プロローグ 2
「では、こちらで手を洗ってください」
店員さんは、彼氏のこんにちわわんにノーリアクション。
代わりに丁寧な笑顔で、手洗いと消毒を促し、スリッパを出してくれた。
あのボケを完全スルーされた、生殺しだ。
彼氏は顔を真っ赤にしてもじもじしてる……あれはもう、恥ずか死に寸前の顔だ。
室内は思っていたより広く、先客は10人ほど。
猫たちが遊ぶ中央の空間を囲むように、ゆったりとした席が配置されていた。
「初めてのご利用ですよね?」
「はい。初めてです」
……うん。声がワントーン高い。やっぱ緊張してる。
彼氏は人見知りで、根もちょっとした豆腐メンタルなのだ。
既に致命傷を負っている。
この声も致し方なしだろう……とはいえ、店員さんもそこには触れず優しく微笑んでくれる。
「仲、良いですね」
「えっ……あ、はい……」
そのまま、今度は私の顔を覗きこむようにしてきた。
その瞬間――私は動けなくなった。
え、なに?どうすれば?
この状況、どう返せばいいの?
……ああ、でも、たぶん原因はわかってる。
きっと職場でのあのいじめが、まだ尾を引いてるんだ。
自業自得だけど、それでも、今もどこかで人の視線に怯えてる自分がいる。
もともとコミュ障気味だったけど、それに拍車がかかったのかもしれない。
「……あ。では、お好きな場所で寛いでくださいね」
私の反応を察したのか、店員さんは少し困ったように微笑んで、そのまま去っていった。
……うん。やっちまった。
やっぱり私って、接客される側ですら空気を重くするタイプなんだな。
でもまあ、いいさ。
私は客である。
客は神だ。神は万能だ。神に逆らう者などあってはならぬ……平伏すがいい……愚民どもよ……ハハハハ、ハーハッハッハ……!
……と、心の中で妄想全開。
「大丈夫?」
おっと、現実へ強制帰還。
妄想の終わりを告げたのは、いつの間にか平常モードに戻った彼氏の耳打ちだった。
「……余裕~♪」
なんて強がって返したけど。
うん、余裕なんて、1ミリもない。
「とりあえず、座ろっか」
彼のエスコートで、私たちは壁際の人が少ない席に座った。
「荷物、どうしたらいいんだろ?」
「ここ……じゃない?」
背後には棚があって、他のお客さんの荷物も並べられていた。
二人でバッグを置いて、あらためて店内を見渡す。
中央には大きなキャットタワーと遊具。
その周囲には猫たち、そして猫と戯れる人たち。
反応が良いのは、やっぱり若めの子猫たち。
にゃん……。
遊具を追いかける音。小さな足音。
にゃんにゃん……。
壁際にはいくつかのゲージも並び、中には眠る猫たちの姿も見える。
それぞれが思い思いの場所で、自由に過ごしていた。
不思議と――その空気に癒されていく私がいた。
店内には、猫が好きそうなトンネルや釣り竿、可愛い椅子が至るところに配置されていた。
まるで猫のために作られた夢の遊園地。見ているだけで癒される。
「すず、見てよ!」
彼氏が嬉しそうに指さす先――ゲージの中には、一匹の猫がふかふかのハンモックでくつろいでいた。
その脱力感、貫禄、愛らしさ。まさに猫界の女王。
「やばっ、かわいいっ!」
「ね、本当かわいいよ」
思わず身を乗り出す私。
気付けばすっかり、猫の虜になっていた。
彼氏も満面の笑み。ふたりして癒しに飲まれている。
「その子、ハナちゃんって言いますよ」
ふと背後から、気配なく店員さんの声が。
……え、忍者? ステルス? というくらいの静かさで近づいてきていた。
「ハナちゃん……?」
落ち着いた様子で彼氏が応じる。
さっきまでこんにちわわんとか噛んでたのに、切り替え早すぎ。
ちょっと嫉妬する。
「はい。七歳の女の子です」
「そうなんですね。この子たち、みんな保護猫なんですよね?」
「ええ。みんな里親さまを募集しているんですよ」
穏やかな店員さんの対応に、彼氏はどんどん会話を弾ませていく。
むぅ……なんだその楽しそうな空気。
仕方ない、ここは聞き役に徹しよう。
「僕ら、最近ペットを飼おうかって話してて。何か条件ってあるんですか?」
「はい、あります。たとえば――」
彼氏は本気で命を迎えることを考えていたらしい。
里親になるための条件や手続き、ペットショップとの違いなど、ひとつひとつ真剣に質問している。
店員さんも優しい口調で、丁寧に答えてくれていた。
中でも印象に残ったのは――「譲渡できるのは、家族として大切にしてくださる方だけなんです。そのための審査があります」という言葉だった。
ここにいる猫たちは、ほとんどが過去に傷ついてきたという。
飼えなくなった家庭から来た子。
別の団体から引き継がれた子。
そして、捨てられていた子。
中には、ゴミ箱の中で見つかった子猫もいた。
その話を聞いた瞬間、私は言葉を失った。
「……色々、この子たちも、大変だったんですね」
「はい。全員ではありませんが、心に傷を負っている子は多いです」
「すず。飼うなら、ちゃんと考えて決めないとね」
「……そだね」
そして、今目の前にいるハナちゃんも――ある日、公園で「怪我をした猫がいる」と通報があり、団体の方が駆けつけたところ、
彼女は血まみれで倒れていたという。
猫同士のケンカでは説明がつかない、深くて不自然な傷。
それは、人間に傷つけられたとしか思えないものだったそうだ。
胸が苦しくなった。
私自身、職場でのいじめで心を閉ざしたことがある。
けど、私は……まだ自分の選択でどうにかできた部分もあった。
でも、彼女たちは――ただそこにいただけで、傷つけられたのだ。
「重い話をしてしまい、すみません……でも、これが現実です。
猫はもちろん、犬もですが……今もなお苦しんでいる子達がたくさんいます。
だからこそ、里親になる方にはきちんとした環境かを確認させていただき、そのうえでトライアルという二週間のお試し期間を設けています」
「……色々と詳しく、ありがとうございます」
「いえいえっ! あ、そうだ。お飲み物とか、よろしければ」
その日、私は知った。
命を預かることの重みを。
可愛いだけじゃ、済まされない現実を。
動物たちは、今を生きている。
感情があり、知性があり、過去を背負って、未来を待っている。
私たちと、何も変わらない。
むしろ――ただ愛されたかっただけなのに、愛されなかった存在。
そんな彼らを、守るという選択があると知った。
私の中で、何かが静かに揺れ始めていた。