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新たな生活。

この世界の人たちが町に戻って、一週間。

私は、彼氏とのアパート暮らしから一変して、異世界での新生活を送っていた。


“異世界”とはいっても、壮麗な城や魔法都市なんてものではなく、大自然に囲まれた森と、冷え込む洞窟での暮らし。

身体のつくりが変わったとはいえ、そんな生活に簡単に馴染めるはずもなかった。


ーーー


それは数日前の夜のこと。


洞窟の中で、そろそろ寝ようかなと思って横になると、どこからか微かな物音が聞こえた。

何気なくそっちに目を向けた私は……凍りついた。


――で、出た。


見たこともない巨大な虫が、カサカサと床を這っているではないですか!


反射的に、私は悲鳴を上げていた。


「うぎゃあぁぁぁぁ!!」


正確には叫びというより断末魔に近かったと思う。

それくらい、私にとっては致命的な事件だった。

その声を聞いてスーフィングスさんがすっ飛んできた。

「何事か!?」と心配そうに……だけど、私の説明を聞くなり彼は無言で踵を返した。


え? ちょっと?

無言で帰らないでよ!?


「ちょ、ちょっとぉ!? 虫ですよ!? しかも手のひらサイズですよ!? マジであの黒光りするヤツにそっくりだったんですよ!?」

『ふん。やはり口では立派なことを言っておきながら、我々の暮らしが嫌だと言うのか……所詮は人間だな』


カチーンとまでは来ないけど、でも、しょうがないじゃない。

私はこの世界の生活なんて知らないし、あんなヤツに耐性なんてない。

あの黒いヤツに愛着を持ってる人がいるとしても、それはほんのごく一部だと思う。


大多数の人間にとって、虫は苦手な存在。

私もその一人。

しかもあれが、手のひらサイズ……ホラー以外の何物でもない。


そのとき、立ち去ったと思ったスーフィングスさんがふいに立ち止まり振り返った。


『……君は、人間たちの言い分を聞いていたようだけどさ』

「は、はい……?」

『その虫たちの話も、聞いてあげるのかい?』


えっ……虫たち……?

この虫にも、感情や心がある……?

ここは異世界。絶対にないとは言い切れない……。

まさか、本当に……?

感情があって、心があって、考えたりするの……?

背筋がぞわぞわするけど……もしそうなら。


私は意を決して、ぶるぶる震える膝を押さえながら、虫に向かって声をかけた。


「こ、こんにちは……あなた、わたしの声が――」


かさかさ。


「ひっ!」


いきなり動くのは反則!

それはイエローカード!

次やったらレッドカードだかんね!?と、心の中で必死に警告。


目をそらさずに向き合う私と……ヤツ。


スーフィングスさんたちとは違って、声は聞こえてこない。

でも――これはもしかして、通じ合っている……のか……?

そんな一瞬の錯覚に包まれた、その時――かさかさかさかさかさかさかさ!!

突進してきた!


「ひぎょええぇぇぇぇぇ!!」


思わず変な声が出た。

もう情けないなんてもんじゃない。

その叫び声に反応したのか、クリスタルの魔力が暴走しかけ――ブチッ!


えっ、ブチッ?


視界の端でムルカさんが足を振り下ろし、虫を潰した。


「あ……あぁ……そ、そんな……」


目の前で無惨な姿になった虫を見た私は、喉の奥が急に熱くなり――


「うおぇぇぇ……」


――その場で盛大に嘔吐した。


手のひらサイズの虫が、跡形もなく潰れた。

あれは、さすがに耐えきれなかった。


『ふん。こんなことで情けない奴め』


情けないとかじゃなくて……でも、それよりも……虫にも感情があるかもしれないと思った。

でも、あるなしに関わらず、無闇に命を奪うのは、やっぱり……。


『……君は、聖人にでもなりたいのかい?』


淡々とそう問うスーフィングスさんに、私は小さく首を振った。


「なりたいわけじゃないですし……元いた世界でも、家に虫が出たら駆除はしてました。でも、それは害虫だからであって、無闇に殺したくてやってるわけじゃありません」

『そうだよね。君は元の世界に帰りたい。僕たちは君に救いを求める代わりに、君を元の世界に返す協力を惜しまない。だからそれ以外はどうでもよくないかい?』


ちょっとその言い方……何かムカつく。

この世界に私を呼んだのは誰なんだって話だし、例えそうでも命をなんとも思わない考え方はいやだ。


『君は、人の言い分でも虫の気持ちでもなく……まずは僕たちと共に在るべきだ。だから、線は引いておいたほうがいい』

「……偉そうに」

『偉そうに聞こえたなら、謝るよ。でも、君がふらふらしてたら、こっちは困るんだ』

「はいはい、すみませんでしたー」


苛立ちは、隠せない。


クリスタルの魔力は、まだ身体の奥からじんわりと滲み出ていた。


『……君の寝床は、もう少し配慮するよ』


その言葉だけは、ちょっと嬉しい。

でも、虫の遺体には近寄れないので、せめて遠くから手を合わせておいた。


――そのとき。


『あ、それと』


まだあるの? なんなの今日は。


『あの虫は、君を襲おうとしていた。あれは近くにいるものを見境なく襲う種で、感情も心もない。ただの本能で動くだけの存在さ。だからムルカは、君を助けたんだよ』


……え?

感情はない……え、襲ってきた?ムルカさんが、助けてくれた……?


『勘違いするなよ、人間。俺は、利用価値のあるお前に死なれては困るだけだ』


ん? ということは……それって、ツンで。

この前のあれも、実は……デレ?

