殿下が婚約破棄して私に求婚するおつもりなので、嫌がらせの証拠を全力で隠しています
私の靴が、木に生っている。
中庭の楡の、いちばん目立つ枝だ。今日の舞踏の実技試験で履くはずの白い繻子の靴が、青いリボンでひとまとめに吊るされ、朝の風に揺れている。
リボンの結び目は、縦。
蝶結びの輪が左右ではなく上下に並ぶ、いわゆる縦結びである。
(馬鹿なの?)
声には出さない。始業の鐘まではまだ間があり、中庭には私しかいない。
周りを確かめ、スカートの裾をたくし上げて幹に手をかける。北の男爵領で林檎の木に登って育った身には、学院の楡など梯子と変わらない。枝に跨がってリボンをほどき、靴を胸に抱えて降りる。
根元に、白いハンカチが落ちていた。
隅に刺繍された頭文字は、B・V。
ベアトリス・ヴァルモン公爵令嬢。王太子フェリクス殿下の婚約者にして、この学院でいちばん家格の高いご令嬢。そして、私に嫌がらせをしている張本人でもある。
念のため申し添えると、濡れ衣ではない。
ベアトリス様は、本当にやっておられる。先月は教科書を噴水に沈められ、先々週の茶会では葡萄酒を浴びせられている。そのときベアトリス様は「あら、手が滑りましたわ」とおっしゃった。滑る前に、である。
どれも本当で、どれも隠し方が雑だ。
雑というより、隠す気がおありなのかどうかすら怪しい。靴を吊るすのにご自分の髪と同じ青のリボンをお使いになり、現場には頭文字入りのハンカチを落としていかれる。噴水の教科書には「泥棒猫」と書いた紙が挟まっていて、その字がまた、書き取りの手本のように美しかった。脅し文句を楷書で書く人を、私はほかに知らない。
隠せ。
せめて、うまく隠せ。
リボンとハンカチを懐にしまいながら、心の底からそう思う。拾ったものは、寮の寝台の下の箱にしまうことにしている。教科書は自分で噴水に落としたことにし、葡萄酒は自分でつまずいたことにしてある。
被害者の考えることではない。わかっている。だが私には、この嫌がらせが明るみに出ては困る理由がある。
フェリクス殿下が、それを待っておられるのだ。
殿下はベアトリス様との婚約を解きたがっておられる。婚約者にあるまじき振る舞いがあれば、それを理由に婚約を破棄できる。そうして空いた席に、殿下は私を座らせるおつもりでいらっしゃる。
ご本人から、そう伺った。一度や二度ではない。殿下は隠しごとというものをなさらない方で、この春からは「卒業までに婚約を解く」と学院のあちこちで口にしておられる。ベアトリス様の嫌がらせが始まったのも、ちょうどその頃からだ。
王太子からの求婚を、男爵家の娘が断ったらどうなるか。答えは簡単で、男爵家がなくなる。
だから、求婚される前に手を打つしかない。求婚の前には婚約破棄があり、婚約破棄の前には口実がいる。その口実さえ表に出なければ、話は始まらない。
つまり私は、自分がいじめられている証拠を、自分で拾い集めて隠して回っている。
では、なぜそこまでして王太子妃になりたくないのか。
殿下が、アホだからである。
学院の裏手の森は、どこから入っても15分で抜けられる。殿下は、そこで2時間迷える方だ。
歴史の試験で「建国王の名を記せ」と問われ、殿下は「父上」とお書きになった。父君はご健在で、現国王であらせられる。
この方が、いずれ国を継ぐ。その隣で一生、後始末をして暮らす。想像しただけで胃が痛む。卒業したら北の領地へ帰り、林檎の木の世話をして静かに暮らす——それが私の、ささやかで具体的な人生設計なのだ。
卒業の夜会まで、あとひと月。
それまで私は、ベアトリス様の落としものを拾い続けなければならない。
◇
「ミレイユ!」
回廊の角を曲がったところで、名を呼ばれた。
