背中
「僕はそろそろ、次の星に行くよ」
「えー?」
「次の星にも、さっき倒した奴のような、悪いモンスターがいるんだよ」
「それは……ヒーローさんにしか倒せないの?」
「勿論だ、君達とお別れをするのは悲しいけど、平和と、笑顔の為だよ」
「ヒーローさん……行かないでよ」
「そうだよ! 行かないでよ!」
「戦っているヒーローさんの背中はカッコ良かったけど、お別れの時に見る背中は見たく無いよ!」
「……ありがとう……みんな……元気でな!」
「ヒーローさん!」
泣ける……本当に泣ける……。
去り際と言うのは、実に悲しみを呼ぶ物がある。
背中には、不思議な力があるように思える。
時には勇ましく、時には悲しく見える。
人は顔だけでなく、背中でも感情を表すことが出来るのでは無いだろうか。
僕はノートパーソナルコンピューターからDVDを取り出してケースにしまい、ヘッドフォンを外して就寝した。
朝食を取ろうと居間に向かう途中、台所に向かい、料理をしている母の後ろ姿を見た時、何故か心に暗い感情が襲って来た。
まるで……母が何処か遠くに行ってしまうような……。
悲しい……辛い……行かないでくれ……行かないでくれ!
「どうしたの? 涙なんか流して」
母が異変に気付き、振り向いたその時、心に襲って来た暗い感情が急に治まった。
「ん? いや……別に何でも無い……」
「どうして泣いてるの? 玉葱切ってる訳でもないのに」
「……何でだろうね?」
結局原因は分からず、家族で朝食をとって学校に向かった。
しかし学校に向かっている途中、僕の前を歩いている通行人の姿を見たその時、突然心に暗い感情が襲って来た。
家で母の後ろ姿を見た時の感覚と良く似ていた。
知らない人なのに……まるで僕と非常に仲の良い友人のように思えて……そして……何処か遠くに行ってしまうような……辛い……行かないでくれ……立ち止まってくれ……止まってくれ!
しかし突然、感情は治まった。
前を歩いていた通行人が、交差点で左側に歩いて行き、視界から居なくなった途端に、まるでスイッチを押したかのように突然感情が治まった。
僕は通行人の歩いて行った方向とは別の、真っ直ぐ行く方向に向かう為、横断歩道の信号が青になるのを待った。
しかしさっきから様子がおかしい……人の姿を見る度に心に暗い感情が襲って来る……。
しかし必ずしも人の姿を見て感情が襲ってくる訳では無い。
母の時だって、顔を合わせて話をしている時には感情は襲って来ていなかったし、前から歩いて来る通行人を見ても感情は襲って来ない。
一体どんな法則が……。
僕は先ほど通行人が歩いて行った左側の道を見た。
通行人はまだ歩いていた。
まただ……また来た……心に来るこの暗い感情……苦しい……息がしづらい……苦しい……苦しい!
その時、横断歩道が青になった事を知らせる音が聞こえて来て、僕は前を見た。
感情が治まった……一体この突然襲って来る感情は何なんだ! 気色悪いわ!
学校に着き、教室に向かった。
教室に着くまでに何度も涙を流し、重く苦しく辛い感情に押し潰されそうになった。
一番前の席で授業を受ける。
女性の先生が黒板にチョークで文章を書く。
襲って来た……暗い感情が……。
文章を書き終えてこちら側を向く。
感情が治まった。
何となくだが……原因が分かったかもしれない……。
再び先生が黒板の方を向く。
感情が襲って来た……。
再び先生がこちら側を向く。
感情が治まった。
多分……原因は背中だ!
僕は背中を見ると心に暗い感情が襲って来るんだ! きっと! 凄い能力を手に入れた! いや待て……何の役に立つんだ! この能力! 役に立つどころか不便じゃないか? 噓泣き位しか出来なく無いか? 背中を見るだけで苦しくなったり辛くなったりして涙が出てくる……辛いだけじゃないか!
「どした? そんな泣き疲れた後みたいな顔して」
「あ……すみません! 先生が……尊くて……」
「何を言ってんの! ってか話聞いてないでしょ!」
「はい……あ……いや聞いてます」
「はいって言ったじゃん……」
「言ってません」
「言ったよね? みんな聞いたよね? 聞いた人挙手、はーい」
「はーい!」
帰り道……辛い……辛すぎる!
