第6話 狂った神の奇跡
──焚き火の灯だけが、夜を押し返していた。
森の奥、誰にも見つからない廃道の端。
光も音もほとんど届かず、静寂が地面に張り付いたように重い。
リクは長く息を吐いた。肺の中の空気が、ひんやりと喉を撫でる。
「……今日は、誰も追ってこなかったな」
「うん。たぶん、もう少しは大丈夫」
穏やかな声が隣から返ってくる。
銀髪の少女――エルが、焚き火の向こうで膝を抱えていた。
その手はまだ濡れている。赤黒く乾きかけた血が、指の関節や爪の隙間にこびりついていた。
「魔物……また来たんだな」
「うん。リク、寝てたから。起こしたくなかったの」
焚き火の光に照らされた頬は血の飛沫で染まり、その微笑みは聖女のように柔らかい。
だがその影は、血と肉片を踏みしめてきた者のものだった。
足元には、引きずられてきた魔物の死体。
首は不自然な角度でねじれ、腹部は抉られ、内臓が冷たい夜気の中で鈍く光っている。
「……ひとりで倒したのか?」
「うん。簡単だったよ。もう、あんなの……弱くて、壊れてるみたい」
あまりにも無邪気な声に、背筋が粟立つ。
何かが変わった。いや――もう戻れないところまで来てしまった。
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スキル《Rewrite》。
存在すら知られていなかった禁忌。たった一度だけ使われた、その奇跡。
“死んだ幼馴染を蘇らせた”と人は思うだろう。
だが、それは蘇生ではない。
(あのとき……俺は、“彼女を生き返らせたい”なんて、願ってない)
(願ったのは──“彼女が死ななかった世界だったら”)
その矛盾が、《Rewrite》を発動させた。
結果、世界そのものが書き換えられる。
彼女は“死んでいないことになった”。
命を取り戻したのではなく、死という事実が最初から存在しなかったことにされたのだ。
今ここにいる彼女は、“生き返ったエル”ではない。
“死ななかったエル”――存在の定義をすり替えられた存在。
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「ねえ、リク。……今日ね、木がしゃべったよ」
唐突な言葉に、思考が途切れる。
「木が……?」
「うん。『お前は、神に愛されすぎた者』だって。……変なの」
その瞬間、背中の産毛が総立ちになる。
幻覚? 妄言? ──違う。これは現実が歪んでいる。
足元の草が、見たこともないほど濃い緑に変わっていた。
すぐそばの蕾が、まるで心臓のように脈を打ち、音もなく花弁を広げていく。
「……まさか、Rewriteの……波紋……?」
Rewriteは世界律そのものを書き換える。
たった一度の発動でも、その余波はじわじわと周囲を侵蝕する。
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「リク。……最近、夢を見るんだ」
火の粉を追うように、エルがぽつりと呟いた。
「夢の中の私はね、リクを殺してるの。いっぱい。何度も、何度も」
パチ、と焚き火が弾け、赤い火花が一瞬宙に浮く。
「でもね……起きると、リクが隣にいる。ああ、良かったって思うの」
笑みは穏やかで、涙も恐怖もそこにはない。
「……怖くないのか? 自分が」
「ううん、全然。だって、私はリクのために生きてるから」
「リクが笑ってくれるなら、“それ以外”が消えていくのは──普通のこと、だよね?」
リクは答えられなかった。
ただ胸の奥で、心臓だけがやけに強く打っていた。
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そして、決意する。
「……それでも、俺は……お前といたい」
焚き火の炎が揺れ、二人の影が地面に伸びる。
エルがゆっくりと振り向いた。
その瞳には、涙とも光ともつかぬ“壊れかけた愛”が宿っている。
「……うれしい」
唇がやわらかく弧を描く。
「じゃあ、もっと変になっても……リクはそばにいてくれる?」
その声は甘く、同時に狂気を孕んでいた。
それでも――リクは頷いた。
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Rewriteで世界が歪もうと。
神に殺されようと。
すべてを失ってもいい。
たったひとつの命を守るために。
彼はもう、引き返せなかった。




