だっさい兎
ルーアンは仕事を終えると、薄暗い自室へと向かった。既に夜も更け、より一層闇が辺りを包む中、照明を点け、自室がある地下へと階段を下っていく。
――地下牢。かつてそう呼ばれた場所が、ルーアンが寝起きし、本来、素顔を明かせる唯一の場所であった。鉄格子が外されたそこは木板で扉を作り、石造りの床や壁がひんやりと主の帰りを待っている。だが今宵、扉を開けたそこに、男らはいた。
「ちょっと! ここで何してるのよ……!」
「待っておったぞ、天女中。いや、王女よ」
朱鷺はルーアンから顔布を取ると、意地悪く笑った。
「王女って、私はもう王女なんかじゃないわよ! ていうか、どうしてここが私の部屋だって分かったの?」
「なに、ちぃとばかり、擽りをのう」
その手つきから、王宮に仕える誰かに朱鷺と水影が口を割らせたと、容易に想像が出来た。
「どうやら、月の民は擽りに弱いと見える。容易に口を割ったでな。それで……」
朱鷺がルーアンの手首を取り、石造りの壁に押しやった。
「ちょっと! 離しなさいよ! 壁ドンなんかしたって、アンタなんかにはトキメかないんだから!」
「口を口で塞がれたくなくば、暫し大人しく俺の話を聞け」
ぐっと口を噤んだルーアンに、「良い子だ」と朱鷺が頷く。その後ろには水影と安孫の姿もあって、主の言動を黙って見守っている。
「るうあんとやら、そなたは王女らしいな。つまりは姫、やんごとなき身分の御方が、何故女中などという身分にまで落ちたのだ?」
「それはっ……! アンタに教えるワケないでしょ!」
ぷいっと顔を背けたルーアンに、「ふむ」と朱鷺は顎に手をやり、考察の構えを見せた。
「……大凡、月が世を統べる王が崩御した折、現王妃が第一妃であったそなたの母御を僻地へと追放したのであろう? そして、残された二人の王女の内、姉は我が世へと追放され、妹は謀反が起きぬよう、女中として人質にされておる、左様なところか?」
想像とは思えない考察に、ルーアンは言葉が詰まった。「どうしてそんなことっ……」と大半を言い当てた男から顔を背けた。
「ほう、彼の者は真実を述べておったのだな。擽り、絶大なる効力よ」
「なっ……! 最初から知ってたのね! ていうか、誰に口割らせたのよ! 交換視察で来てるくせに信じられない!」
「目的があると言うたであろう。目的の為ならば手段は択ばず。如何なる手を使うてでも、我が目的を完遂させるまでよ!」
熱く語る朱鷺に、ルーアンは深く吐息を漏らした。
「それで? 私に何をして欲しいワケ?」
「察しが良いのう。流石は元王女。そなたには、俺の目的完遂に向けての援者となってもらう」
「はあ? 援者?」
「左様。俺は此度の交換視察に於いて、互いの世の文化交流及び平和的国交の再開など如何でも良いのだ。俺の目的はただ一つ、天女らと酒池肉林三昧の日々を送る、ただそれだけだ!」
「サイッテー!」
鼻息荒く語った朱鷺に、ルーアンが軽蔑の眼差しを向けた。「はああ」と深く溜息を吐く安孫と、「ほう」とルーアンの態度に興味を示す水影。
「最低なものか。あちらが世では、権力者は皆一様に酒池肉林に興じておるでなぁ。無論、俺も然うするつもりであった。だが、親王、東宮、帝、人が世の頂にまで君臨したと言うに、その願いだけは終ぞ叶わんかった……」
「はあ? アンタ、何言ってんの? 帝って……」
「我が主はあちらが世に於いて、時の帝にあらせられる御方にございます」
「うそ……」
水影の説明に、ルーアンが信じられないと言わんばかりに朱鷺を見上げる。
「ああ、俺が帝であることは内密に頼むぞ。本物の帝が月にいると知れたら、皆が混乱するであろうからな」
「じゃあ、向こうにいる帝は、偽物?」
「偽物と言えば偽物だがな。俺より良う働く男ぞ? それで、そなたには俺の援者として、天女らが俺に惚れるよう仕向けてもらいとうてな」
「天女って、スザリノとルクナンのこと? 宴で分かったと思うけど、あの子達はアンタには絶対なびかないわ。だってその格好、ものすごくダッサイもの!」
「だっさい、とな?」
「さいってー、だっさい……何故か、背筋がぞくぞくする言葉にございますなぁ?」
「水影殿?」
常に無表情である水影が、恍惚の表情を扇子の内に隠す。
「だっさい、とは何ぞ?」
「ふん。イケてない、かっこわるい、傍に寄られるのも虫唾が走るってことよ!」
「成程」
朱鷺と水影が同時に頷いた。
「俺は月が世では、野暮であると言うのだな。……良う分かった」
朱鷺が哀愁の表情を浮かべ、ルーアンから手を離した。
「帰るぞ、水影、安孫。邪魔したな、るうあん元王女」
部屋から出て行く朱鷺に、「あ……」とルーアンの心が軋む。扉の前に立った朱鷺が、表情無く言った。
「もし俺が、そなたが言う、だっさいではのうなったら、俺の援者となってくれるか?」
「それは……まあ、いいけど」
「そうか。ならば、明日を楽しみにしておくが良い――」
翌日、朝拝の為に三人が王妃と二人の王女の前で立礼した。ヘイアン装束を身に纏い、頭には冠を被っている。彼らの様子を昨日同様、ルーアンが二階の物陰から窺った。その視線に気づき、そっと朱鷺が笑う。
「昨晩は絢爛豪華な宴を催して頂き、恐悦至極にございました。されど、左様な席に、我らが不格好な姿で現れましたること、この場にてお詫び申し上げまする。あれより後、すうつなる装束の着方、我ら三名、夜を徹して指南書通り着付けられるよう、修錬を積みましてございます」
そう言うと、三人はその場にてヘイアン装束を脱ぎ捨てた。
「きゃあ!」
思わず顔を隠した二人の王女。固唾を飲んで見守るルーアンも視線を外すも、「まあ!」と黄色い歓声を上げた王妃に、三人の娘らは恐る恐る若者らに目を向けた。三人とも、きっちりとスーツを着こんでいる。
「このねくたいとやらには、些か手を焼きましたが」
それでも指南書通りにネクタイを結んでいる。朱鷺は背中に突き刺さる視線に振り返ると、「ああ、この冠は不要でしたな」と不敵に笑った。
彼らのいで立ちに、二人の王女も、ようやく地球よりの視察団に興味を示した。
「――どうだ、だっさい兎が一端の男になったであろう?」
朱鷺が自室で鼻高々に言った。
「まあ、昨日よりはマシになったんじゃない?」
「ならば天女中よ、約束通り、俺の援者となってもらうぞ?」
「言っとくけど、私には何の力もないのよ? 協力出来ることも少ないと思うけど?」
「良い。落ちぶれた王女であろうが、我が悲願の手駒にはなろう。それに、目的が達成された暁には、天女中――そなたの望みも叶える手助けをしてやるでな」
ドクンとルーアンの心臓が高鳴った。慌てて表情を隠し、つんとした態度を取る。
「アンタってホント、見た目倒しで腹の中真っ黒ね。今日から腹黒って呼ぶことにするわ!」
「はらぐろ……!」
水影の瞳が輝いた。この異境の地にて何かに目覚めた水影と、天女らとの戯れに野望を燃やす朱鷺。そんな二人に安孫は、ただただ溜息を吐くばかりだった。