「境に棲まうモノ」
「不思議なもんだ…… ああ言うのが憑いていく相手もいないのに自分からどこかに行くなんてこともあるんだな」
「不思議って言われても初めっからさっぱりわかないんだけど? ホントに居たのか?」
惚けてみる。
「間違いねぇって。……そりゃお前、みえる人にしてみたら、だけどよ」
だから言いたくなかったんだよ、とぼそっと付け足したのを聞き逃さない。だけど僕もあえて聞こえなかった振りをする。彼が言うように間違いない。確かに居た。終始僕の目に映ることはなかったが。
僕は再び、先日訪ねた寺で頂いた香に火をつけた。
……
…
いい具合に夜中だ。彼女の部屋のあるアパートは郊外に位置していて、喧騒とは縁遠い静寂な空気が支配する。寝静まったわけではない。周囲の家々の明かりは未だ灯ったままのところが多く、耳を澄ませばその明かりのどこかから暖かな談笑が聞こえてくる。
今僕は扉の前に立っている。この向こうにあるのは、このまま闇に飲み込まれて戻って来れなくなる者が住まう世界。ここに来るまで大きな変化は感じなかった。あの首筋が冷やりとするような感覚だけが僕を包む。シェイドの領域に入り込んだ独特の雰囲気はここにはない。
「YOU、どうだろう?」
「現在はシェイドの類ではない。いずれ成るだろうがな」
「どうすれば?」
「本来これは我々の仕事ではない。魂だけになった者を変性させぬようにするのは同属たる人間の務めだ」
何もできないから傍観しておけ、ということだろうか。僕が憤りを感じるのは間違っていることだと知っている。かつて同じ事を、僕はしたのだから。
だから尚更、捨て置くことなどできはしない。
「変性しシェイド、ブレイズと成れば我々の管轄だ。それまで待つのもよかろう?」
「……」
「特に大きく害となってはないのだ。お前の友人も言っていたように、あの女がこの部屋を引き払いこの地を不可侵としておけばよい。そうすればいずれシェイドと成ったときも被害が及ばず、そして俺達が動くことが容易になる」
「……それはできない」
「何故だ?」
「結局、成るんだろう? だったら放っておくわけにもいかないじゃないか。別の場所に移ってしまうかもしれないだろ? 今ここに居るってわかってるんだから、今やらないと」
「……だが、俺が言う理由をすぐに知ることになるぞ。俺達の管轄ではない、と言う意味をな」
彼の言うことに無駄なこと、意味の無いことなど今まで無かった。必ず何か重要なことを含んでいる。そのことを十分に受け止め、僕は彼女から借りた鍵を取り出し、異形となる者が住まう世界の扉を開けた。
……
今は夏季。湿気を含み肌にまとわり付くような重い外気と、ある程度下がりはしたが日がどれほど強かったか思い知らせるようにこの時間になっても地面に残り立ち上る熱気。それは本来屋内にも届き、息苦しささえ覚える時もある。
この部屋にも流れる息苦しさ。それはまったく異質のものだった。空気は冷たくまとわり付いて、僕の身体を内側へ内側へと押し潰そうとする。電気がついていなかったことから隣の部屋の住人は留守にしているか、もう寝ているのだろう。だがこの静けさはそれだけから来るものではない。冷蔵庫だけが小さく無機的に唸っている。生ある者は微かに音を立てることさえ危険と感じ、すべてが息を殺して潜むことを選んでいるのかもしれない。そんな錯覚すら覚える。
何事も無ければ、と淡い期待をしていたがそれは所詮僕の甘い空想でしかなかった。ここにある雰囲気を発するのは異質の者。やはりシェイドとは異なる感じだが、確実に何かがここに居る。だがこの部屋の隅々まで見渡すが、どこかに居るはずの何かを目にすることは無かった。
靴を脱ぎ、そのまま部屋に上がる。暗がりの中電気のスイッチを探して付けてみると、意外なことに電気はついた。その明かりの中でベッドの下やタンス、本棚、机の隙間を覗き込んだ。
……特に何かが潜んでいはしない。
一つ大きく息をついて、赤と白の大きなチェック模様のベッドの上に腰掛けた。直後、ぱぱっと電気が瞬いたかと思うと、周囲が闇に包まれた。
きぃ ……きしっ
きぃ ……きしっ
板目が擦れ合う音がちいさく、しかし確実に部屋を満たす。僕を中心に部屋の中を行ったり来たりするように音の出処が移動している。音の方へ目をやるが、ぼんやりともその音の主を目にすることは無かった。