金の髪に、青い瞳。背が高く、声がよく通り、笑うと白い歯がこぼれる。絵に描いたような王子様が、絵に描いたような笑顔で駆けてくる。
私は抱えていた靴を、そっと背中に回した。
「おはよう、ミレイユ。今日も奥ゆかしいな」
「おはようございます、殿下。まだ何もしておりませんが」
「何もしないところが、奥ゆかしい」
これである。
「ところで、ミレイユ。誰かに意地悪をされてはいないか」
来た、と思う。
「特に、ベアトリスとか」
名指しだ。
「されておりません」
「本当に? 靴を隠されたり、教科書を濡らされたりは」
具体的すぎる。噂くらいは、お耳に入っているのだろう。
「ございません」
背中で、靴を握り直す。繻子はまだ朝露で湿っている。
「そうか……」
殿下は、目に見えて肩を落とされた。
「もし何かあれば、必ず言ってくれ。ベアトリスに落ち度があれば、私は胸を張って婚約を解ける。そうすれば、君を——」
「殿下、鐘が鳴ります」
「鳴っていないが」
「鳴ります。そのうち」
殿下は、なぜか嬉しそうに笑われる。
「照れているのだな。あの森の日と同じだ」
また、森の話である。
入学した年の野外演習で、殿下は例の森に入られた。例の2時間の件だ。枝に点々と結ばれたリボンを追って、ようやく出口の木立にたどり着いたとき、そこにいたのが私である。自分の班の順路を早々に抜けて、木陰で本を読んでいただけだった。
リボンを結んだのは私ではない。そう申し上げた。
殿下のお耳には、それが謙遜に聞こえたらしい。
以来、ずっとこうだ。
殿下の頭を通ると、私の「いいえ」は「はい」になる。「違います」は「照れている」に、「困ります」は「もっと押してほしい」に。一度だけ、思いきって「お慕いしておりません」と申し上げたことがある。殿下は3日ほど考え込まれ、「つまり、慕うどころの話ではないということか」と結論なさった。
だから、口で断っても無駄なのだ。
断るなら、殿下の頭を通らないところで断るしかない。そんなところがあるのなら、の話だが。
「では、ミレイユ。卒業の夜会を楽しみにしていてくれ」
殿下は私の手を取ろうとなさり、私が一歩下がったのを恥じらいと受け取って、満足げに去っていかれた。
懐で、青いリボンがかすかに擦れる。
◇
ハンカチをお返ししようとしたのは、その日の放課後である。
空き教室に呼び出すと、ベアトリス様は取り巻きのおふたりを廊下に残し、ひとりで入っていらした。濃い青のドレスに、同じ青のリボン。結び目は、今日も縦だ。
「何のご用かしら。わたくし、今日は機嫌が悪いの。食堂の苺のタルトが、また売り切れていたのよ」
「それは、お気の毒に」
私はハンカチを差し出した。
「落とし物です」
ベアトリス様はちらりとご覧になり、顎を上げられる。
「わたくしのではありませんわ」
「B・Vと刺繍がございますが」
「……偶然ですわ」
「楡の木の根元に、落ちておりました」
「楡など存じませんわ。靴も存じません」
靴の話は、まだしていない。
「ベアトリス様」
「な、何ですの」
「嫌がらせをおやめくださいとは、申しません」
形のいい眉が、ぴくりと跳ねた。
「どうか、もっと上手に隠してください」
「……は?」
「殿下は、ベアトリス様の落ち度を探しておられます。見つかれば婚約を解いて、私に求婚なさるおつもりです。ですから私は、ベアトリス様が現場に残していかれたものを拾って、隠して回っております。靴を吊るしたリボンも、このハンカチも、教科書に挟まっていた紙も」
「……あなたが?」
「はい」
「なぜ」
「殿下に求婚されたくないからです」
ベアトリス様は、私の顔をまじまじとご覧になった。からかわれているとお思いになったのだろう。やがて、ひどく疑わしげな声がこぼれる。
