Beast Master
……でも、おかしいな。
俺、結構いろいろ考えられてるよな……なんでだ?
蝙蝠猫が鳴き叫び、大鬼猫が目の前に現れて――あれから、けっこう時間が経ってる……はずだよな?
なのに、なんで俺、まだ無事なんだ?
時間の感覚が狂ってる?それとも……走馬灯ってやつか?
にしては、過去の回想が流れない。
走馬灯って言えば、決まって子供の頃の思い出とかが映るもんじゃないのか。
でも……どちらかというと、さっきまで話してたのは未来のことだった。
まあ、現実逃避ばっかだったけど。
あ……そうか。
そうだった。俺は一人じゃない。
もう一人、ここにいたじゃないか――見たことのない服を着た女。
俺の依頼を横取りしようとした、あの女が……まさか、戦ってるのか?
……いや、違う。
戦ってはいなかった。
むしろ、誰かと会話してるように見える。
この場にいる人間は、俺とあの女だけ。
でも俺が現実逃避してたんだから、あいつも現実逃避中ってことか?
……うん、それしか考えられない。
そう思えば、あの女の言動にも納得がいく。
「あなた……言葉、通じますよね?」
「え?」
「あなたですよ……何て顔をしてるんですか?」
急に振り向いて、話しかけてきた。
こんな緊迫した状況なのに、現実逃避か……可哀そうなやつ。
まあ、それはいいとして――いきなり人の顔にケチつけるのはどうかと思うぞ?
性格はともかく、顔の造形を否定するのはちょっと酷くないか?
まあ……確かに訝しげな顔はしてたかもだけど。
「人の話、聞いてますか?」
……って、あれ?
この顔……現実逃避してる顔じゃない。
むしろ真剣な、どこか必死な表情で――にしても、変わった顔立ちだな。
ピッツァの人間で、こんな薄い顔のやつ、見たことないぞ?
「無視しないでください……!」
「むし……無視? 何の話だよ?」
「話、聞いてませんね……でも、言葉が通じるようで安心しました。動物たちの声もわかりますか?」
ドウ……ブツ?
ドウブツってなんだ?
「し、質問には答えてくれませんか? お願いします」
「ドウブツって……何だ?」
「この子。彼らのことです」
この子? 彼ら……?
女がモンスターに向かって手を差し伸べる。
「……大鬼猫のことを言ってるのか?」
「なんですか、それ」
「コイツに決まってるだろ! モンスターだよ!」
「もんすたー……?」
「そう! モンスター! わからないのか? 魔獣って言えば……」
「……わ、わかりません。ハムスターなら知ってますが……」
だ、ダメだコイツ。
さっきから何言ってんのか、全然わからん!
グルゥゥゥゥゥゥ……。
「う、うわっ!?」
やばい……!
大鬼猫が、鋭い眼光でこっちを睨んでいる……!
終わった……終わりの時が来た……!
嫌だ……死にたくない。
死にたくない、死にたくないっ……!
さっきまでは、諦める覚悟もしてた。
けど――この女と変に絡んでしまったせいで、未練が生まれてしまった……!
「待ってくださいっ! 今、話してるんですから急かさないで!」
「!?」
……この女、なに言ってんだ?
大鬼猫に話しかけてる? 通じるわけないだろ!?
現実逃避、まだ続けてんのか……こんな意味不明なことばかり言うやつと、一緒に死ぬなんて御免だ。
――けど。
なぜか、大鬼猫は未だ攻撃してこない。
こんな至近距離にいるのに……。
強者の余裕?
それとも……気まぐれか。
どっちにしろ、俺たち少数の人間なんて、いつでも潰せるって思ってるんだろうな。
……逃げよう。
至近距離で背を向けるのは危険だ。
でも、今の俺は独りじゃない――この女が、俺よりもモンスターに近い位置にいる。
もし犠牲になるとしたら……俺じゃない。あの女だ。
俺は、生きなくちゃいけない。
ここで死ぬわけには――いかない。
グレイグを見返す、その日までは。
俺は踵を返し、走り出そうとした――その時。
髪の上を、何かが鋭く通り過ぎた。
すれすれの距離を、凄まじい速さで飛んでいった“それ”の行方を見ようとした瞬間――グガァァァァァ!!!
大鬼猫が、叫んだ。
その胸には、矢が刺さっていた。
……え、矢?
「下がれ!」
気づけば俺の周囲を囲むように――いや、まるで守るように数人の冒険者たちが現れていた。
全員、ギルドで見かけた顔ぶれだ。
「ワン……無事か?」
「ピノン……」
「あんた、よく生きてたね」
「ミルフィ……」
「しかし、状況は最悪だ。なんでこんな場所に大鬼猫なんていやがるんだよ……」
「ガリス……」
彼らは皆、冒険者ギルドバリスの都でよく見かける連中だ。
昨日だって、俺が一人で夕飯を食べてたのを笑っていたピノンとミルフィ。
二人は、ギルドでも有名なカップルだ。
そして、大柄な斧使いガリスは、ピッツァでも五指に入る実力者だ。
……助かった。
助かったんだ――そう、思った。
グルウアァァァァ!!
