失言
暫しの時を経て、この世界の人々の話し合いが終わったことを一人の男性が両手を上げて静かに告げた。
大柄で屈強そうな体躯とは裏腹に、彼は神妙な面持ちで、まるで畏れでも抱いているかのように丁寧な態度で私に歩み寄ってくる。
そして、私の願いを聞く前に「確認」と称して、こう尋ねた。
「モンスターと戦ってはならぬ……その道理を教えてほしい」
さっきも話したはずなんて思わない。
理解してもらうには、何度だって話す覚悟がいるのだろう。
それはきっと、私のようにコミュニケーションが得意じゃない人間には少しだけ大変なことだ。
……いや、少しどころじゃないかもしれない。
保護猫喫茶での仕事で、多少はそういう力も身についたかもしれないけど、それだって前提があるからこそ通じたこと。
前提――私が「店員」であること。
そこには店長がいて、保護団体があって、支えとなる土台があった。
私はその土台の上で、誰かの期待に応えるように働いていたにすぎない。
でも、この世界にはその前提がない。
私のいた店とも、世界とも、すべてが違う。
違うだけならまだいいけれど、価値観も、倫理観も、そもそも世界観そのものが異なるのだ。
スーフィングスさんやムルカさんの視線が突き刺さる。冷静でいられる自信はないけれど、それでも、せめて平静に……。
むひっ。
営業スマイル?発動。
保護猫喫茶で接客していた時の私をイメージしながら、私は話し始めた。
「あ、あのですね……彼等、モンスターは……皆さん、感情があって、どぅえすね。それで……その……やめて、ほしいんてすよ……エエハイ」
『……カタコトになっているよ』
あれ、おかしいな。しっかりしなきゃって思ってたのに。
なのに、どうしてうまく話せないのだろう。
そっと振り返る。そこにはスーフィングスさんは、変わらず静かに身を伏せている。
ムルカさんは仁王立ちで、言葉なく私を見下ろしていた。
その視線だけで、十分すぎるほどの圧がある。
仲間を守りたい――そんな想いが、姿勢に滲んでいる。
気圧されそうになる。けれど、私だって帰りたいのだ。絶対に、何も失わずに。
私にだって、守りたい想いがある。
彼等を守って、私自身も五体満足で帰る。
絶対に、生きて、帰るのだ――何一つ、変わらずに。
だから、負けてはいけない。
自分の気持ちを見失ってはいけない。
私らしさを、忘れちゃだめだ。
「もし……?」
「あ、すみません。 実はですね――」
――営業スマイル、解除。
そうだ。私は私でいい。
この世界と価値観が違っても、論理が通じなくても、私は私の言葉で話すべきだ。
スーフィングスさんも、ムルカさんも、そしてこの世界の人たちも――みんな、命を懸けて生きている。
森での戦いを見て、それは痛いほどに伝わった。
私はまだ、この世界のことなんて何も知らない。
「理解した」なんて口にするには烏滸がましい。
でも、それでも、彼等は確かに命を懸けていた。
スーフィングスさんの仲間の中には、戦いを好む子もいた。
殺さないように戦うというのが、どれほど難しいことか。
それでも彼等は、私の言葉に耳を傾け、命がけで応えてくれた。
だから、私も応えなくちゃいけない。
この世界の人たちに、私の言葉で、私の想いで、まっすぐに伝えなくちゃいけない。
たとえ上手に話せなくても――コミュニケーション能力なんてなくてもいい。
私は私で、それでいい。
そういう私なりのやり方で、精一杯に伝えよう。
「人って、感情がありますよね? あなたにも、あるはずです」
「……それは、もちろんあるが?」
「彼らも同じなんです。笑って、楽しんで、普通に生きていたいんです。それを、奪わないでほしいんです」
大柄な男性は、依然として神妙な面持ちのままだった。
けれど、私の言葉の意味は伝わったのか、表情を変えずに、ゆっくりと頷いてくれた……頷いてくれたのだ。
「わかった。あなたは魔人……いや、なんでもない。では、皆をここへ連れてきてもいいか?」
「あっ、私が行きます! いえ……行かせてください」
そして私は、彼らの元へ向かった。
ムルカさんは何も言わず、静かに私の後をついてきた。けれど、人々に圧を与えないよう、少しだけ距離をとってもらう。