「……殿下に求婚されたくない娘が、この国のどこにいるというの」
「ここにおります」
「殿下の、何がご不満なの」
「頭です」
沈黙が落ちる。
「……お顔は」
「よろしいかと」
「お声は」
「よろしいかと」
「お背丈は。お優しいところは」
「よろしいかと存じます。頭が、そのすべてを台無しにしておりますが」
ベアトリス様は唇を噛まれた。言い返そうとして、言い返せなかった顔である。
「……否定できないのが、腹立たしいですわ」
否定できないのに、あの方がいいらしい。
「だいたい、あなたが悪いのよ。何もしないで、殿下に想われて」
「何もしておりませんから、困っているのです」
「嘘おっしゃい。森のことだって——」
言いかけて、ベアトリス様はぱっと口を押さえられた。
「森?」
「な、何でもありませんわ!」
白い頬に、みるみる朱がのぼっていく。
「とにかく、わたくしは何もしておりませんわ! 靴も、教科書も、葡萄酒も、招待状も!」
言い捨てて、ベアトリス様は教室を出ていかれた。扉の向こうで、取り巻きのおふたりが「いかがでした?」「ちゃんと知らないふりをなさいました?」と大きな声で尋ねている。
私は、閉まった扉を眺める。手には、受け取っていただけなかったハンカチが残っている。
招待状は、まだ破られていない。
翌朝、部屋の扉の下に封筒が差し込まれていた。中身は、細かく破かれた卒業の夜会の招待状。封蝋には、ヴァルモン公爵家の紋章がくっきりと捺してある。
予告どおりである。
破いた招待状を、わざわざ家紋で封をして寄越す。その理屈が、私にはどうしてもわからない。
封筒ごと寝台の下の箱にしまい、事務室で招待状の再発行を頼む。洗濯してしまった、ということにしておく。
森のことだって——というあの言葉は、少しだけ気にかかった。けれど、今は拾うものが多すぎる。
◇
夜会まであと7日という日の午後、図書室で殿下に捕まった。
殿下は私の向かいに腰を下ろされ、声をひそめて——ひそめているおつもりで、閲覧室じゅうに聞こえる声で——おっしゃる。
「ミレイユ。ついに証言が揃った」
「証言、でございますか」
「ベアトリスの所業を見たという者が、次々と名乗り出てくれたのだ。学院の半分ほどが」
半分。
そうだろうと思う。ベアトリス様は、人目を避けるということをなさらない。物なら私が拾って隠せても、見た人の目までは隠せない。
「夜会で、すべてを明らかにする。君はただ、隣にいてくれればいい。驚かせたいから、これは秘密だぞ」
驚かせたい相手に、驚かせる中身を先に全部お話しになる。この国の上のほうには、隠しごとのできない方しかいないのだろうか。
「それと、夜会ではこれを君に返そうと思う」
殿下は懐から、小さな天鵞絨の袋を取り出された。中から、細いリボンが出てくる。
「森の出口の、最後の枝に結ばれていたものだ。君が結んだまま、ほどかずにとってある」
青いリボンだった。
結び目は、縦。
私は息を止める。
見覚えのある青だ。今朝もベアトリス様の髪の上で、同じ青が同じ角度で縦になっていた。楡の枝から私がほどいたリボンとも、寸分違わない。箱から出して並べるまでもない。
——森のことだって。
ああ、そういうことか。
入学した年の演習の日、森の枝にリボンを結んで回ったのは、ベアトリス様だったのだ。どうせ迷うと見越して、殿下の後を追われたのだろう。そして殿下は、出口にいた私を恩人だと思い込んだ。以来ずっと、その勘違いの上に恋を建て増ししておられる。
ベアトリス様は、それをご存じなのだ。ご存じなのに、言い出せない。言い出せないまま、恩人の座に居座っているように見える私の靴を、ご自分の青いリボンで楡に吊るされる。
嫌がらせの理由が、ようやく腑に落ちた。
(馬鹿なの?)
