「牢獄」
ひと月ほどした頃。世間はもうすぐゴールデンウィーク。友人たちは旅行に出かけると意気込んでいた。アルバイトをしてもすぐに止めていたような僕は、いくらインドア派で出費が少ないとはいえお金がない。なので家にいることにした。卒業年次ということもあるし、今まで散々サボっていた卒業論文を形にしないと卒業できない。
幸い理系のような実験研究が必要ないのがせめてもの救い。ちょこちょこと集めてきた資料、文献を読んで、データをまとめて考察を。この疑問を僕が解決するんだ! というほどの熱意はさすがにないので、完成してみんなが、
「ああ、そういうこともあるんだ」
とちょっと知識が増えるくらいのものになればいい。
ゴールデンウィークはそんな感じで大学と家にしかいなかった。街に出ることもしなかった。大学に行くには電車に乗らないといけないが、時間帯さえ間違わなければまず問題ない。おかげで憂鬱になってしまう体験もなく、平穏無事に過ごせた。
……
……はずだったのだが。
「裕也…… 裕也……」
休み最後の日。せっかく寝ていたのに起こされた。まだ暗い。YOUの声だった。
なんだなんだ。近頃まったく声も姿もなかったから、僕に任せきっていると思ったのに。
「すぐに出ろ。時間が経つと面倒なことになる……」
眠くて仕方なかった。明日じゃダメなのかな、と思ったが彼の今までにない言い方が気になる。とりあえず従う。こっそり家を抜け出し自転車に乗って、YOUの指示のあった方向に向かった。
……
だんだん気分が悪くなってくる……。吐き気ではない。悪寒に近い。周辺に何だか嫌な雰囲気が漂っていた。この近くに何があったっけ……。
そうだ、確か……
僕がまだ高校生だった頃、強盗があって放火された住宅がある。子供とその母親、祖母が犠牲になったそうだ。その土地に再び住宅が建て直されたのだが、最近住人がよく入れ替わるとか噂になっていた。
……母から聞いた話だが。
井戸端会議の議長を務めている(らしい)うちの母さん、日本語堪能すぎやしませんか?
そんな話を思い出していると、今は空き家になっている件の家の前で止まれと言われた。
なんだか嫌な予感が的中しそうだ。
「これからもうひとつの死神の仕事をしてもらおう……」
……
自転車を降り、鍵をかける。首筋に走るぞくぞくとした感覚は弱くなるどころか強くなる一方。確かにまだ初夏で、夜は若干冷えるとは言えこんな寒気を感じたことは一度もない。
「この家から何か感じるか? ……その感覚を覚えておけ。この先には、死神と遭遇しなかった魂がいる。それを始末するのだ。気をつけろ……」
始末? 始末と言ったか、今。おそらく何か危険があるということだ。
声は僕と同じだというのに、彼のトーンは否が応でも悪い方向ばかりを想像させる。だけど考えてばかりではこの気持ちの悪さは取れないし、それに彼としたという「契約」違反になったりしても困る。
まだ内容は思い出せないけど。
仕方ないのでその家の門をくぐった。玄関には鍵がかかっているので、回り込んで庭の方へと向かう。YOUが言うにはこの家のどこかに死神と遭遇できなかった魂、俗にいう亡霊だろうか、それがいる。入れないと話にならない。建物の壁と生垣に挟まれた狭い通路を抜け、庭に足を踏み入れた。
一気に気味悪さが増大する。……周囲の音が、まったく聞こえなくなった。
あれ? と思いきょろきょろしているとYOUが叫ぶ。
「伏せろ!」
言われた瞬間に目の前に白い何かが現れ、薙ぎ払ってきた。急すぎて伏せることなんかできない。胸を強く打たれ、飛ばされる。そのまま受身も取れず庭の土に叩きつけられた。
息が出来ない。咳き込みながら上体を起こすと、思いもしなかった光景が頭上に広がっていた。
家の壁から白い、何かの触手みたいなのが生えていて、うねうねしている。
目を丸くしたまま僕が見ていると、それは僕めがけて振り下ろされた。慌てて転がってそれをかわして、立ち上がって入ってきた門に向かって駆け出す。足がもつれて転びそうになったが地面を舐めないように両手をついて、這うようにして必死に前に進む。
何とか再び二本足で立ち上がって門から出ようとしたが、目前でまた別の触手が現れ、道を塞ぐ。万事休す、だ。
僕の頭めがけて打ち下ろされる。どうしたらいいか、全然わからなかった。
しかし咄嗟にとった行動が僕を救った。僕の左手からレクイエムの柄が出て、右手でそれを掴み直撃を免れた。レクイエムで防げる? ってことは、これは!
