第10話 神の目
──空が、音もなく割れた。
裂け目は稲妻のように走るわけでもなく、ガラスが砕ける音もない。
ただ、世界そのものが裂け目を受け入れるかのように、静かに、必然のように開いていく。
そこから差し込む光は、陽光でも星明かりでもなかった。
色を持たず、温度を持たず、ただ見るためだけの光。
それは、神域から垂れ落ちる“観測の視線”──この世界を構成する全てを無言で測る、冷たい眼差しだった。
エルはその真下に立ち、動かない。
白い肌に、亀裂の奥から零れ落ちる紅の花弁が、ゆっくりと舞い降りてくる。
彼女の足元では、つい昨日まで枯れ草と土しかなかった地面から、草花が異様な速度で芽吹き、咲き乱れていた。
廃墟だった教会は、まるで長い祈りの末に蘇った聖域のように輝きを帯びていく。
「リク……見て。空が、きれい」
その声は、幼子のように無垢で、同時に底知れぬ熱を孕んでいた。
彼女が指差した先──空の亀裂の奥、そこに“何か”がいた。
形も輪郭もなく、それでいて確かに存在する視線。
それは、人間が本能で理解してしまう“神の目”だった。
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あの戦いから、一日が過ぎた。
リクとエルは、山奥のひっそりとした小屋に身を潜めていた。
夜は静かすぎて、外を流れる小川の音すら遠く聞こえる。
だが、リクの胸の内には休まる瞬間などなかった。
「……なんだよ、これ……」
息を潜めながら、彼は独りごちる。
目に映る“世界”が、変わってしまっていた。
空は鈍く銀白にくすみ、木々は色を失った灰緑に沈んでいる。
何より、隣にいるエルの肌が淡く光を帯び、現実感を失わせる。
まるで、全てが“神の観測下”に置かれた模型のようだった。
(……Rewriteの影響か……?)
体の奥底で、熱とも冷えともつかない波が絶え間なく押し寄せてくる。
それは痛みではなく、形を変えられていく違和感だった。
──神の視線が触れた場所から、ゆっくりと人間の枠が削がれていくように。
「大丈夫だよ、リク」
隣からエルが微笑みかける。
その笑顔は優しいはずなのに、リクの背中をひやりと撫でるものがあった。
「私が、全部守るから」
(……何かがおかしい)
その瞬間、リクは悟った。
エルの瞳の奥には、彼女のものではない**“別の何か”**が、じっと棲みついている。
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同時刻、神域。
黄金に輝く階段の上、無数の使徒たちが膝をつき、顔を上げられずに報告を重ねていた。
「報告。書き換え対象“エル”に、神格化の兆候を確認」
「観測対象リクの魂構造が不安定化。Rewrite使用者としての限界が近い」
「補正案:神の器としての適性評価を実施すべき」
その言葉に応じるように、黄金の空間が波紋のように揺らぐ。
輪郭のない影──いや、“神そのものの権能”の一部がそこに現れた。
姿も声もなく、ただ世界を塗り替える圧そのものが降り注ぐ。
思考より先に、全ての存在が理解してしまう。
これが、神。
「Rewrite……次なる発動は、我の定義をも揺るがす」
「ならば、観測を超えて──干渉する」
その宣告とともに、神域の空気がさらに重く沈む。
絶対であったはずのものが、揺らぎ始める瞬間だった。
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「リク……私、思い出したの」
その夜、ランプの灯りの下で、エルがぽつりと呟いた。
外は風の音ひとつなく、二人の吐息だけが小屋に満ちている。
「夢の中のこと……あれ、全部、私だった」
リクは無意識に息を飲む。
「私ね、リクを何度も殺したの。何百回も。夢の中で」
「でも、現実では、リクは生きてる。……だから、嬉しい」
その言葉を、彼は受け止めきれなかった。
エルの目が、あの亀裂の向こうにあった“神の目”と重なって見えてしまったから。
次の瞬間、喉の奥に鉄の味が広がる。
彼は前屈みになり、口から血を吐いた。
だがそれはただの血ではない──銀色の光を帯び、淡く揺らめいていた。
「リク……!」
エルが椅子を倒す勢いで駆け寄る。
そのとき、空間が音もなく“めくれた”。
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──そこにいたのは、神だった。
形を持たない“意志”が、世界律を歪めながらエルを見下ろす。
ただ見られているだけで、鼓動が止まりそうになる。
「Rewrite。書き換えは、ここで終わりにしよう」
それは命令ではなく、決定事項として響く。
この瞬間、リクは理解した。
次にRewriteが発動すれば、この世界そのものが書き換わる。
そしてエルは──もう人ではなくなる。
しかし、エルは静かに、ゆっくりと微笑んだ。
「……なら、リクが壊れる前に。私が全部、壊してあげる」
その笑顔は、悲しくて、優しくて──そして、狂気を孕んでいた。