隠さなくていいことを隠して、隠すべきことを隠さない。順番が、まるで逆だ。
「殿下。そのリボンを結んだのは、私ではございません」
「わかっている。君はいつもそう言う。そこがいい」
「では、私が結ぶとどうなるか、ご覧くださいませ」
私は髪を束ねていたリボンをほどき、手近な本に巻きつけて、蝶結びを作ってみせる。輪は、きちんと左右に並んでいる。
「このとおり、横でございます」
殿下はしばらく結び目を眺めておられたが、やがて慈しむように微笑まれた。
「緊張していたのだな。うまく縦にならなかったか」
……なるほど。
言葉が通らないのは知っていた。だが、結び目も通らないらしい。殿下の頭を通ると、横は縦になる。
私が何を言っても、何を見せても、殿下の頭を通るかぎり、すべては殿下に都合のいい形に変わる。
ならば、私が見せなければいい。
事実のほうに、勝手に出てきていただく。それも、殿下の頭など通す暇もないほど大勢の前で。殿下は夜会で、あのリボンを取り出される。取り出されさえすれば、あとは広間じゅうの目が勝手に働く。
幸い、この学院には、隠しごとがおそろしく下手な方がひとりいらっしゃる。
ベアトリス様に打ち明けて、ご自分で名乗り出ていただく手もあるにはある。だが、あの方が言えるくらいなら、2年もこじれてはいない。それに前もって知らせれば、あの方はきっと隠そうとなさるだろう。隠そうとなさるときのベアトリス様ほど目立つものは、この学院にない。
気の毒だとは思う。
思うが、私の靴を楡に吊るした方である。
◇
卒業の夜会は、学院の大広間で開かれる。
天井から下がる燭台の灯りが、磨き上げた床に映って揺れている。楽団が軽やかな曲を奏で、卒業生たちは着飾った姿で輪をつくっている。
ベアトリス様は、深い青のドレスでお見えになった。
髪には、青いリボン。結び目は——縦。
よし。
曲がひと区切りついたところで、殿下が広間の中央へ進み出られる。
「皆、聞いてほしい!」
よく通る声が、広間の隅々まで届く。ざわめきが引き、人の輪が自然と広がっていく。
「ベアトリス・ヴァルモン。前へ」
ベアトリス様が、ゆっくりと進み出られる。背筋は伸びているけれど、扇を持つ指先が白い。
「私は今この場で、君との婚約を破棄する!」
広間が、どよめいた。
「理由は、君がミレイユ・オードランに対して重ねてきた、数々の嫌がらせだ。靴を木に吊るし、教科書を噴水に沈め、茶会で葡萄酒を浴びせ、夜会の招待状まで破った。見ていた者が、これだけいる!」
殿下の後ろに、証人らしい生徒たちがずらりと並んでいる。本当に、学院の半分ほどいる。
「ぞ、存じませんわ」
ベアトリス様は、扇で口元を隠しておっしゃった。
「噴水など、見たこともありませんわ」
噴水は、学院の真ん中にある。
「ミレイユ、前へ」
来た。
私は人垣を抜けて、殿下の隣に立つ。ベアトリス様と、正面から向き合う形になった。
「ミレイユ。君がどんな目に遭ってきたか、皆に話してくれ」
「何もされておりません」
広間が、しんとする。
「……ミレイユ」
「何も、されておりません」
殿下は痛ましげに眉を寄せ、それから感極まったように首を振られた。
「君は、なんて優しいんだ。こんな目に遭わされてもなお、ベアトリスをかばうとは」
違う。かばっているのは、私自身だ。
そこへ、ベアトリス様の声が飛んだ。
「あなたに、かばわれる筋合いはありませんわ!」
(馬鹿なの?)