――だが、違った。
近くにいながらも、これまで一切攻撃してこなかった大鬼猫。
だが、こちらから先に矢を放ってしまったことで――その沈黙が、破られた。
巨躯からは想像もできない速度で、大鬼猫は矢を放ったピノンへと襲いかかる。
その鋭く、分厚い爪が彼の体を――引き裂く、その瞬間。
――阻まれた。
誰かが、ピノンとモンスターの間に割り込んだのだ。
その巨体を止められるのは、高位冒険者ガリスしかいない……そう、思った。
だが、違った。
間に割って入ったのは――あの女だ。
見たこともない服装に、薄い顔立ちの、あの“変な女”が。
大鬼猫は、女に対しては攻撃の手を止めていた。
むしろ、その動きすらも、止まっている。
「……な、なんだ!?」
モヒカン頭のピノンが叫ぶ。
そりゃそうだ。
攻撃を仕掛けてきた相手に対し、途中で手を止めるモンスターなんて――見たことがない。
「女……の子?」
筋肉質なのに可愛らしい名前のミルフィが、ぽつりとつぶやいた。
……やっぱり、知らないのか。
ということは、この女はピッツァの人間じゃない――?
ガリスが怪訝そうな顔を浮かべた、その瞬間――パシンッ!
「……え?」
女が、ピノンの頬を叩いた。
叩き、そして言った。
「なんで、こんなことするの!? ふざけないで……ふざけるのは、あなたの頭だけにしてっ!」
……意味が分からん。
「……済まねぇな、女。 お前が何に怒ってんのかは分かんねぇけど――仲間がモンスターに襲われてたら、助けに入るのは当たり前だろ?」
な、かま……?
「そういえば、なんでお前らがここにいるんだよ……」
「マスターに頼まれたんだよ。 お前が心配だから、適当な時間になったらオルロックの南側を見てきてくれって」
「……マスターが? いや、それにしたって、なんでお前らが……?」
「勘ぐるな。お前のためっていうより、マスターの頼みだったからだ」
ピノンは、どこか突き放すような冷たい口調で言い捨てた。
「素直になりなよ、ピノン。 あんた、いつも私と一緒にワンをいじってるけど……ほんとは心配してたんじゃないの?」
「お前だって、そうだろ?」
「……うるさいよ、ガリス」
……なんなんだ、これ?
なんなんだよ、これ……。
グルゥゥゥゥゥゥ……。
「あっ!」
「……え?」
大鬼猫が、低い唸り声を上げる。
その瞬間、ミルフィが驚きの声を上げた。
俺も……目を疑った。
大鬼猫は、女を背に乗せて――その場を、走り去っていった。
背中には、あの蝙蝠猫の姿もあった。
……え? なに、それ?
「し、信じらんねぇ……大鬼猫が、人間を背に乗せてやがる……」
「それに蝙蝠猫まで……な、なんなんだい、あれ……?」
ピノンとミルフィが、それぞれ目を疑うように呟いた。
まるで、現実を受け入れきれずにいるような声で。
「魔獣使い……」
それとは対照的に、ガリスだけは別のものを見ていた。
重く、どこか怯えるような声で、その言葉を呟く。
……あれ?
その言葉、どこかで――聞いたことがある気がする。
「魔獣使い、だって!?」
ピノンが叫んだ。
驚愕がそのまま声に出たような、大声だった。
……気のせいか、自慢のモヒカンが伸びてるようにも見えた。いや、気のせいだろう。
「……それしか考えられん光景だ」
ガリスの視線は、遠くへ去っていった大鬼猫の背中に向けられていた。
その背にいた女の姿――それを見つめながら、静かに言葉を継ぐ。
「三百年前……この大陸には、モンスターとはまだ呼ばれていない時代――“魔獣”と呼ばれていた時代があった。 その魔獣を使い、世界を掌握しようとした魔人がいた」
……ああ、思い出した。
子供の頃に聞かされた、あのお伽噺だ。
「魔人、オルフェル――」
ガリスの言葉に、全員が息を呑んだ。
「……まさか、あの女が“オルフェル”の生まれ変わりなのか?」
その場の空気が、一気に冷たくなった気がした。
いつも頼れる存在であるガリスの大きな体が、わずかに震えているのが分かる。
それは、ただの驚きではなかった――恐怖だ。
魔人オルフェル。
この世界から“光”を奪い、“闇”に沈めたとされる、最悪の存在の名。
その名を口にするだけでも、凍えるほどの恐怖を感じる――忌み名。
その可能性が、今――目の前に現れた。