「淵に眠る」
今回は5000字オーバーの長文です。
……
……こんなに後ろめたい気持ちになるのは初めてだ。
ゼミ室について資料の山の谷間で自分のパソコンを開き、現在進行している分をまとめはじめた。なかなか集中できないまま時間だけが過ぎていく。声をかけられても生返事しかできていない。
少しだけ残っていた学生もぼちぼちと帰っていき、まもなく僕一人になった。いつもの光景だ。
「裕也…… 裕也……」
YOUの声だ。電車を降りてからしばらく頭痛と戦いながら無視を決め込んでいたら、とうとう向こうが命令するのを諦めた。今の今までずっと黙ったままだったのだが、とうとう僕への催促が再開したようだ。だがあえて反応せず、聞こえていないふりをした。
「裕也…… 何故行かぬ。知ったのだろう。ならば、行かねばなるまい」
さっきと違い、僕と対話するつもりらしい。こっちがどれだけYOUに聞きたいことがあったとしても、そっちはそれに応えなかったじゃないか。確かにYOUの体を譲り受け、生かしてもらった恩はある。だけどそれとこれとは別問題だ。そっちの都合だけで僕の体を利用しようなんて御免だ。
そもそも僕がしたと言う「契約」は案外ルーズな物のようで、レクイエムを元通りにするために死神の仕事を代わりに執行すれば十分なんだ。期限も特に無く、最終的にレクイエムさえ戻れば構わない契約。
もちろん僕としてもこんな怖くて気味の悪い仕事は早く終わらせて解放されたい。だけど並行して僕がしなくてはいけないことも当然あるわけで、どちらを優先するかの裁量は特に問われていない。
……だったら、今はこっちをやらせてくれ。
でも言ったところで向こうの主張が曲がるわけがなく、押し問答を繰り返すだけ。
なので僕は聞こえない素振りを徹底した。
「聞こえぬはずが無かろう…… お前の意識に直接語りかけているのだ。何故、行かぬ」
それでも無視を続けた。折れたら出来ない。
「お前が判別できるものは特別なものだけなのだ。放置してはおけぬ者ばかりなのだ。救いを求める悲しき魂なのだ」
……そう言われると、彼の声を無視していいものか、わからなくなる。
いや、結局こんな仕事を引き受けるような、お人好しの僕の心を揺るがせることが目的に違いない。
「お前はしなくてはならぬ。あの魂を導かねばいずれシェイドに……」
「……わかってる、わかってる! だから、今だって落ち着かないままなんだ! でも…… 僕にだって、やらなくちゃいけないことがあるんだ! もともと曲げられないんだろ!? それに、みんなだってやってくれるじゃないか! どうして目に付くものすべてを、僕らだけでやらないといけないんだ!」
とうとう爆発だ。ゼミ室には誰も居なくて良かった。YOUが落ち着け、と諭すように穏やかに語りかけるが、ここまで邪魔されて黙っていられるほど心は寛くない。
「もし僕じゃなきゃできないことなら、明日にしてくれよ! YOUならわかるんだろ、何処にいるのかが! 明日だっていいじゃないか!」
「……」
「だから、明日にしろよ! 今日はどうしてもしなくちゃいけないんだ!」
そう怒鳴ると、YOUの声はしなくなった。レクイエムと一緒に僕の中に完全に住み着いているのだから居なくなったわけではない。叫んだ後咎められるかと思っていたが、それもない。彼なりに一応理解してくれたのだろうか。
落ち着かない気持ちのままだったが、続けなくてはいけない。部屋にある音はかちゃかちゃと僕がキーボードを叩く音とマウスをクリックする音、がさがさと資料を漁る音、そして時々ふぅ、と僕がつく溜め息だけ。
明日行く。明日行くから。
いつもYOUが教えてくれていた。たとえ見失っても方角と距離さえわかればどれだけ時間がかかろうとも行ってあげるから。だから……
……
だんだん夜も更け、気がつけば三時を回っている。
「もうちょっとやったら少し寝ようかな……」
先生には昼、見せることになっている。大分目処が立ってきたので、ちょっと休憩しようか。
左の掌から出た柄を握った。その時だ。
「うっ……わ」
すごい耳鳴り。頭が痛くなるほどの。抜きかけたレクイエムから手を離すと耳鳴りが治まった。
もう一度握ってみた。一瞬耳鳴りがしたが、すぐ治まった。
……今度は泣き声が聞こえる。
「痛い…… 痛い…… なんで…… どうして……」
エコーがかかったように、部屋中に響いている。一体どこから……
……いや違う。これが直接響いているのは僕の頭の中? 静かなのに、ものすごい音量で頭が割れそうだ。
「許せない…… 許せなイ…… ゆるサナイ……」
心を引き裂くかのような、悲痛な声。たまらずレクイエムから手を離した僕は、冷や汗をかき息が乱れていた。左手から飛び出していた金色の柄に描かれた黒色の紋が、ゆっくりと穏やかに赤色に点滅している。
……いかにもマズイ状況を示していた。
「急げ…… 異常だ、早過ぎる……」
YOUの声がする。この声の感じからして、シェイドが出たのだろう。シェイドが発生したというのなら、僕にとっても話は別だ。放っておいたら大変なことになる。
だが、行く手段が無い。徒歩や自転車だったら相当遠い可能性もある。……戻ってきて続きをやらないといけないし。車…… いや、せめて原付なら……
! そうだ、高志の!
