第13話 神の使徒、再訪す
──霧雨の夜。
その足音は、濡れた空気すら押し分けるように、静かに近づいていた。
水滴が地面に吸い込まれる微かな音だけが、外界とこの廃教会をつなぐ唯一の気配。
廃教会の奥、冷えた空気の中。
リクはまだ目を閉じたまま横たわり、浅い呼吸を繰り返していた。
その額にかかる乱れた前髪を、エルは細い指先でそっとかき上げる。
冷たく湿った空気の中でも、彼女の体温は変わらず一定で、指先の動きには微かな震えもなかった。
「……ごめんね」
囁きは、焚き火の残り香よりも淡く、虚空に溶けていった。
その言葉に返す者はいない。
リクのまぶたは動かず、教会の石壁が冷たく沈黙を保っているだけだった。
──そのとき。
「……また、来てしまった」
扉が、風もなく開く。
蝶番の軋む音すらない、無音の侵入。
冷たい霧を背負い、そこに立っていたのは――あの少女。
陽光を凝縮したような金色の髪が、霧雨の光を拾って淡く輝き、長い髪が外套の肩越しにしっとりと揺れた。
鎧は雪原を溶かしたかのような白銀で、鍛え上げられた金属の表面は、微かな灯りさえも鋭く反射している。
その瞳は淡く澄んだ蒼。
けれどその奥には、凍り付いた湖面のような深い迷いが潜んでいた。
「ノア……」
エルが、膝を支点にゆっくりと立ち上がる。
その姿勢は守りにも攻めにも転じられる、張り詰めた弓のようだった。
「また、私たちを消しに来たの?」
ノアは小さく首を横に振った。
鎧の胸元で、揺れる金の髪がわずかに頬に触れ、その度に金色の光が霧の中で揺らめいた。
「……わからない。私は神の使徒として、ここに立っている。けれど――」
彼女の視線が、昏く沈んだリクへと降りていく。
一瞬、蒼の瞳が揺れ、光を宿した。
「──この少年を、見たときから……何かが、おかしくなった」
「おかしくなってるのは、世界の方だよ」
エルの返しは鋭い。
その声音には、揺らぎのない確信と、ほんの僅かな苛立ちが混じっていた。
「Rewriteの波紋を“罪”だっていうなら、神の定義そのものが狂ってる。
私は……ただ、リクを守りたかっただけ」
ノアは黙したまま立ち尽くす。
だが、剣の柄を握る指がほんの僅かに震えていた。
「私は……何者だ?」
神域からの使命を背負ってきた少女が、初めて神に逆らう言葉を吐く。
「“神の使徒”として生まれ、“世界律の処刑者”として育てられた私が、
“あなたたちを守りたい”と願ったとき……それは、“罪”なの?」
それは問いというより、祈りだった。
けれど、祈りは届かない。
天井の高いアーチの隙間から、神域の光が差し込む。
その光は暖かさを持たず、ただ定義を下す冷たい命令のように降り注いだ。
神域最奥、定義の中心からの――抹消命令。
「──ああ……やっぱり、そうなるのね」
天井の向こうから響くのは、ミレイの声。
透明な声色に、冷ややかな響きが混じる。
「ねえ、ノア。今ならまだ間に合うよ? あなたが“神の定義に戻る”なら、私が手を下すだけで済む。
でも、もし“変数側”に立つなら――」
ノアはゆっくりと剣を抜いた。
金色の髪が動き、鎧の隙間に差し込んだ光が鋭く反射する。
「……私の答えは、ひとつ」
金の髪を背に、蒼の瞳がまっすぐこちらを見据える。
「この世界を、もう一度、見てみたい。
リクとエルの隣で、“私”として」
その瞬間、神域の光がノアを包み込もうと広がった。
だが、エルが一歩踏み出し、Rewriteを発動。
紅の花が足元から咲き乱れ、空間がねじれ、神域の光を逸らす。
「行かせないよ。ノアは……もう“私たちの仲間”なんだから」
――その夜、ノア=クローディアスは、世界律から脱落した。
だがその瞳は、かつてどの神よりも、“人間らしい光”に満ちていた。