……これが、YOUの言っていた「管轄外」ということか。
見えないんだ、死神には。
これをどうすればいいのだろう。闇雲に振り回したとしても当たらなければ吸い上げられない。もしも縛り付けられる前である今、あの子のようにレクイエムに恐怖を感じたのならば、ここから居なくなってしまうとも考えられる。部屋の主にしてみたらそれで十分かもしれない。だがそうなればまた違うところでシェイドになるのを待つだけだ。何も変わっていない。遭遇すれば確実に導ける力だと思っていたのに。
気が付けば僕の様子を覗うように響いていた音が止んでいる。
目にすることは無くても、居ると言う気配だけはわかる。
ふぅ、ふぅ、と息遣いのような音を微かに感じる。
間違いない。まだこの部屋のどこかに居る。
意識を集中して、少しでも違和感があるところはないかと周囲を探る。
どれくらい時間が経っただろう。
ぴるるるるるるるるっ ぴるるるるるるるるっ
唐突に電子音が鳴る。心臓が飛び出すかと思った。あえて車に置いてきたから僕のケータイではない。机の上に折りたたみ式の携帯電話が置き去りにされて、液晶画面が明るく光っている。彼女のケータイだろう。一向に電話が切れる様子がない。開いて誰からの着信か確認する。
「タカシさん」
登録の仕方があの子らしい。やはりあの子の持ち物だ。そして電話の主は僕の親友だ。現場は油断できる状況ではないが、電話を取って少しでも安心させてやろう。
「もしもし、こちら裕也」
「… …は … こ… わた… …ど …だ…」
「もしもし? もしもし?」
「どうし… … …ね …い …前は… …ん ……」
ノイズが酷すぎる。
「おい高志! もう一度言ってくれよ、聞こえてるかー?」
「はや… …やく行か……… どこ… …ここ… い…まで……… …うして…」
……違う、これは高志じゃない。あいつの彼女でもない。この声の主は誰だ? 言葉を失い生唾を飲み込んだ。
オマエハ、誰ダ
はっきりと耳元で声がした。直後喉元にひやりとしたものがまとわり付く。はっとして反射的に電話を手にしていない右手を喉に当てたが、何かが触れているわけでもない。しかし確実に、喉にまとわり付く何かに力が込められた。右腕で思いっきり振り払う。僕の腕に何かが当たることはなかったが、力を込めた何かは僕の喉から離れていった。
つー、つー、と音が響く。電話はいつの間にか切れている。通話をオフにしてさらに電源を落とし、状況に精一杯の意識を向ける。
僕に危害を及ぼし始めているが、迂闊なことでレクイエムを抜くことは出来ない。この見えない相手を確実に導くことができる状況に誘い込むまで、決して手の内を見せてはいけない。……そうだ。今日行ってきたお寺でもらった物を、今使えばいいんじゃないだろうか。使うことがあるかもしれない、と思ってナップザックに入れてきたんだ。それに高志に一応持っていけと言われたあれも使おう。
……
まずは部屋の角に向かう。ナップザックを開いて薬包紙のようなちいさくきれいな白い紙を敷く。そして粉のようにきれいな小さな粒の清め塩を盛った。すべての角と窓、玄関に同様にする。本当にどれだけ効果があるのか知れたものではないが、昔からよく言われているようだし、魂をシェイドにさせないようにしてきた人々の知恵と歴史と経験を信じてやるしかない。
ずっと部屋の中には何かがゆっくりと歩き回る気配と微かだがうめき声のような音が響いていた。隙間風が入ってくる時のような音にも似ているが、今夜の外は無風で、不快指数が非常に高い。それに空いている隙間などない。不意にふぅっと耳から首筋のあたりに何かが通り抜け、時折僕の背中に冷たいものが走る。服の上からではなく、直接肌に触れられるような感覚。
シェイドと対峙するのとは全く異なる不気味さと恐怖が僕を襲い続ける。手が震え、息をするのが苦しい。
だけど、今僕がやらなくてはいけない。
塩を設置し終えた後、僕は袋の中から箱を一つ取り出した。
……
…
「これは?」
「お焼香用の抹香と、それと線香になります。取り立てて特別なものではありませんけれど。お葬式などでご覧になったことは?」
「ああ、これが。実際に手に取ったことはないですけど」
「はは、そうですか。……ぜひこれをその写真をお撮りになったところであげていただけたら、と思いまして。気付かれたお二方と一緒にどうぞ。少しでもご供養になりますから。写真に写ってしまわれた方も、心慰められることでしょう」
