殴るメイド
「――何故だ!」
朱鷺が自室で不満の声を上げた。
「如何なされました、主上!」
ペチンと鼻先を扇子で叩かれ、「つう!」と傍に控えていた安孫が痛みに悶えた。
「俺の名は?」
「うう、都造朱鷺様に、ございます……」
首尾良く事が進まない状況も相俟って、不機嫌な朱鷺が影を落とす。そこに、朝食を運んできたルーアンが入ってきた。
「あら、アンタもここにいたの、ビビリ」
「びびり?」
「臆病者、と言う意味にございますよ」
ルーアンと一緒に入ってきた水影の解説に、「某はびびりではございませぬっ!」と安孫がいきり立った。
「おやまあ、左様に大声で反論せずとも聞こえておりまする。それとも、びびりという自覚が御有りゆえ、動揺されておいでか?」
「ぐぬぬっ……」
一段上から見下ろすような水影の目つきに、安孫は苛立つ拳を握った。
「止さぬか。共に俺の瑞獣ならば、手と手を取り合い、仲良うせい」
「心得ておりまするが、如何にも水影殿とは昔から馬が合いませぬ!」
「私も、安孫殿が如き武骨な方とは、心通ずるものがございませぬなぁ。そもそも、此度の交換視察の件に於いても、乗り気ではなかった御様子にございますれば、最初から朱鷺様を御護りするつもりなど、毛頭なかったのではございませぬか?」
「なっ……! 左様なことがあるはずもなかろう! 某は日の下一の武人にございまするぞ!」
「真に日の下一と誉れ高きは、貴殿の父君にございましょう? 父君の高名により、その御身分を安堵された貴殿が、大層な口ぶりでございますなぁ?」
「貴殿とて、たかが名門の御家に生まれただけではございませぬか!」
「止さぬか、みっともない!」
朱鷺に制止され、水影と安孫が互いに顔を背けた。
「よく分からないけど、ビビリは大物武将の二世ってコト?」
「ほう、二世。それは新たな貶し言葉にございまするか?」
「貶してるってワケじゃないけど……世間では偉大な親の七光りで、自らもスポットライトを浴びているってイメージね」
「偉大な親の、七光り……」
そう呟いた安孫が目を伏せた。そこに「はあ」と朱鷺が溜息を吐く。
「左様なことは如何でも良い。今は現実問題を解決せねばなるまいて」
「はあ? 現実問題?」
羽衣装束を身に纏うルーアンに、朱鷺がずんずんと迫り寄った。
「ちょっと何よ!」
「……何故だ?」
「はあ?」
「何故そなたら女中や女官らは羽衣装束を召しておるのに、王妃と王女は未だにしるくどれすなのだ!」
「知らないわよ、そんなコト!」
王宮内では朱鷺の「かわいい」発言と宣伝ポスターの効果により、多くの女官やメイドらが羽衣装束に袖を通している。しかしながら、肝心な王族が未だシルクドレスのままだった。
「正直、天女らとの酒池肉林三昧に於いて、一部の女官を除き、大半は我が悲願には関わりのない者ばかり。やはり我が隣にて寵愛すべきは王族、その中でもすざりの王女は、何を措いても欠かせぬ天女よ」
首尾良く現実が動かない様に、朱鷺は顔を顰めた。そんな朱鷺に、「わ、わたしも一応、王族だけど……」とルーアンが照れながらも言った。
「そなたか……そなたは乳がないからのう」
興ざめと言わんばかりの眼差しに、さっとルーアンが表情を消した。
「なっ! 何故殴る!」
「アンタなんて、こっちから願い下げよ!」
拳で朱鷺の頬を殴ったルーアンに、「ほう!」と水影の瞳が輝いた。
「朱鷺様っ! 大事ございませぬか? るうあん殿、主の御顔を殴るのは、御遠慮願えませぬか!」
「今のはっ……! 今のは如何いう心持ちの変化にございまするか!」
「もう! ウルサイわね、アンタ達! さっさと朝食を済ませてちょうだい! そうじゃなきゃ、私の仕事がいつまで経っても終わらないでしょ!」
ふん、と不機嫌なルーアンが、朱鷺の自室から出て行った。