生徒や先生の背中を見る度に心に暗い感情が容赦無く襲って来る……前を向いて歩きたく無い……。
僕は下を向いて歩く事にした。
しかしそんな歩き方をしていた所為で、通行人と肩がぶつかってしまった。
その人は二十代後半位のように見える男性だった。
「す……すみません!」
「もう……気を付けて歩きなさいよ! 何下向いて歩いているんだよ!」
「すみません……」
「はあ……ちゃんと前向いて歩けよ学生!」
「はい!」
「あ……道こっちじゃないじゃん……」
男性はその後、僕の前を歩き始めた。
恐らく、道を間違えたのだろう。
辛い……苦しい……息がしづらい……知らない人のはずなのに……何処か遠くに行ってしまいそうな感じがする……行くな……行かないでくれ……行かないでくれ! やめろ!
気持ちが抑えきれない!
僕は前を歩いている男性に向かって走り始め、背中から抱き付いた。
「行かないでくれ! ここに居てくれ! 遠くに行かないでくれよ!」
「なんだ学生! お前正気かよ! おい! 離れろって!」
「嫌だ……嫌だ! 行かないでよ……頼むからさ! 去り際の背中なんて……見たく無いよ!」
「何言ってるんだお前? マジで何だよ? おい! 警察呼ぶぞ! おい! おい!」
メンタルクリニックに来た。
「ふーん、背中を見ると、苦しく、辛い気持ちになる?」
「はい……本当に……なるんです」
「ふーん、最近アニメとかドラマとかで、背中を見て辛い気持ちになった事はありませんでしたか? それも何回も」
「DVDのドラマでしょっちゅう背中を見て辛い気持ちになっています」
「ふーん、原因は恐らくそれでしょう」
「え?」
「ふーん、作品の背中を見て辛い気持ちにり、心が中途半端に辛い気持ちになってしまっているのでは無いかと」
「中途半端に?」
「実はアニメとか映像作品とかを見ても、心の底から感情が溢れていると言う訳では無いのです」
「え?」
「ふーん、例えば、感動するシーンを見て、涙が出ていても、実はそれは心の底から感動している訳ではありません。そして、心は、底から感情を溢れさせようと必死に努力をするのです。しかし、大抵は直ぐに気持ちは落ち着きます、必死の努力も空しく」
「でも……どうして僕はこうなっちゃっているんですか?」
「ふーん、それは恐らく、中途半端な気持ちを貯め込み過ぎたのでしょう」
「貯め込み過ぎ?」
「ふーん、気持ちと言うのは、何度も見たり聞いたり、嗅いだり感じたりしていく内に、少しずつ溜まって行くものなのです」
「と……言う事は?」
「ふーん、背中を見て辛い気持ちになると言うのを心に貯め込み過ぎて、落ち着かなくなってしまったのでしょう。ですから、作品と全く関係の無い背中を見た瞬間、心が必死に努力を始めるのでしょう」
「あの……治す方法は?」
「ふーん……」
僕は引きこもりになった。
背中を見ると、無条件で悲しくなり、苦しくなり、辛くなる。
全ての背中が……大切な人の去り際のように見える……。
僕が騒ぎを起こし、引きこもりになってから、父の様子は日に日におかしくなっていった。
「もう良い! 出て行け!」
「……嫌よ……それだけは嫌よ!」
「おい……危ないって! おい! おい……う……うう……」
何かを刺すような音と、何かが倒れるような音が聞こえて来た。
僕は嫌な予感がして部屋を出た。
居間には包丁が刺さった状態で床に倒れている父と、泣きながら父を揺らす母がいた。
「母さん……」
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい!」
母はその後警察を呼び、連れて行かれた。
母が連れて行かれている時、僕は母の背中を見ていた。
涙を流しながら、ずっと叫んでいた。
「行かないでくれ……行かないでくれ! 母さん!」
母は警察に連れて行かれた……ただ……これで……僕の能力は解けたはずだ……。
実は……メンタルクリニックに行ったあの日……治療法を聞いていたのだ……しかし……。
「あの……治す方法は?」
「ふーん……」
「あの……先生?」
「ふーん……実際に背中を見て辛い気持ちになり、心の必死の努力が報われれば、完治するでしょう」
「……あの僕……彼女も……友達もいないんですけど……」
「ふーん……しかし今の所……治療法はこの方法しか無いのです……」
「……」
「ふーん……離任式や……卒業式なら……チャンスがあるかもしれませんが……」
「え?」
図らずも……心の必死の努力が報われた……。
でも……涙が……全然止まらない……。