忘れさせてご覧に入れましょう!
その晩、スザリノは自室の机の引き出しから、髪の毛と同じ萌黄色の押し花を手に取った。幼い頃にセライと遊んだ花畑で、互いに一輪の花を渡し合った過去に、どうしようもなく胸が締め付けられる。テラスに出て、ぼんやりと橙色に光る夜の照明を見上げた。そこに、地上から小石が投げ込まれた。ふと下を見下ろすと、立礼する朱鷺の姿があった。テラスから地上へと階段で下り、「このような時間にどうされたのですか?」と、スザリノは困惑して訊ねた。
「いえ、星々を眺めておりましたらば、無性に天女様にお逢いしとうなりまして」
穏やかに笑う朱鷺に、「そうですか」と、スザリノがクスクス笑う。
「ロマンチックなのですね、地球の男性は」
「おや、月が世の殿方は、ろまんちっくでは、のうございますかな?」
「さあ、私はあまり多くの男性を知りませんので……唯一知っている男性も、多くを語る方ではありませんから」
そう笑ったスザリノが、「ネクタイが曲がっておりますよ」と、朱鷺のネクタイを整えた。朱鷺は儚く目を伏せるスザリノの手を取ると、驚いたように見上げた彼女を見つめて、言った。
「朝方、私が申し上げたことを覚えておいでですか? 未練がお有りならば、私が断ち切って差し上げると。察するに、王女殿下は、幼い頃より傍におられたせらい殿に対し、報われぬ恋心を抱いておられるように見受けられまするが、違うておりますかな?」
スザリノが俯き、「報われぬ恋心など、最初から抱いておりませんよ」と笑った。
「はて、では何故、左様に芳しゅうないお顔をされておいでか?」
「そんなにひどい顔をしておりますか? 私は」
そう言って顔を上げたスザリノに、ぐっと朱鷺は顔を近づけた。物怖じせず、凛とした表情のスザリノに、「口を吸うても宜しいか?」と訊ねる。
「どうぞ?」
微笑む唇に親指で触れ、「存外、気丈な天女様にございまするなぁ?」と朱鷺が笑った。その耳元で囁いた。
「……我らを、せらい殿が見ておいでですよ、すざりの王女」
ばっと朱鷺の体を突き飛ばしたスザリノに、「冗談にございますよ?」と、にっこり笑った。息を乱し、涙を浮かべたスザリノが、「もう戻ります」と階段を駆け上っていく。
「私が忘れさせてご覧に入れましょう!」
立ち止まったスザリノに、更に朱鷺は言葉をぶつけた。
「この世に於いて、愛以上に幸福を感ずることはございますまい。左様に御心痛めておいでならば、私の愛にて、貴殿を慰めて差し上げまする」
自身に満ちた朱鷺の言葉に、スザリノは振り返らず、自分の部屋へと戻っていった。
翌朝、スザリノは目を覚ますと、枕元に一輪の花が置かれていることに気が付いた。朱鷺を連想させる真っ赤なバラに、そっと目を伏せた。
朝食が進まないスザリノに、若い侍女が、意気揚々と今日の予定を告げた。
「本日は、オルフェーン王家との会食がございます。その場にて、ザルガス王太子様との見合いの席が、設けられる運びとなっております、王女様」
「見合い……」
「未来の月の王をお決めになられる大事な見合いでございますから、慎重かつ柔軟に。と申しましても、ザルガス王太子様以上に、王女様に見合う王族の方はおられませんが」
それ以降、侍女は見合い相手であるザルガス王太子について、これでもかと言わんばかりに褒めちぎった。それを遠くに聞きながら、スザリノは、以前セライから贈られた特別な純白のシルクドレスを、ぎゅっと握り締めた。