「涙」
下っ腹に力を込め、無意識だと荒くなる呼吸を精一杯抑え、大きく呼吸をしながら前に進む。足を引き摺りながらでも、レクイエムを杖に使うことは出来ない。今立っている場所は水の上。レクイエムの力でこのシェイドの力を打ち崩したらどうなるか、何となく想像がつく。まだ導く前に相手の腹の中にもしも落ちてしまうような事になれば、それは僕の命が尽きる事を意味している。
僕が近付く間中ずっと、水面から次々に現れ襲いくる水の塊。数は多かったが、そのどれもが泥細工に比べたらとても脆い。レクイエムで簡単に凌げる。本体に近づくのは容易だ。死に物狂いのその場しのぎの行動なのか、それとも眠っている間は単純な自動防御くらいしかできないのか、それは分からない。僕だったら距離はあっても絶対にさっきの泥細工をメインに使う。確かに水面から現れる水塊が瞬間的に形を成すのに比べ、泥細工自体は作り出すまでに時間がかかっている。だが効果を考えればどう考えても後者の方が強力だ。
……それに足を負傷した今、背後からあの泥細工に襲われたらひとたまりもない。幸運だ。
中央の水面直下に浮かんでいる本体は裸にされた女性だ。顔を下にして、膝を抱えて浮かんでいる。背中しか見えないため体つきから男性ではないと推察。その背中には皮膚の裂けた傷が無数にあった。それも新しい。生きている間に、絶命する直前につけられたのだろう。
あの男の子の焼け爛れた右半身。あれも死亡する直前に負った火傷だと思う。それがそのままあの子の魂の形になったものに違いない。
……とても痛々しい。
このシェイドはまだ眠っている。目覚める前からこれほどの力を持ったシェイドがもし目覚めてしまったら、僕には手の打ちようがない。かつて言われたように、躊躇うことなく貫くしかない。左足の踏ん張りが利かないが、レクイエムを左肩に担ぐように振りかぶった時だった。
ゴムのような水面が激しく波打つ。ほぼ右足のみで体を支えている僕は為す術なく膝が折れ、尻餅をついてしまった。次の瞬間水面から生えた鞭に払われ、岸の方に弾き飛ばされた。ゴムのような水面で何度かバウンドしたおかげで、払われた勢いのまま陸地に叩きつけられることはなかったのは幸運だろう。
再び激痛が走る足を押さえて身体を起こし、池の方へ頭を向ける。ちょうど本体の女性が膝を抱えたまま浮かび上がり、彼女を覆っていた水の膜を破って出てきたところだった。轟音を立てて池から水が巻き上げられ、再び彼女を包んでいく。
大量の水が押し固められていく。荒れる景色の中でよく見えないが、巨大な水球の中で女性は手足を伸ばした。押し固められて体積を小さくしていく水は甲冑になり、四肢と胴を覆った。月を背にした彼女の身体の周辺には昔話の挿絵でみたことがあるような羽衣が漂っている。
……きれいだった。言葉を失うほどに。
だが、月明かりを時々反射し輝く、透き通った鎧の奥に見える彼女の腹部には痛々しいほどの大穴が開き、臓器がうごめいていた。生前にこれほどの傷を付けられただなんて…… 一体何があったと言うんだ。ここまでの損壊を受け、歪むなと言う方がどうかしている。狂ってしまったのは本当に彼女の方なのだろうか。
「なるほど、やはりブレイズか…… 変性も早く、著しく強力なわけだ。裕也、逃げるぞ。今勝てるはずがない。この者を導くことは諦めろ」
言われなくたってすぐにでもその場を去らなくてはいけないことぐらいわかる。これは非常に危険な存在だ。理屈じゃない。何か、こう…… 腹の底から込み上げてくるような、そんな絶対的な畏怖。どうにかできるものじゃない。
だけど、何かが胸に引っかかり立ち去ることができない。何より、その美しさに目を奪われてしまっていた。
シェイドでなくブレイズと呼ばれたそれが目を開く。以前見たシェイドの男の子とは異なり、瞳が金色だった。
色彩は違うが、その目にわずかに見覚えがある。
そしてすこし短めの、きれいな茶色の髪。
……
…
僕の血の気が一気に引く。
気がついた。これは、さっき駅で見た少女だ。
たったの数時間の間にあれほどの酷い傷を付けられ、そして死神によって導かれるまでさまよい続ける悲劇の存在になってしまった。
僕が見捨てたがために……? 違う、見捨てたんじゃ…… ない……
少女が口をわずかに開く。
許サナイ…… 許サナイ……
オ前モ私ヲ殺スノカ……? アイツノヨウニ私ヲ……
ナラ、ソノ前二殺シテヤル……
静かに呟くようなのに、この領域すべてに響き渡る声。
僕があまりのプレッシャーの前に、つばを飲み込んだ次の瞬間だった。
一瞬で姿を見失った。
だが、背後に何かがいる。反射的にレクイエムの柄で防御したが、ものすごい力で吹き飛ばされた。今までの泥細工や水の塊による攻撃とは比較にならない。左足が無傷だったとしても堪えようの無い力だ。
小さく呻き、倒れ伏した状態で僕がさっきまで立っていただろうところを見る。そこには甲冑を纏う少女がいた。動いたことを全く視認できなかった。そして彼女の後ろを見て愕然とした。
泥細工が噛み砕いたり、スパイクボールが命中したり、チャクラムに切断されたりした木々があるのはこの場所じゃない。なのに木々の何本かがへし折れている。その木々の辺りに漂うゆらりとした物が彼女のもとに戻る。