直感で悟り、僕はそのままレクイエムを引き抜いて全力で下から上へと振り上げた。生えていた触手が斬り飛ばされ、地面に落ちると煙のようなものがたち、壁へと吸い込まれていった。触手の付け根は逃げるように壁に溶けていき、眼前を塞ぐものはない。僕は急いで門から外に出た。
……
恐怖が再び襲ってくる。足が竦み、うまく立てない。膝に手をついて何とか立っている。
「気をつけろ、と言っただろう……」
YOUが呆れるように言う。
「そんなこと言ったって…… そっちがちゃんと言っておかないからじゃないか!」
思わず大声を上げてしまった。はっとして口を押さえ、今度はひそひそとYOUに問いかける。
「……あれが、死神に遭えなかった魂?」
「そうだ。成れの果てだ。……ほんの少し前だ、ああなったのは。それまで感知されなかったからな。幸い成ったばかりでまだ己の力の使い方を知らん。あの程度の単純な動きしかできぬ。今のうちに始末するのだ……」
そう言うとまた黙り込んでしまった。
……
正直僕は死神に遭えなかった魂、と言うから人間の姿をしているものだと思っていた。それこそTV番組とかでよく見たことがあるような、白い死装束を来たテンプレートな幽霊の姿。まさかあんな化け物だなんて……。
逃げたい。逃げ出したい。だけど、やっぱりYOUとの「契約」が気になる。全然思い出せないままだから余計に。ここで諦めたら一体どうなるのだろう。放棄してそのまま死ぬ可能性があるくらいだったら、殺されてしまうかもしれないがまだ望みのある方を選ぼう。
一応の決心をして膝から手を離してレクイエムを両手に、再び突入していった。腰はまだ引けている。まだ触手は出てこない。角を曲がって庭に入った瞬間、再び無音の世界が広がった。
……来る。
三本一気に生えてきて、一度に全部が僕めがけて叩きつけられてくる。受け止められそうもないので庭の奥に走って逃げた。地面を叩いたそれらのうちの一本が向きを変えて僕の方へ突っ込む。先が尖ったそれを避けようとして身体を反らしたが、走りながらだったのでバランスを崩して尻餅をついてしまった。だけどおかげで刺さらなかった。僕に襲いかかった触手はそのまま空を斬った。
立ち上がって伸びきったそれを叩き切る。先と同様、斬られた部分は煙のようになって壁に吸い込まれ、壁から生えた残った部分はやっぱり逃げるように短くなってそのまま溶けていった。
残りの二本が僕を近づけまいとするようにぶんぶんと8の字を描くように振り回されている。タイミングを合わせてレクイエムを振る。こんなに巨大な凶器だというのに重さがないので扱いやすい。僕が普通に腕を振るのと同じ速さでついてくる。
YOUが言ったように動きが単純。両方ともを切り落とすのはそんなに難しいことではなかった。しかしまた新たに触手が壁から生えてくる。きりがない。
……壁から生えてくるってことはここの奥に触手の本体がいるのか?
その可能性はとても高い。憶測に過ぎずリスクも高いだろうが、そう信じて単純な動きで襲いくる触手をかいくぐり、壁の奥に斬りつけた。
……驚いた。鈍く刺さる感覚がした。
レクイエムは車のフレームやガラスを容易に透過する。コンクリートや木の板にだって抵抗なく通り抜ける。それが今、ぐさりと音を立てるかのように家の壁に深々と爪を立てたのだ。
次の瞬間、すごい咆哮というか絶叫というか、えも言われぬ大きな音が響いた。壁という壁から一気に触手が生え、伸びきっている。苦しんでいるようだ。ぶるぶる震えながらそのすべての先端が僕の方に向く。
……非常にまずい。
一気に切り裂いてその場を離れた。その時の感覚は何か固いような、それでいて柔軟な……。そう、分厚い皮を切った感触に似ていた。僕がさっきまで立っていた場所に何本も何本も触手が刺さる。
大きな切傷が壁に残っている。しかしその傷はコンクリートについた傷といった感じではない。そしてその傷は生き物が切傷をしたときのように開き、、断端が収縮して内側へ巻き込んでいた。脈打っているようにも見える。弱々しくも触手がその傷を押さえ始めた。
別の壁に同じように斬りつけた。再び叫び声が上がる。
その声はとても痛々しかった。胸が潰されそうだ。
レクイエムを恐れ、もう止めてくれと懇願するかのような、悲しい鳴き声だった。
だが僕は両手に握る凶器をそのまま深く差し込み、そのまま横に薙ぐ。壁から生えた触手は僕を攻撃することもなく、自身に付けられた傷を癒すかのように押さえることに必死になっていた。一緒に切り裂かれたガラス戸がめくれる様になって、家屋の中に進入できるようになっている。
「さあ、入れ……。本体を始末するのだ……」
はっきり言って気持ち悪い。入りたいわけがない。YOUが言う本体がこの奥に居るだろうことは間違いない。だけど、そう言う問題じゃない。
これはもう家じゃない。僕には一つの生き物にしか見えなかった。
それを引き裂き、その腹の中に入るなんて、常軌を逸した行為をさらに超越しているとしか思えない。死神って一体何なんだ? こんなことまで僕の義務に課せられているのか?
僕が行き渋っていればいるほど、YOUの声が頭の中にガンガンと響く。両方ともが苦痛で仕方ない。きっとこのままで居れば頭痛ばかりが酷くなる。解消法は一つだけ。
YOUに誘われるまま化け物の中に足を踏み入れるしか、僕には選択の余地は無かった。