今のは、黙っていれば済んだところだ。
「聞いたか、皆!」
殿下が、高らかにおっしゃる。
「ベアトリスは、かばわれるようなことをしたと認めた!」
認めてはいない。いないが、ほとんど認めている。広間じゅうが、そう受け取った顔をしている。
殿下は私に向き直り、片膝をつかれた。
懐から、天鵞絨の袋が取り出される。視界の端で、ベアトリス様の扇がぴたりと止まった。
「ミレイユ。入学した年の演習の日、森で迷った私を導いてくれたリボンがある。君が結んでくれたこのリボンを、今夜、皆にも見てもらいたいのだ。……いいだろうか。君の奥ゆかしさを、台無しにしてしまうが」
殿下は、私の許しを求めておられる。
その目を見て、私はひとつ気づく。
殿下の頭を通ると、「いいえ」は「はい」になる。「違います」は「照れている」になる。横の結び目は、縦になる。
けれど、殿下の頭を通っても形の変わらない言葉が、ひとつだけある。
「はい、殿下」
私は、はっきりと申し上げた。
「どうぞ。皆さまによく見えるよう、高く掲げてくださいませ」
殿下のお顔が、ぱっと輝く。
後にも先にも、私が殿下に「はい」と申し上げたのは、この一度きりである。
「ああ、ミレイユ!」
殿下は立ち上がり、リボンを高々と掲げられた。燭台の灯りの下で、青いリボンが揺れる。
結び目は、縦。
最初に声を漏らしたのが誰だったのかは、わからない。
「……縦」
「縦ですわね」
「あの青……」
ささやきが波のように広がり、やがて広間じゅうの視線が、一斉に同じところへ向かった。
ベアトリス様の、頭の上へ。
ベアトリス様の両手が、跳ね上がるように髪を押さえる。
隠すな。いや、隠そうとするな。その両手が、今この広間でいちばん目立っている。
「……ベアトリス?」
殿下が、ゆっくりと振り返られた。
「なぜ、頭を押さえている」
「お、押さえておりませんわ」
押さえている。両手で。
「ベアトリス様のリボンは、いつも縦でございます!」
取り巻きのおひとりが、健気にも一歩進み出られた。
「毎朝ご自分でお結びになるのです! 侍女には決して触らせずに!」
「おだまりなさい!」
遅い。
殿下は、掲げたリボンと、ベアトリス様の指の隙間からのぞく青とを、何度も見比べておられる。頭の中で何かが、ひどくゆっくりと組み上がっていくのが見えるようだ。
「……いつも、縦?」
「ぐ、偶然ですわ!」
ベアトリス様は髪を押さえたまま、真っ赤な顔で言い募られる。
「縦結びの人間など、世の中にいくらでもおりますわ! わたくしはあの日、森になど入っておりませんし、殿下が3本目の楢の木の下でしゃくり上げていらしたことなど、何ひとつ存じませんわ!」
広間が、静まり返った。
「……泣いてはいない」
殿下が、かすれた声でおっしゃる。
「泣いていらっしゃいましたわ! 鼻をぐずぐずいわせて!」
「……泣いていた」
殿下は、素直な方でもある。
「だが、なぜそれを知っている。あのとき森にいたのは、私と……木の陰から『こっちですわよ、お馬鹿さん』と呼んでくれた、森の精霊だけのはずだ」
「精霊が、お馬鹿さんなどと申しますか!」
叫んでから、ベアトリス様は凍りつかれた。
もう、隠しようがない。
扇が、床に落ちる。髪を押さえていた手が、ゆっくりと下りていく。縦に結ばれた青いリボンが、燭台の灯りの下にさらされた。
「……殿下がおひとりで森に入っていかれるのが、見えたのです」
ベアトリス様の声が、震えている。
「どうせ迷われると思いましたの。でも、女子の順路を抜けて男子の森に入るのは、規則違反ですわ。だから、名乗れませんでしたの。予備のリボンを全部使って、枝という枝に結んで……結び目をご覧になれば、すぐにお分かりになると思いましたのに」
「……私が?」
「わたくしの8歳の誕生日に、青が似合うとおっしゃったのは、殿下ですのよ。それから10年、毎日つけておりますのに。殿下は一度も、わたくしの頭の上をご覧にならない……!」
殿下は、しばらく何もおっしゃらなかった。
それから、ぽつりと。
「……言ったかもしれない」
「おっしゃいましたわ!」
「……いや、言った。思い出した。君は泣きそうな顔で、青は嫌いだと言っていた」
「言っておりません!」
「言っていた。そして次の日から、青いリボンをつけてきた」
ベアトリス様のお顔が、もはや赤いという言葉では足りない色になる。
殿下が、こちらを向かれた。
