢させてもらわないと叶わない。
おかげで今朝は、とても快適な目覚めだった。そよそよと心地いい風が吹き込み、さわやかにまどろみから覚めた。
柔らかな風。カーテンがそれに揺れる布擦れの音が気持ちいい。
……風?
……開いている。
……
…
気付いた次の日から高校へ行く道筋、帰宅する道筋は一度として同じルートをたどっていない。この近隣の住人でも、俺がこの道を通って登下校するとは思いもしていないはずだ。
それなのに俺の進路の前にそれが居た。突然引き返したり、ルートを変えたりはしない。可能な限り無関心を装い、横を通過し学校を目指す。
行く上で必ず通らなくてはいけない橋の上、校門の前でもすれ違った。全て先回りされている。今のところは何とか平静を保っているが、いよいよ危ないかもしれない。
内心落ち着かないまま授業を受ける。先生に指され、答えるとき声が裏返った。教室は笑いに包まれたが、俺はそんなことでは和みきれない。
「高志~。最近疲れてないか?」
おお、裕也が少し気を遣った。という事は傍目から見て俺は相当に疲労しているように見えていたということか。……そうだ。
「まぁな…… いろいろ思うところが在るわけよ。
……おっし! 金はまだあるから何人か誘ってカラオケにでも行こう! お前もストレス解消に付き合えよ!」
今日は一人でいるのは危ない。朝、ついに俺の部屋の窓までが開いていた。自室でもあいつらはお構い無しに入ってくる。仲間と一緒に居れば多少は手を出してこなくなるはずだ。
……
…
~~♪ ♪
♪ ♪♪ ♯♪~~
♪ ♪ ♭♭ ~♪
今は友達に囲まれて、これくらいうるさくてかなわないくらいが丁度いい。連中の事に気を病まなくても済む。
前からそうだが、カラオケで裕也と行くとこいつは必ず何曲か洋楽を歌う。それも流暢で結構巧い。そう言やこいつのおふくろさん、すっげぇ美人のアメリカ人だったな。おふくろさんの影響だろう。育ってきた環境が違うから、と言うヤツか。男は母親似とよく言うが、裕也は上手く混ざったのかおふくろさんの面影を残したまま日本人の見た目だ。アタマも良く回るし背も高い。ホントにこいつ、何でモテないんだ? 内面か? 内面がいけないのか?
ひとしきり全員が歌い盛り上がってきたところで俺はお手洗いに失礼した。部屋を出た廊下から先はさっきまでの喧騒が嘘みたいで、違う世界の出来事のように感じる。僅かに漏れる音がすこし気持ちいい。
用を足して振り返った瞬間、息を呑んだ。時間が止まる。
……俺はなんで一人になった?
あの女の子が目の前に居る。無表情に目を見開いて。背筋に冷たいものが走る。息を忘れた。後ずさりすることもままならなかった。
手洗い場前の鏡にも映っている。この子から放たれている雰囲気と、季節はずれの長袖に気を取られなければまったく普通の人間としてみてしまうほどのリアル。だがこいつはもうすでに彼岸の住人だ。
俺を凝視したまま近づく。歩くことなくそのまま平行移動。一歩下がろうとした瞬間、手が届くほどの距離に一瞬で詰め寄られた。俺は完全に凍りついた。
眼下の少女の顔の前に頭を引き寄せられる。力で抵抗することが全く出来なかった。生きた心地がしない。無理やり合わせさせられた視線を外すこともできない。表情のない見開かれた目と、これほどになく待ち侘びたと言わんばかりに上げられた口元のあまりのギャップに、唾を飲み込むのが精一杯なほどに俺の体は竦んでしまっていた。
生きた心地がしないまま、どれだけ時間が経っただろう。
オマエジャナイ…… オマエジャ……
落胆したようにそう言って、両手で掴んで強引に引き寄せた俺の顔を離して、消えていった。
俺じゃない……? それじゃあお前は一体何を探しているんだ。
もうお前に気付く人間なんてほとんどいないこの世界で、何を求めているんだ。
掴まれた顔を離された途端に後ろに倒れ、腰が砕けてしまっていた俺は息を乱し、答えのない眼前の虚空を見ていることしかできなかった。
第五章おまけ、終了です。
高志さんを襲った少女の霊は一体何者で、何を探していて、どこに行ったんでしょう。まったく「みえない」れいちぇるには理解の外。いつかこの子もどこかでシェイドになって、死神に導かれるまで人に仇なすことになるのでしょうか。
それまでに探しているモノに出会って、救われると良いのですが……