私は、大勢の人々の前に立ち、懸命にお願いを伝えた。
彼らは、すぐに答えることはなかった。
ただ静かに私の声を聞き、頷く者、じっと見つめてくる者、目を閉じて何も言わない者もいた……私の言葉が、ほんのひとりにでも届いてくれたら、それでいい。
それしか、私にできることはないのだから。
全ての想いを伝え終えた頃――この中で一番立派な甲冑を纏った男性が、ゆっくりと口を開いた。
「おまえ……いや、あなたの言いたいことは分かった。では、俺たちを殺す気はないんだな?」
「はい。ありません」
「……では、帰らせてくれるのだな?」
「はい。もちろんです」
「武器や、巻物は返してもらえるか?」
「荷物のことですね? 帰るときには、必ず返します。その代わり……モンスターを襲うのは、やめてくださいね」
「……わかった」
――伝わった。
言葉が、想いが、届いた。嬉しかった。
世界が違っても、人は人。
話せば、分かってくれる。
そう、言葉があるから。言葉には、想いがあるから。
……そうだ。
彼氏が私を想って、言葉で気持ちを伝えてくれた。
店長も、私の想いを聞き入れて、保護猫喫茶に迎え入れてくれた。
だから私は、今ここにいる。
人って、ほんとうに素敵だ。
私は彼らに笑顔を向けた。
その笑みは、精一杯の気持ちがあったからこそ生まれたもので――彼らの表情も、張り詰めていた空気がほどけたように、どこか安堵している……気がした。
「では、さっそくで悪いのだが……俺たちを帰らせてくれないか?」
「はいっ! 分かりました! じゃあ、荷物を持ってきますので、少しだけ待っててくださいね!」
ーーー
ケット・シーさんに頼んで、彼らの荷物を届けてもらい、私はスーフィングスさん、ムルカさんと一緒に、彼らを岩山から森林の出口まで案内した。
その道中、私は彼らの中で数少ない女性、ミルフィさんと話をする機会をもらった。
近くには、モヒカン頭のピノンさんもいて、どうやら二人はカップルらしい。
というか……彼氏のピノンさんのことは、すごくよく覚えている。
――だって、初対面のときに、私はとんでもなく失礼なことを言ってしまったのだから。
「この前は……すみませんでした」
「この前?」
「彼氏さんに……その、失礼なことを言ってしまって……」
「何か言ったの?」
「はい……ふざけるのは頭だけにしてって。髪型とか服装とか、そういうのを馬鹿にするなんて最低ですよね。本当に、ごめんなさい」
しゅんとしながらそう言うと、ミルフィさんは少し考えるように私を見つめ――不意に、問いかけてきた。
「……あんた。想い人は、いるかい?」
えっ……? いきなりどうしたの、謝罪からなぜ恋愛の話に……?
「い、いますよ。私には……もったいないくらい、素敵な人が」
「そうかい。 その人のことを、誰かに悪く言われたら……あんたは、怒るかい?」
……それは。
うん、怒るよ。当たり前だ。
怒る。きっと、我慢なんかできない……となると、やっぱり怒ってるのかな。
いや、怒ってるか、当然だな。
私の性格がダメなところって、たぶんこういうところなんだと思う。
会話してても、相手の気持ちなんて考えられない。
かといって、自分の気持ちをうまく言葉にすることも苦手で……皆さんにお願いをしていた時も、夢中で何を話しているのか自分でも分からなくなる瞬間があって、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
スーフィングスさんたちの気持ちを、どうにかして伝えたかったのもあるけど……でも、きっと、私が一番に考えていたのは「帰りたい」って気持ちだった。
一日でも早く、一分、一秒でも早く……元の世界に。
そんな焦りが、私の言葉や行動のどこかに適当さを生んでいたのかもしれない。
ううん、間違いなく、あった。
今こうして、この世界の人たちと向き合っているはずなのに……理解したつもりで、まだ理解力が足りていないんだろうな。
「大丈夫かい?」
「……あっ! は、はい?」
「で、あんたにもいるんでしょう?」
「……あ」
「好きな人」
――いる。います。
私にはもったいないくらい、素敵な人がいる。