唐突な申し出だったにもかかわらず快く引き受けてくれただけでなく、丁寧な気遣いも非常にありがたかった。お礼を言って立ち去る直前だった。
「ただし、一つだけ気をつけて下さい。
われわれには、これ以上のことは出来ない。
あなたはこれから、次の世界へ行かなくてはいけない。
生ける者への未練は理解できても、ここに引き止めることは決して出来ない。
だからせめて、心安らかに向こうに旅立ってください。
……そう心を強く持って、霊に向き合うこと。これだけは忘れないでください。そうでなければ、彼らはあなたたちに憑き、永遠にさまよってしまうでしょう。お互いここで決別するのだ、と私たちが強く意識しなくてはいけないのです。それでは……」
……
…
かつてYOUが言っていた葬儀の役目が今では感覚的に理解できる。生ける人がしなくてはいけない、死者との付き合い方。
袋から出した箱の中に一緒に入っていた香炉の代わりの小瓶。灰もその四分の三くらい入って蓋をされていた。その蓋を開け、火種となる炭にマッチで火をつけその上に抹香を盛る。線香にも火をつけ先端が赤く燻るくらいにしたところですぐに炎を消し、盛られた抹香の周りに立てた。決して多くはないが少しずつ香の煙が部屋の中をたゆたい始めた。
明かりのない部屋の中も、完全なる闇ではない。目のなれた僕は再びベッドの上に腰掛け、煙の漂う先をなんとなく見ていた。その間もずっと怪しい気配は僕に付きまとっていた。僕の心が折られるのを待っているかのように。ふと気がついた。
……煙がある一帯に強く留まっているような気がする。
もしかしてそこにいるのだろうか。だが、今確信のないままレクイエムを使うわけにいかない。思案を重ねていた。
闇の中でもある程度物がどこにあるのか把握できている今、本棚に何か本とは違うものが置いてあることに気づいた。煙の動きに注意しながら少し立ち上がり、その異物を手にとって再び戻った。
カメラだ、使い捨てのフィルムタイプ。
写真から出てきたんだ。また写真に収めてしまえば捕らえられるんじゃないのか?
理屈なんてない。なんとなくの直感だがそのまま行動に移す。フィルムはまだある。煙が濃くなっているその場所にファインダーを向けシャッターを切った。切ったのと同時に瞬いたフラッシュ。僕もその光に一瞬目が眩んで周囲がわからなくなった。再び目が慣れるのを待ち、カメラを向けたほうを見る。あたかも強いフラッシュがかき消してしまったかのように、濃かったはずの煙が薄く広がっていた。
うまくいったのだろうか。
確証も自信も無いままカメラを舐めるように見ていた。
「……居るな」
頭の中に声が響く。……ありがとう、教えてくれて。
僕は棺となった小さな箱を床に置き、左の掌からレクイエムを引き抜いた。
……
…
「あいつさ、やっぱりこの部屋からは出すわ。もう居ないけど、怖いだろうしさ」
蝉がうるさい。備え付けのエアコンなしでは厳しい暑気が流れ込む。もうここは、生ある者のための世界。だけど次の住人には何も知らない人が良い。
「……そうだよな。あんな短時間に異常にやつれたもんねぇ。トラウマだよ、PTSDってやつだよ。……って言うか、もしかして」
「……ああ、そう言う事」
ちっ。人がちょっと苦労してる間にそんなことを考えていやがったとは。半ば呆れ顔でベッドの上に腰掛けた。部屋を見渡した。まだ角には清めの塩を供えたままだ。アキちゃんの荷物を高志の部屋に移す時に片付けるのを手伝ってあげようか。
本棚に戻したカメラを見遣り、昨日の事と、和尚さんに言われたことを思い出していた。
……われわれには、これ以上のことは出来ない。
あなたはこれから、次の世界へ行かなくてはいけない。
生ける者への未練は理解できても、ここに引き止めることは決して出来ない。
だからせめて、心安らかに向こうに旅立ってください……
……
本当ならば、お経の一つでも詠んであげられたらより良いのだろう。だけど残念なことに僕にはそんなたしなみがなかった。ただ手を合わせ、祈るだけ。
この部屋中に漂う香のかおり。これがせめてもの手向けとならんことを…
第五章、終演。
このあと第五章のおまけをお送りします。おまけが終わりましたら「YOU」もいよいよ後半に入ります。