羽衣による一撃。僕を吹き飛ばしただけでなく、そのまま振りぬいた羽衣は後ろに立っていた木々を割り箸を折るかのように無造作に、何でもないかのように砕き散らした。
……殺される。
絶望的なほど圧倒的過ぎる力の差。もしかしたら完全な死神の力を持っているYOUなら勝てるのかもしれない。だけど僕は人間だ。それにレクイエムだって力を失い、失われた力を取り戻す作業をしている段階だ。どうやったってこんな化け物に勝てるはずがない。
あまりに軽々と吹き飛ばしてしまった僕を見失ったブレイズはしばらくきょろきょろとしていた。この隙にこの場から逃げ出そう。たくさんの針に貫かれた左足が痛み、身体も恐怖で震えているから立ち上がれない。声も上げられない。
……どちらかと言えば、都合がいい。このまま見つからなければ……。林の方に這いつくばったまま進んでいく。
だが結局見つかった。彼女と目が合い僕が息を呑んだ時には、もう目の前にいた。
……どうしようもない。抗うこともできず、首をつかまれ吊り上げられた。相手は僕よりも小さな女の子の姿だというのに、僕の足が地面についていないほど高々と。そして放り捨てられた。受け身を取ることなんて出来ない僕は、頭を打たないようにと両手を後頭部に組んで頭を起こし、背中に力を入れて衝撃に備える。
ざばん! と大きい音と共に全身を冷感が包む。幸い池の浅いところに落下した。強いダメージの無かった僕が息を吸おうと水から身体を起こした時にはもう隣にいて胸を踏みつけられた。速過ぎる。顔はまた水の中だ。息が出来ない。必死にもがくが、だめだ。レクイエムも最初の一撃の時に僕の両手から離れ、彼方に転がっている。
「呼べ!」
YOUが端的に叫ぶ。何を呼ぶのか問う余裕はない。
「レクイエム!」
右腕を上げ、水中で必死に声を出す。胸を押し付ける力が急に緩んで身体を起こせた次の瞬間、右手がしっくりと馴染むものを掴んだ。飛んで戻ってきたのか、もう何でもありだな。
レクイエムを杖にし、水中から身体を引き起こし、咳き込みながら息をした。絶体絶命は逃れたが、いつまたその瞬間が来るかわからない。
逃げなくては……。だがもう、逃げることはできない。
背中を見せたらその瞬間にきっともう死んでいる。
接近を許さないようにしてなんとかこのブレイズの作っている領域から逃げなくては。レクイエムを両手に握り、懸命に意識を保とうとしていなければそのまま倒れてしまいそうな緊張感の中、相手から目を離さないようにずっと気を張り、少しずつ後ろの林へとにじり寄っていく。
……様子が変だ。
さっきまでなら僕がわずかでも動こうものなら一瞬で詰め寄られ、とてつもない力で僕を攻撃してきたはずだ。
それが今は僕がレクイエムを構え気を張っているのに、何かもの言いたげな目をして僕をみているだけだった。そのことが気になり、構えと意識を緩めることはしなかったが、警戒心に満ち溢れていただろう表情だけ緩めて彼女の目を見た。
……泣いている。
ドウシテ…… ドウシテ殺ソウトスルノ……
何モシテナイ…… 何モシナカッタノニ……
おかしい。彼女は僕を殺すと宣言した。それに十分すぎる程の力がある。なのに僕にわずかではあるが慈悲をかけている。まるで、何もするな、と脅しているだけ。シェイド(いやブレイズか)は理性を失い狂暴化した、生者に害のある存在じゃなかったのか?
ナンデミンナ、私ヲ殺スノ…?
死ニタクナイヨ…… 死ニタクナカッタヨ……
モウ信ジラレナイ… ミンナ… モウ、ミンナ死ンデシマエバ良イノニ……
……
この子は一体どんな地獄を見たんだ。
僕は…… それを……
「何が…… あったんだ?」
あれだけの力を持ってさっきまで僕を殺そうとしていた存在がとても弱いものに見える。僕はたまらず聞いていた。僕が聞く資格を持っているはずがない。だけど僕が何をしてしまったのか…… 知りたくない。だけど、彼女の声はまるで誰かに縋り付きたい一心で、喉の奥から懸命に、懸命に出されているようにしか聞こえなかった。
YOUがうるさいくらい僕に構えろと言ってくる。だけど僕はレクイエムをおろし、一歩一歩、恐ろしくてたまらなかったものに近付いていった。
……近付かずにはいられなかった。
ブレイズの少女は動かなかった。口だけが動いた。
裏切ラレタ…… 信ジテタノニ……
イツモアンナニ優シクテ…… 安心デキタノニ……
痛クテ…… 痛クテ…… 怖クテ… 怖クテ…
私ガ…… 私ガ何ヲ……
モウ…… モウ信ジナイ……
僕の問いに答えた。コミュニケーションがとれると言うことだ。
「意思が保たれている…… 珍しいな。戦わなくて済むかもしれん。だが油断するな、一つ間違えば死ぬぞ」
言っている内容は怖いが、YOUが少しだけ安心したように言った。それこそ珍しい。
ところがレクイエムを構えていないのに、さらに一歩近付くと彼女の表情が険しくなり、雲行きがにわかに怪しくなった。僕もそれに反応して一歩退いた。
彼女が睨んでいるのは僕ではない。レクイエムだ。
……なるほど。暴力を振るわれるかもしれないことに怯え、過剰なまでに反応しているのか。確証は無いがこのまま対峙しているよりも危険は無いだろう。僕はレクイエムを消した。YOUが頭の中でずっと叫んでいる。
……
だけど、ほら、大丈夫だ。
途端に目つきが戻っているだろう? 僕が歩み寄るのを許しているじゃないか。