第17話 花の庭、咲かぬ願い
──霧が、流れていた。
白く、柔らかく、それでいて指先にひやりと絡みつくような冷たさを帯びた霧が、廃教会の隣に立つ小屋の周囲を静かに包んでいる。
その中に、一面の花畑が広がっていた。
だが、それは現実の景色ではない。
──ここは、エルが創った。
リクのRewrite訓練のためだけに用意された、仮想の空間。
「名前はね、“花の庭”……って呼んでるの」
エルは笑みを浮かべた。頬をなぞる霧に金色の髪が揺れる。
しかしその笑みには、微かな緊張が滲んでいた。
「ここなら、暴走しても、現実に影響は出ないから」
リクは頷き、掌を見つめる。
指先の内側からじわじわと滲み出るような圧力──。
それは、自分の意思とは別に世界へと干渉しようとする“何か”だった。
「まずは……想像して。何でもいい、“世界を変える”イメージを」
エルの声は柔らかく、それでいて試すようでもあった。
リクはゆっくりと目を閉じる。
──風が吹いたらいい。
──空が晴れたらいい。
──エルが、笑ってくれたらいい。
その、どれか一つでも──
次の瞬間、掌から光が溢れた。
「……!」
けれど、咲いたのは花ではなかった。
地面を突き破るように現れたのは、赤黒く染まり、鋭い棘を無数に持つ“荊”だった。
それは蛇のように地を這い、絡み合い、庭一面を覆っていく。
「ちがう……っ、止まれ……!」
リクの声に反応し、荊は痙攣するように動きを止めた。
残されたのは、荒れ果てた“花の庭”。
そこには、花の気配すらもうなかった。
「……やっぱり、リクには負荷が強すぎる」
背後からノアの声が響いた。
いつの間にか、霧の向こうから訓練を見守っていたらしい。
「Rewriteは、神の記述。人間が扱えるものじゃない」
剣を持たぬノアの眼差しは冷静で、それでいてわずかに揺れていた。
「それでも……!」
エルの声は鋭く、しかし震えていた。
「私は、リクを人間のまま生かしたい。Rewriteに呑まれる前に、ちゃんと……自分で選べるようにさせたいの」
ノアは小さく息をつき、視線を伏せる。
「……なら、時間はないわ。“査察”が来るのよ。神域から。次は“観察”じゃ済まない」
リクの脳裏に、あの狂気じみた笑顔──ミレイの顔が浮かぶ。
もしまた、あれが“公式の査察官”として来るなら……。
「制御できるようにならなきゃ、俺は……殺されるんだよな」
「違う」
エルが強く首を振った。
「そんなの、絶対にさせない。私が、必ず守る」
その指先に、淡い紅光が灯る。
しかし、花は咲かなかった。
リクはそっとエルの手を取った。
「……ありがとう。でも、俺も強くなる。もう誰かに“直される”だけの存在じゃいたくない。Rewriteに支配されるくらいなら──」
「Rewriteを、超える」
その瞬間、空気が凍りついた。
霧がざわめき、花の庭全体が微かに軋む。
遠くで、金属を擦るような音。
見えない“視線”が、肌を焼くように突き刺さる。
ノアが即座に剣を抜く。
「来たか……“神格査察部隊”。思ったより早いわね」
霧の向こうに、黒く高い影がいくつも現れる。
その輪郭はまだ曖昧だが、ただ立っているだけで空気の温度が下がっていくのがわかる。
リクとエルは、視線を交わした。
──戦いは、もう始まっていた。