私は改めてミルフィさんの方を見て、しっかり向き直った。
ちゃんと、彼女を知ろうと思った。
ーーー
異世界の壁を越えて、女子二人。
恋バナの花が自然と咲いて……あっという間に、森の出口へと辿り着いた。
「改めて、ありがとうね。私たちを守ってくれてさ」
「い、いえ……こちらこそ、想いを理解していたつもりで、つもりでした。だから話せて良かったです。私もちゃんとしなきゃって思えました」
「この件、町のみんなにしっかり伝えるから」
「はい。お願いします」
私は、友達がいない。
前の職場でも、空気が読めない私のせいで人との距離を遠ざけてしまっていた。
何かを任されることもなかった私が、今、現実味のない考えを、言葉にして、誰かに伝えようとしている。
でも、今は違う。
この世界にいる命も、私の世界にいた命と同じだ。
だから、スーフィングスさんだけのことじゃない。
彼女たちの話も、考えも、生き方も、知ることはすごく大事なんだって思う。
だからこそ、ミルフィさんと話せてよかった。
ほんとに、よかった。
恋バナも楽しかったし、何より……友達になれるかもしれないって思える誰かと話せたことが、すごく嬉しかった。
たとえ今は知り合い程度でも、いつか、本当の友達になれるかもしれない。
たとえ世界が違っていても。
「俺たちは、これから町に戻って、この件を報告する……そこでなんだが」
高揚した気持ちの中で、甲冑を身にまとったアウィルさんが、手荷物から丸めた何かを取り出した。
「これは?」
「伝達用の巻物だ……わかっていると思うが、俺たちは調査の任にあっただけ。冒険者ギルドにはこの件を全て報告せねばならない」
冒険者……ギルド!彼氏が好きなファンタジーの鉄板ネタ!
この世界には冒険者ギルドがあるのか……か、彼氏に教えてあげたい。
「……なにか、まずいことでも?」
「いえ、全然! むしろ報告は大事だと思います! 報・連・相って大事ですからね!」
私の返答に、アウィルさんは少し目を見開いたあと、ほっと安堵の表情を見せた。
「では、報告後の連絡手段として、巻物を渡しておく。何かあれば、これでやり取りしよう」
「はい、分かりました。お任せくださいっ!」
使い方はわからないけど……多分大丈夫。
スーフィングスさんに聞けば、どうにかなる。
「それでは、俺たちはここで――」
彼らが立ち去ろうとした、その時。
「あ、あとひとつだけ……いいですか?」
アウィルさんが振り返る。
落ち着いた空気の中で、私は……要らない一言を口にしてしまった。
「オルフェルさんの遺骸って……どこにあるんですか?」
……その瞬間、場の空気が変わった。
あ、あれ? え? あの……今の、まずかった……?
言った直後に、私は失言に気づいた。
完全に気が抜けていた。
オルフェルさんは、モンスターたちにとっては英雄だった。
でも、この世界の人たちにとっては、災いの象徴だったのだ……そこまでの理解が及ばなかった私は失言をしてしまったのだ。
「い、いや……今のは、その……」
「……すみません。俺たちには分かりません」
「あっ、はい……いえ、忘れてください」
「……わかりました。では、俺たちはこれで」
「はい……ご連絡、お待ちしています」
彼らは森から、そして私の前から去っていった。
けれど、それはただの別れとは違った。
あんなに心が通じ合えたと思っていたミルフィさんでさえ――その一言で、距離が生まれたような戦慄めいた気配を残して。
『……何か、話したのかい?』
少し離れたところから見守っていたスーフィングスさんが、私の様子に気づいて心配そうに近づいてきた。
「い、いえ……大丈夫ですよ」
『そうかい。では、戻ろうか』
「はい……」
大丈夫。うん、大丈夫。
忘れてくださいって言ったし、さっきの空気も、きっと私の気のせいだ。
マイナス思考はよくない、よくないよね……うん。
そうやって、私は無理やり自分に言い聞かせた。
スーフィングスさんには、本当のことは話さなかった。
けれど――この時の私は、まだ知らなかった。
さっきのたった一言が、後に――災厄として、私に牙を剥くことになるなんて……その言葉は確かに、この世界の人々の心に、深く、刺さっていたのだ。
最悪の形で。