『「王妃の席を譲れ」と天真爛漫な男爵令嬢が仰るので、国家予算の激務と請求書もまるごと差し上げました』
「冷血で傲慢なエレノア! 心清らかなミミを虐げた貴様との婚約を、今この場をもって破棄する!」
王立学園の大広間。卒業記念夜会の喧騒が、第一王子ルーファスの甲高い声で一瞬にして静まり返った。
彼の傍らには、桃色の巻き毛を揺らし、涙をためてルーファスの腕にしがみつく男爵令嬢ミミの姿がある。小動物のように愛らしく、誰からも愛される「無垢な少女」。
対する公爵令嬢エレノアは、背筋を微塵も曲げることなく、冷淡なまでの美貌を崩さずに立っていた。
「殿下。私は彼女を虐げてなどおりません。出席すべき儀礼の練習をサボタージュなさったので、王太子の婚約者として注意を申し上げたまでです」
「言い訳は見苦しいぞ! ミミはお前のような冷酷な女ではない。ただ花を愛し、小鳥と歌う天真爛漫な天使なのだ。王妃となるべきは、民の心を癒やすミミこそがふさわしい!」
広間に集まった生徒たちから、ひそひそと囁き声が漏れる。
「やっぱりエレノア様、捨てられたのね」
「いつも書類ばかり見て、堅苦しい方だったもの」
「ミミ様の方がずっと可愛いし、殿下とお似合いだわ」
エレノアは小さく息を吐いた。
彼女がこの十年間、ルーファスのためにこなしてきた激務の数々——王族費用の予算組み、領地貴族たちの根回し、他国との外交文書の翻訳。それらは「王太子の功績」として処理され、エレノア自身はただ「冷たい優等生」とだけ見なされてきた。
そのとき、ミミが勝ち誇ったように唇の端を吊り上げ、エレノアにだけ聞こえるような小声で囁いた。
「お姉様、残念でしたね。これからは私が殿下の隣で、最高級のドレスを着て、皆にかわいがられるんです。お姉様は一生、日陰で埃をかぶっていればいいんですわ」
エレノアは瞳を細めた。
怒りも、悲しみも湧いてこなかった。胸に広がったのは、澄み渡るような解放感だった。
「……承知いたしました、ルーファス殿下。婚約破棄、謹んでお受けいたします」
「ふん、物分かりの良さだけが取り柄だな。お前のような可愛げのない女、王家には要らん!」
「つきましては、王太子妃の公務および、私が個人で契約・管理しておりました諸機関との協定も、すべて本日付で新妃となられるミミ様に引き継がせていただきます」
「当然だ! ミミならお前の百倍うまくやる!」
エレノアは優雅にカーテシーを捧げ、背を向けた。
広間を出る直前、ミミと視線が交差する。
天真爛漫な男爵令嬢と、捨てられた公爵令嬢。
人生の立場が、完全に逆転した瞬間だった。
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一ヶ月後。
ミミは王宮の執務室で、机の上に山積みにされた羊皮紙の束を前にして発狂していた。
「な、何なのよこれ! こんなの聞いてないわよ!」
『南部水路改修に伴う貴族連盟への補助金配分書』
『隣国通商条約第十四条・関税見直しについての修正覚書』
『秋期王室儀礼における各宗派席次決定案』
すべて、古代公用貴族語と難解な財政数式で埋め尽くされている。読めるはずがなかった。男爵家の領地計算すら家庭教師に泣きついて免除してもらっていたミミに、国家予算の監査などできるわけがない。
「殿下ぁ! こんなの無理です! 私、頭が痛くなっちゃいました……!」
駆け寄ったミミに対し、かつてあんなに甘かったルーファスは、目の下に濃い隈を作り、血走った目で怒鳴りつけた。
「甘えるな! これを今日中に決済しなければ、明日から王都の穀物供給が止まるんだぞ! お前、エレノアよりうまくやると言ったではないか!」
「で、でも、私は王妃として皆を笑顔にすればいいって……」
「笑顔でパンが買えるか! 先日の晩餐会でもそうだ、貴族たちの名前も家紋も覚えられず、隣国の大使に失礼な口を利いて激怒させたろうが! どうしてエレノアのように、先回りして完璧な挨拶ができないんだ!」
「ひっ……!」
小動物のように震えてみせても、もはやルーファスは抱きしめてくれなかった。
そこへ近衛兵が青ざめた顔で駆け込んでくる。
「殿下! エレノア前令嬢が個人名義で押さえていた王都の警備魔導具の維持契約、更新料が未払いのため、本日正午をもって全機能が停止いたします!」
「な、なんだと!? あれは公爵家の慈善事業ではなかったのか!?」
「エレノア様が自らの持参金と個人資産から毎年支出されていたものです! 引き継ぎの際、書類にサインをいただいたミミ様が『紙切れなんてどうでもいい』と破棄されたため、自動解約となりました!」
ルーファスが絶望的な悲鳴をあげて頭を抱えた。
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その頃、王都から遠く離れた湖畔の街。
小さな洋館のテラスで、エレノアは穏やかな秋の陽光を浴びながら、温かい紅茶を口にしていた。
テーブルの上には、彼女が設立した個人商会の帳簿が一冊あるだけだ。
彼女の明晰な頭脳と人脈を知る各地の大商人たちから、アドバイザーとしての依頼が山のように届いていたが、エレノアは一日に二時間しか仕事をしないと決めていた。
「エレノア様、焼きたてのスコーンをお持ちしました」
給仕の少女がにこやかに皿を置く。
「ありがとう。いい香りね」
エレノアは窓の外を見た。庭には名もなき野花が咲き、小鳥がさえずっている。
かつてミミが言っていた「花を愛し、小鳥と歌う」生活。
皮肉なことに、王都の執務室という檻から解放され、それを心から楽しんでいるのは、今やエレノアの方だった。
身を削り、泥をかぶりながら国を支える「王妃」という名の過酷な重労働。
それをそっくりミミに差し上げ、エレノアは自分の人生と時間を取り戻した。
風が吹き抜け、金木犀の甘い香りがテラスを満たす。
エレノアはふっと優雅に微笑み、スコーンにたっぷりとクロテッドクリームを乗せた。
「どうぞごゆっくり、お二人でお幸せに」
誰にも邪魔されない、あたたかな至福の午後だった。




