万年初級の冒険者 2
翌日。
ワンは装備を整えていた――といっても、一度も実戦で使われたことのないロングソードを背に、少しずつ灰色にくすんできた白のローブをなびかせて、意気揚々と任務に向かう。
目指すはオルロック街道に生息する蝙蝠猫の討伐と羽の採集。
蝙蝠猫――体長30〜40センチ。
その名の通り背中には蝙蝠のような黒い翼があり、広げれば幅は1メートルを超える。
だが、なぜか全個体がポッチャリ系。
腹が出ているせいで、動きは鈍く、飛行も高さ2メートルが限界。しかもすぐ疲れる。
気をつける点? ない。
ランクは最弱、Fランクのザコモンスター。
ただ、敵意を向けるとすぐ逃げる習性があり、剣士のワンにとっては少々面倒。
パーティーなら弓や魔法で簡単に仕留められるが、彼はソロだ――が、今回は“秘策”がある。
オルロック街道を南下すること数時間。
人通りの多い街道沿いにはモンスターは現れないが、人気のない脇道にはちらほら出る。
「……いた」
茂みに黒い影。
あれだ。毛繕いでもしているのか、ペロペロと舐めている――今が好機。
剣じゃ届かない距離だ。
だが、俺には……“アレ”がある。
地面に転がっていた石を数個拾い上げ――狙いを定める。
「くらえっ! 必殺――石つぶて!」
放たれた小石が流星群のように蝙蝠猫に飛来。
ンニャッ……!?
見事命中。モンスターはその場にふらついて倒れる。
「……やった、か?」
だが、まだ息はある。
今のうちに仕留める――ロングソードを構え、ワンは距離を詰めた。
「落ち着け……落ち着け、ワン……」
剣の射程圏。心臓が跳ねる。
いつもの“緊張”が首をもたげる。
(くそ……また、だ)
この緊張癖こそ、今まで仕事を達成できなかった原因。
「うおっ……!」
蝙蝠猫が翼を広げた――逃げる気だ!
「そうはさせるかぁっ!」
剣を振り下ろそうとした、そのとき。
「止めてっ!」
――声がした。
誰だ!? 突然、目の前に現れたのは、見たこともない服装をした女だった。
「お、お前は――」
「なんでこんな酷いことするの!?」
……酷いこと、だと?
彼女は蝙蝠猫を抱きしめるように庇いながら、俺を睨みつけた。
「いや、えっ、え……?」
混乱するワン。
その時、女がぽつりと呟いた。
「……日本人じゃないの、ね」
に、にほん? じん?
どんな意味だ、それは……?
「言葉が……通じない、かも……動物保護法っていうのが……えーっと、こういうの、ダメなんです……!」
「ドウ……ブツ……?」
さっきからなんだこの女、いきなり現れて……服装も言葉もおかしい。
俺が剣を構えてるから警戒してるのか?
ワンは一歩引き、鞘に戻そうとしてーーやめた。
任務中だ。甘さは命取りになる。
(いや待て……まさか、コイツ。俺の獲物を横取りしようとしてるのか?)
ギルドの直接依頼ではないとはいえ、俺が先に見つけた獲物だ。
このまま、いつまのように舐められたまま引き下がれるか!
「バカにするのも大概にしろ!」
「えっ?」
「そこを退けっ! そのモンスターは俺の獲物だ!」
「……言葉、通じた!?」
「通じてないのはお前の頭だ! ピッツァから来たんだろうが!」
剣を向けた俺を見て、彼女が怯えた。
怯えたって、もうおそ――ニャアアアアアアアア!
蝙蝠猫が、突然叫んだ。
威嚇でも悲鳴でもない、不思議な声。
こんなに大きな声を出す個体なんて、聞いたことがない。
「……え? 私、なんでこの子の言葉が分かるんだろう……?」
女は困惑しながら呟く。
「仲間を……呼ぶの? 怖かったよね……ごめんね? 落ち着いて」
彼女は蝙蝠猫をそっと解放する。
俺が慌てて詰め寄る。
「逃すか!」
「なにするの――やめて!」
女が邪魔をするが、関係ない。
俺は再び剣を構えた。
「今度こそ、俺の初任務達成だ!」
振り下ろす――その瞬間。
ズドォン――!
地が揺れた。
剣先は蝙蝠猫を外れ、地面を抉る。
「な、なんだっ……!?」
単発的な振動。まるで巨大な何かが、地面を踏み鳴らしているかのような。
「……うそ、だろ?」
草原の奥。
街道の先から、視界を揺らすように、何かが、此方に向かってきた――そして、戦慄した。
ロングソードを握りしめた手には、冒険者としての矜持があった。
蝙蝠猫を討伐し、一人前となって──俺を捨てたグレイグ家を見返してやる。
これは、そんな執念と意地の、最後のチャンスだったはずだ。
胸の奥で燃えていたその熱は、目の前の“異形”を前に、一瞬で吹き飛んだ。
ロングソードは俺の手を離れ、地面を抉りながら転がる。
その音が、まるで俺の心が砕けた音みたいで、やけに耳に残った。
「あっ……あぁ……」
終わった。
そう思った。
──あぁ、俺の人生って、短かったな……って。
街道のすぐそばに、こんなモンスターがいるなんて。
聞いたこともない。誰も、教えてくれなかった。
「グルゥゥゥゥゥ……」
唸り声に反応して、顔を上げる。
見えたのは、巨大な顎と、そこから覗く刃のような剣歯。
俺のロングソードよりも長いそれで、子どもくらいなら丸呑みできるだろう。
鋼鉄を断つとも噂される爪が土を抉り、四肢には大地の加護を纏う。
……先程の地鳴りは、こいつの威嚇だったに違いない。
その名は、大鬼猫。
Aランク指定の、危険種。
討伐対象としては、地域最上位に分類される強力モンスターだ。
俺の足は、生まれたての小鹿みたいにガクガク震えて、もはや立ってるのが不思議なくらい。
チビりそうなのをどうにか堪える……いや、もしかして、もうちょっと出てる?
やばいな……せめて、漏らしてないことを祈る。
一流の冒険者には“通り名”が付くというけれど、俺が『黄金級』なんて呼ばれた日には……『粗相のワン』とかな。
はは、笑えねぇ……。
「グルゥウオワァァァァ!!」
「ひぃっ!!」
吠えられた瞬間、俺の背筋はビンと凍りついた。
だが……バカな事でも考えてなきゃ、正気でいられない。
今の俺は、死を目前にした男。逃避ぐらい、させてくれ。
……いや、逃避どころか、実際に逃げようにも、体が動かない。
この大鬼猫──つい最近、冒険者20人がかりで何とか討伐したという、まさに災害級の化け物だ。
店の常連が言っていた。
戦士と剣士の前衛、弓矢と魔法の中衛、回復と支援を行う後衛。
詠唱を短縮する高価な巻物を全員が携帯し、熟練の指揮官が采配を振るって……ようやく、倒せるかどうかの相手。
そんな相手に――俺は、今、たった一人で向き合っている。
何の準備もないまま、何の策もないまま。
剣すら、地に落とした状態で。
……終わりだ。
そう、誰がどう見ても、俺の命運は尽きている。