第9話 Rewriteの副作用
夜明け前の空は、濁った墨をそのまま溶かし込んだように、重たく沈んでいた。
雲は低く垂れこめ、わずかな風すら湿り気を含んで肌にまとわりつく。
鳥も虫も声を潜め、森全体が息を止めているかのようだ。
リクは、その静寂のただ中で、肩を大きく上下させながら荒い息を吐いていた。
冷たい空気を吸い込むたび、肺が痛み、吐き出す息がやけに熱く感じられる。
視界の先に広がるのは、死を思わせるほど動きのない森──だが、彼が本能的に恐れているのは、その外ではなく、自分の内側だった。
(……寒い……)
全身を包み込むような震えが、止まらない。
背骨の奥から、細かい氷の刃で撫でられるような冷えが這い上がってくる。
なのに、額や背中はびっしょりと濡れ、汗が止まらない。
その汗が風に触れた瞬間、皮膚が痛いほど冷え、さらに震えが増す悪循環。
頭の奥では、何かが規則的に響いていた。
それが自分の鼓動なのか、それとも──自分の声ではない誰かのささやきなのか、もう判別がつかない。
(これは……なんだ……?)
指先が自分のものではないように遠く、手を握ろうとしても鈍くしか動かない。
肌が、内臓が、骨が、すべて“この世界の規格”から外れてしまったかのように軋む。
自分という存在が、世界から切り離され、異物として浮かび上がっていく感覚。
「リク……!」
湿った土を踏みしめる軽い足音。
駆け寄ってきたエルが、膝をついて彼の顔を覗き込んだ。
両手で彼の頬を包み込むが、その手は氷のように冷たかった。
「高熱……? でも……体温が下がってる……なに、これ……」
額に触れたエルの指が、微かに震える。
彼女の表情に、初めて見る影──“恐怖”が差し込んでいた。
「……ごめん……エル……これ……Rewriteのせいだ」
声はかすれ、呼吸の合間に途切れ途切れに言葉がこぼれる。
「俺が……お前を……“死ななかったことにした”から……その矛盾が……俺を、世界から……」
その先を言おうとした瞬間、喉の奥が塞がれたように声が出なくなる。
視界の色が音もなく反転し、世界の輪郭が遠のいていく。
音も匂いも、すべてが水の底に沈んでいくようにぼやけた。
「リク!? ダメ、待って! お願い……死なないで!」
エルの叫びは、必死さと切迫感で震えていた。
だが、その声すらも薄い膜越しに聞こえるように遠くなる。
そして──暗転の中で、確かに声がした。
「……おまえ、必要ない」
その声は、他でもない──“リク自身”の声だった。
「Rewriteに“主導者”は要らない」
「書き換えられた存在が、すべてを背負えばいい」
冷たく、感情の欠片もない声。
その宣告が、意識の灯火を完全に吹き消していく。
⸻
──目を開けたとき、そこは白一色だった。
雪でも霧でもない。
ただ、色も温度も匂いもない“無”の白。
上下の感覚すら曖昧で、足元にあるはずの地面すら実体を持たない。
その空間の中央に、エルが立っていた。
彼女は笑っていた──だが、その笑顔には均衡がなく、何かが歪んでいた。
「……来ちゃったんだね、リク」
声は優しげだが、その奥には甘く粘つく熱が潜んでいる。
「大丈夫。私がいるから。全部、私がやるから」
足元が音もなく崩れ始める。
それは穴に落ちる感覚ではなく、“存在”そのものが下から剥がされ、剥き出しにされていく感覚だった。
「リクが壊れるなら……私が代わりにRewriteを使う」
「私が全部、書き換える」
「あなたが、苦しまない世界を──」
エルの瞳が、強い光を帯びる。
その奥で、かすかに別の意志が瞬いた。
それは彼女のものか、それともRewriteが生み出した“何か”なのか。
「神がどうとか、もう関係ない」
「私が、リクの神になる」
その宣言とともに、白い世界に黒い亀裂が走る。
空間がひび割れ、そこから紅い花弁のような光が溢れ出す。
彼女のRewriteが再び起動したのだ。
神の定義すら書き換える、常軌を逸した再構成の力。
その余波は、神域の外まで波紋となって広がり──
⸻
──遥か、空の上。
“それ”が、目を開けた。
「……干渉、確認」
「対象:エル。状態:Rewrite適合体」
「進行度:危険域」
冷たく、巨大な意志が、ゆっくりと世界に降りてくる。
その眼差しは、慈悲でも憎悪でもなく、ただ“観測”そのもの。
「観測を開始する」
こうして──神すら測りかねる少女の愛と狂気の観測が、静かに幕を開けた。