あいつは特に一人暮らしする必要のない距離に実家があるのにもかかわらず、三年のときから大学に近いところにある安アパートに住んでいる。都合のいいことに原付も持っている。あれを借りよう!
……
…
深夜も深夜にたたき起こされ、相当機嫌が悪かっただろう。申し訳ない。それにうまく説明できず、ただ慌てた状態なだけの僕を見て腹が立っただろう。だけど、そんな慌てた僕を見て特に何も聞かず鍵を渡してくれたことに感謝だ。本当に高校の時からいざとなった時僕が頼れる友達はあいつだけ。ありがたいことだ。
高志の原付に乗って、YOUの声に従い目的の場所をめざした。結構遠い。原付で少々飛ばして20分はかかった。ずいぶん広い範囲を感知している。力を無くしたと言ってなおこれだ。
……もしかしたらYOUはとてつもない死神なのではないか。
場所は林に囲まれた大きな用水池だった。林の脇道に原付を止めて鍵をかけ、池に近付く。前の反省を生かしてあらかじめレクイエムを手にし前に進む。風にざわついていた木々の葉擦れの音がなくなり、あの独特の感覚が僕の身を包む。
池に近付いていくが特に攻撃されない。林の中は死角が多いので、どのタイミングで攻撃されてもいいように、頭から指先、爪先まですべての感覚を集中させる。かなりの精神力を持っていかれるが、あの男の子の例を考えればやり過ぎと言うことは無い。
拍子抜けするほど何も無いまま林を抜け、岸辺にまで来れてしまった。池の中心に白っぽく光るものが浮かんでいる。あれが本体だろう。いつまでたっても攻撃される様子はないので、その辺にあった小石をつかんで中心に向かって軽く投げてみた。
ちゃぽん、と音を立てて小石は水面に落ち、波紋を作った。……何も起きない。
思い切って波際に立ち、水面を覗いた。レクイエムを持った僕が映る。その途端、池がざわついた。
突然水面が立ち上がり、僕の眼前を塞いだ。そしてそれが勢いよく倒れこむ。透明な壁を反射的に切り裂くと、水風船のようにぱしゃんとはじけた。はじけた時に溢れた水が僕を直撃する。ダメージにはならないが結構な水量で押し流されてしまった。
シェイドの影響を受けた物はやはりレクイエムの刃で斬れる。以前あの家の壁が切り裂けたのも、男の子が根を張って家屋全体に影響を及ぼしていたからだ。頭を振って、びしょ濡れになった髪をかき上げて立ち上がる。池のほうを見ると、水面からモヤシのようなものが何本も生えていた。頭の部分は巨大な水球で、それが池と細い茎でつながっている。それがスイングしてきた。一撃でも直撃したら危ないことがすぐにわかる。だがこれもまるで風船のようで、レクイエムの鋭い先端、柄尻を強くぶつけると破裂する。その度に僕も押し流されてしまう。お互いにダメージはないがどうにも埒が明かない。
池の岸は主から離れた水でグシャグシャにぬかるんでいた。そこに池から一本茎が生え突き刺さる。直後ぬかるみが盛り上がりハエトリグサのような、虫の口のような形となってこちらに向かって来た。結構素早い。
後ろに飛んでかわすのと同時にレクイエムを薙ぐ。鮮やかに半分に口を切り裂かれた泥細工は風船のようにはじけることなく、断面が合わさり元通りになると再び僕に襲いかかってきた。走って林の木の陰に逃げ込んだが、その木に噛み付きバキバキと音を立てて噛み砕いてしまった。こんなものに捕まったらひとたまりもない。泥細工が木をまるであられのように噛み砕いている間に僕は林の中を通りながら様子を伺った。
……出来上がった後も泥細工は池と一本の水の茎でつながっている。なんとなく理解し、泥細工の背後に飛び出し連結を切った。次の瞬間茎は池に吸い込まれていき泥細工はその場で崩れ落ちた。だが再び水の茎が生え、ぬかるみからいろいろと創造していく。やはり本体のいる池が問題だ。
今度は棘付きの球と、滑らかな輪が造られた。さっきから襲ってくる物はどれも単純な形だが発想は面白い。本体は生前どんな人だったんだろう。
さっきの水球のように遠心力を使ってスパイクボールを振り回す。勢いがついたところで僕の方に向かって放たれた。泥細工の操作は池との連結が必要。なのであの球で殴りつけてくると決めつけていた僕は反応が遅れた。
速い。避けられない。