「ミレイユ。……では、あのリボンは」
「私ではございません。最初から、そう申し上げております」
「……そうだったな」
私の言葉が、はじめて殿下の頭を素通りせずに届いた気がする。
「すまなかった」
「とんでもないことでございます」
心の底から、とんでもない。
殿下はリボンを下ろし、ベアトリス様と私とを交互にご覧になった。それから、何かに気づいたように、ぱっと顔を上げられる。
「待て。私は、森で私を導いてくれた者を妃に迎えたかったのだ。その者は、ベアトリスだった。そしてベアトリスは、私の婚約者だ」
殿下は、晴れ晴れとしたお顔で言い切られた。
「では、何も問題はないではないか!」
広間の空気が、音を立てて抜けた気がする。
「婚約破棄は、取り消す!」
「問題だらけですわ!」
ベアトリス様が叫ばれる。けれど、その声はもう、怒っているようには聞こえない。
そこで殿下は、ふと眉を寄せられた。
「……だが、ベアトリス。君がミレイユに、その、嫌がらせをしていたというのは」
まずい。
ここでベアトリス様が罪を認めれば、話は殿下の手を離れる。王家の手で、婚約はあらためて解かれるだろう。そうなれば、空いた席に誰が座らされるか。考えたくもない。
ベアトリス様は殿下を見上げ、震える唇を開かれた。今のこの方は、何ひとつ隠せる状態にない。
「や、やりましたわ。ぜん——」
私は半歩寄って、ドレスの裾の下で、ベアトリス様の足を踏んだ。
踵で、しっかりと。
「——ぜん、ぜん、存じませんわ」
「そうか! 全然か!」
殿下は、晴れやかに頷かれた。
「ミレイユは何もされていないと言う。ベアトリスは全然知らないと言う。ならば、何もなかったのだ!」
証人の列が、互いに顔を見合わせている。誰も、何も言わない。ここで口を挟むほど野暮な者は、さすがにいないらしい。
ドレスの裾は長い。私が何をしたのか、見た者は広間にひとりもいない。
楽団が、ためらいがちに次の曲を奏ではじめる。殿下がベアトリス様の手を取られ、ベアトリス様は、片足を少しかばいながらその手を握り返される。
私は、そっと人垣の外へ下がった。
◇
夜会の翌日、寮の部屋で荷造りをしていると、扉が叩かれた。明後日には、北へ帰る馬車に乗る。
お見えになったのは、ベアトリス様だった。取り巻きのおふたりは連れていらっしゃらない。右足を、ほんの少しかばっておられる。
「……お礼は、申しませんわよ」
「結構です」
「踏んだわね」
「何のことでしょう」
ベアトリス様は、じっと私をご覧になった。
「なぜ、かばったの。わたくしが認めていれば、あなたはいくらでも仕返しができたでしょうに」
「そうなると、殿下に求婚されますので」
「……それだけ?」
「それだけです」
ベアトリス様はしばらく黙っておられたが、やがて、あきれたように小さく笑われる。
「あなた、本当に殿下のことが好きではないのね」
「はい。一片も」
「無礼ね」
そうおっしゃりながら、口元はゆるんでいる。隠そうとなさっているのが、また見え見えだ。
私は、寝台の下から箱を引き出した。
「お忘れものです」
蓋を開ける。中には、青いリボンと、B・Vの頭文字入りのハンカチと、「泥棒猫」と楷書で書かれた紙と、ヴァルモン家の封蝋がついた封筒が収まっている。
ベアトリス様は、目を丸くされた。
「……全部、とっておいたの」
「燃やせば灰が残りますし、捨てれば誰かが拾いますので。いちばん安全な隠し場所は、自分の手元です」
私は蓋を閉め、箱をベアトリス様の手に載せる。
「これからは、ご自分の手元で隠してください」
ベアトリス様は箱を抱えたまま、何か言いかけては口を閉じ、また開かれる。
「……次からは、もっと上手に隠しますわ」
「次がないのが、いちばんです」
「……そうね」
扉に手をかけたところで、ベアトリス様が振り返られた。
「そういえば、最近ついていませんの。食堂の苺のタルト、わたくしが行くと、いつも最後のひと切れが売れたあとなのよ。春から、ずっと」
「それは、お気の毒に」
扉が閉まる。
窓辺の皿の上では、半分になった苺のタルトが私を待っている。今日の昼、食堂で最後のひと切れを買ったのは、私だ。
春から、ずっと。
嫌がらせというのは、こうやって隠すものである。
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