つまり……ツンデレってこと……!?

ムルカさん、まさかのツンデレモンスター……!

なんか、可愛く思えてきたんだけど!


『……落ち着いたようで安心したよ』


あ……いつの間にか、クリスタルの魔力がおさまってる。

ツンデレモンスター、ムルカさんのおかげかもしれない。

スーフィングスさんのこのやり取りも、私を落ち着かせるためだったのかな。

はぁ……なんか、私ってほんとダメだな。

もっとちゃんとしなきゃって思ってるのに、全然周りが見えてなくて、一時の感情に振り回されてるばっかり。


でも――助けてもらったのなら、まずはお礼を言わないと。


「ムルカさん。ありが――」

『俺は人間と馴れ合うつもりはない』


うん、知ってるよ。

ツン強めのデレさんだもんね。

そう言うしかないもんね。


……そんな冗談はさておき。


ムルカさんって、口は悪いけど――実は、すごく面倒見のいい人……いや、モンスターなのかもしれない。


そんなことを思えるようになったのは、きっと私とムルカさんの距離が、少しだけ縮まったから?

あの虫をスーフィングスさんが放っておいたのも、ムルカさんが見てくれているから、任せてたのかもしれない。


――もしそうなら、ちょっと嬉しい。


そんな気持ちのまま、私はムルカさんに近づいた。

ただ、一言だけでもお礼を――ずん。


……ん? ずん?

ムルカさんが、私から距離を取るように、ぴょんっと後ろへ跳ねた。


な、なんで……?


『近寄るな。貴様、かなり臭うぞ』


確かに、今の私は吐瀉物まみれだけど……さ。


ひどい、ひどい……ひどい!

一応、成人しているとはいえ女なんだよ?

臭うなんてそんなこと言われたら、さすがに傷つくよ。


その一言で、私はしょんぼりと落ち込んだ。

せっかく、ちょっとだけ近づけた気がしたのに。


それでも、汚れたスウェットをそのままにはできないし。

そんな私を見かねたのか、ムルカさんが岩山の裏手にある湖まで案内してくれた。


そこはみんなが水浴びに使う場所らしく、なるべく汚さないように、静かに服と体を洗わせてもらった。


この水場、けっこう好きかも。

虫もいなかったし、ここで過ごす時間が増えそう。


ーーー


そして今日、私の寝室が決まった。


スーフィングスさんの計らいで、二足猫(ケット・シー)さんのお部屋を一部屋貸してもらえることになったのだ。


広さは六畳くらい?

クリスタルの光が届かないから、部屋の中は薄暗くて、足場もゴツゴツしてる。

ベッドも机も椅子もない、ただの岩の凹み。


……うん、贅沢は言わないよ?


私のためを思って用意してくれた場所だし。

こういうのは、気持ちが何より嬉しいんだから。


だから今日はその好意に甘えて、ゆっくり休もう。

この世界に来て、はじめての「ひとりの時間」でもあるしね。


ーーー


ミルフィさんたちが帰って、2日。

この世界に来て今日で、数日。


スーフィングスさんとムルカさんは、クリスタルのある場所で休むらしい。

だから、私の見守りは今日からケット・シーさんたちが引き継いでくれるそうだ。


ムルカさん……じゃなくて、ツンデレさんはケット・シーの棲み家が手狭で入れないらしいし、

虫が出た場合は、ケット・シーさんが巡回して退治してくれるらしい。

本当に、至れり尽くせりだ。

ありがたい。

ここまでされて、文句なんて言えない。


むしろ、これで不満を言う人間がいたら、それはクレーマーか、ただの構ってちゃんだ。


性格が終わってる私でも、さすがにそれはしたくない。


「何はともあれ――そろそろ寝ますか」


横になって、目を閉じる……閉じてみる。


ミルフィさんたちからの連絡はまだない。

早く届くといいな。

オルフェルさんの遺骸を見つけて、早く帰りたい。


……私の世界に。帰りたい。


彼氏は、今どうしてるだろう。

仕事から帰って、夕飯を食べながらアニメでも見てる頃かな?


私がいなくなっても、いつも通りの生活をしてるのかな。

それはちょっと哀しいけど……でも、心配はかけたくない。


私は無事だよ。

生きてるよ。

元気でやってるよって、言えたらいいのに。


……だめだ。つらい。


いま、目を開けたら――いつもの家に戻ってるんじゃないかな。

隣には、彼氏の寝顔があるんじゃないかな。


……戻れるんじゃないかな。


「……無理だ」


この世界に来てから、ずっと忙しくて、ひとりで静かに過ごす時間なんてなかったから。

いざ、こうして一人になってみると……色々な想いが溢れてくる。


会いたい。

会いたいよ。


あの右手に抱きついて、あの胸の中にうずくまって、あの優しい笑顔に包まれて――独りは、無理だ。


私は、クリスタルのある部屋へと戻ることにした。


その行動に、スーフィングスさんは少し驚いたような顔をして、ムルカさんは明らかに呆れた顔をしていたけれど……それでもいい。


虫が出てきてもいい。

気を使って疲れてもいい。


独りでいるより、誰かといたい。

いまは、それだけでいい。


そう思えるようになった私は、静かに彼らのもとへと戻った。


私の、異世界での新たな生活が、ゆっくりと始まっていく。


スーフィングスさんと、ムルカさんと過ごす時間が、現在(いま)の私にとって、一番落ち着く瞬間だった。


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