だが向こうが扱いに慣れていないからか、僕に当たることなく脇の木にぶつかった。棘は木に深々と突き刺さり、重たい泥の塊を勢いよくぶつけられた木は折れてしまっている。形状を保っていたのはわずかな時間で、すぐに大量の土砂となって崩れ落ちた。相変わらずひとたまりもない。冷や汗をかきながら当たらなかったことに胸をなでおろしていると、高速回転した輪が飛んできた。思わずしゃがんで避ける。そのまま輪っかは飛んでいき、直線上にあった木を切断して崩れた。あの輪は巨大なチャクラムだ。
冗談じゃない。どの攻撃も一撃で致命傷だ。しかもどうやったら池の真ん中に居る本体に近づけるのかすらわからない。それに攻撃方法は無限で多彩。今後も僕の予測のつかない何かをしてくるだろう。このままでは体力を消耗し、いつか避けきれなくなって攻撃を受けてしまう。
あの触手と違ってかなり手強い。
「間合いを取るな、近づけ。大振りのあれらは接近戦では役に立たん」
有効と認識したのだろう。茎が再びボールと輪っかを造りはじめた時、YOUが話しかけてきた。YOUはずっとこんなのを相手にしてきているんだ。彼の指示に従った方がいい。走って近寄る。僕の接近に合わせてスパイクボールが振り回されだしたが、十分なスピードが乗っていない。放たれる前に茎を切断された球体は明後日の方向に飛んでいき、空中で溶けるように崩れ池の水を淀ませた。輪も回転を始めたところで切断するとそのまま落下し、ぬかるみと区別できなくなった。
対処法を得て一安心していたが、またしても池から茎が何本も生えてきて泥細工を造りはじめた。だが造らせる前に茎を切断したら何と言うこともない。
問題はどうやって本体を捉えるか、だ。茎を切り伏せながら考える。
ちっとも妙案が浮かばない。素人の僕がレクイエムを投げつけて見事に本体に命中! なんてご都合主義な展開は現実には期待できるはずがない。単純なボールだって多分難しい。よりによってレクイエムは鎌。それも大きな、大きな鎌。真っ直ぐ飛んだと仮定しても巧く刺さるとは限らず、投げた後素手になってしまう僕の危険性が極めて高い。泳いで行って斬りつけるなんてことも時間的に無理だ。接近する間にやられてしまう。そもそも水そのものが今回の敵で、中に入ろうものならどうなってしまうか分かったものではない。YOUが薦めたとしても却下だ。飛び道具は無いのか、飛び道具は。
伸びては斬られて、また伸びて。
斬っては生えてまた切って。
これを延々と繰り返していく。レクイエムを振ること自体に体力を奪われないので疲労は全くないのだが、単純作業を反復して行い続けてきたことで頭の中に靄がかかったような感じがしてきた。
突然僕の足元から何か現れたと思った次の瞬間、僕は鳥籠のようなものの中にいた。思考を奪われていたが水面の様子には細心の注意を払っていたつもりだ。池から伸びる腕はすべて残らず切り落としてきた。何かを造り出すような素振りは無かったはずだ。
それに用心してぬかるみから離れてレクイエムを振っていた。岸からも離れているのにいつの間にか足元は水気を含み、檻は僕の立っていたぬかるみから造られている。その檻には池の水がよく見なくては分からないくらいの薄い膜となって繋がっている。
「いかん! すぐに出ろ!」
当然だ。YOUの叫びに応じて目の前の格子を切り取り、蹴倒す。作った窓から外に飛び出した。
だが、少し遅かった。
鳥籠の中に向かって、格子から無数の針が伸びる。逃げ出すのが遅れた左足に何本か突き刺さった。針自体は太くなく、そして脆かった。外に飛び出した勢いで刺さった針は折れ、そして崩れた。
痛い。すごく痛い。血は流れ、僕のはいていた白いジーンズが染まっていく。
悲鳴を上げ、足を押さえている時気がついた。僕が倒れ、のた打ち回っているのは水面だ。ぶよぶよとしていて、ウォーターベッドの上に転がっているような感じに似ている。
何だ、簡単に本体に近づけるじゃないか……。
激痛と、ああだこうだと思案していたことが全くの無駄だったと言う事実に自嘲の笑いが漏れる。
無理をすれば立てないことはない。あの時の骨折に比べたらまだいける。痛いのを堪え、歯を食いしばる。左足を庇って立ち上がり、本体の眠る池の中央を目指した。




