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愛と試み  作者: しろ
1/1


 一


 新型コロナウイルスが流行し始めて半年になる。そしてこの年の京都も暑かった。照り付ける太陽が細菌を幾分か消毒することに寄与したのか、ウイルスが流行し始めた当初に懸念されていたパンデミックといったものは日本ではまだ確認されていない。

 疫病というどこか前時代的なイメージもあるこの病はしかし、最新世代を生きる現代人のほとんどに有形無形の影響を及ぼした。大学生の鮎沢直哉もその甚大な影響を受けた中の一人だった。京都市内の山に接するところにある大学に彼は通っていた。ところが、コロナウイルスの流行のために大学は休校になっていた。休みになったのは大学ばかりでなく、彼のアルバイト先も休業となり、彼は失業した。大学生という一応の肩書は生き残っているが、それさえも現下の状況では余りにも頼りないものだった。

 鮎沢が京都に来てからもう二年になる。四国という日本の中での島国から京都に初めて来た時には、彼はやはりその街の規模に驚かされた。彼は市バスに乗った時に他の乗客の足を踏まないようにして立つ必要があることに驚いた。そのよく知らない京都の街で彼は仕事、つまりアルバイトに出かけては毎日の日銭を稼いでいた。しかし、今はそのわずかの日銭さえも到底期待できない。そのような彼の下にも家賃を支払うようにという督促状が容赦なく送られて来た。事実、彼はここ二か月間、家賃を払っていなかった。そればかりではない。彼は失ってしまったわずかの収入源さえも復活させる努力を行っていなかった。彼が日々していることといえば、空調も付けていないうさぎ小屋のようなアパートで全身汗まみれになりながら横になっていることくらいだった。

 成程、鮎沢の借りている部屋はうさぎ小屋という形容が正に相応しいものだった。先ず、玄関を開けると大の大人なら半歩でまたげるくらいの土間が申し訳なさそ程度についていて、その先が寝室になっていた。しかしその部屋も四畳しかなく、簡易ベッドを置くと後にはまともな本棚を置くスペースもなくなってしまうほどだった。そしてその余裕のないスペースには鮎沢が日常で使用している靴が無造作に置かれてあった。それは玄関ドアがどういうわけか内側に開くようになっていた為、あの土間はその機能を果たせていなかったからである。このうさぎ小屋の唯一の利点は窓が北向きについていなかったことくらいである。南と西に開かれた窓からは十分な太陽の光が入って来た。さらにワンルームタイプのアパートではあったが、南側と西側の窓を開けることが出来たので、若干の風通しが期待出来た。もしこの唯一の利点がなければ、いくら鮎沢であったとしても天井の妙に低いこのうさぎ小屋を借りようとは思わなかったであろう。

 そのうさぎ小屋の中で鮎沢は眠り続けていた。太陽の光線は南から西に移動し、うさぎ小屋の中に暑い夏の光を差し込ませていた。西日にどれくらいの間照らされていたであろうか、その鮎沢が目を覚ました。彼はベッドに体を起こして座り、ベッドの縁で何かを確認するかのように脚をぶらぶらさせていた。『この分なら走れそうだ』鮎沢は独りで思考を展開させていた。『この前はひどい目に遭ったもんだ。糸井の奴が憂さ晴らしだとか何とか理由をつけて引っ張り込みやがって…飲みに行くのは久し振りでよかったが、あの野郎、白梅町の居酒屋なんかに席を取りやがって、お陰で大した安酒を飲まされちまった。久し振りの酒だったからどれが上等でどれがボロ酒かも分からないまま飲んじまった。そう言えば糸井の奴はビールばかりを飲んでいたっけ…。ちくしょう、あいつはやっぱり遊び方を知っていやがる。俺みたいにへまはやらないってわけか…。見栄を張った酒よりもビールの方が口に会うと来たもんだ。へ、へ、へ、…。とにかくあの野郎は立派さ、強い奴だよ。それに比べて俺はどうだ?安酒の酔いにやられてふらふらと帰っている途中に側溝に脚を落としちまった。その為にあのことが一週間先延ばしになってしまった。あれをやるからには思い切り走れるというのが条件のようなものだからな。それをあの怪我の所為で、ええい、忌々しい!…それよりもどうかな、この脚は?…少し痛むがこの程度なら問題ないだろう。待てよ、俺はあのことが先延ばしになったのを忌々しいと言ったが、それは本心なのか?出来ればあんなことはしたくないのではないのか?あんな、あんな、ひどいことじゃないか!…何がひどいと言うんだ?奴らは今まで甘い汁を吸ってきた連中じゃないのか?団塊の世代とはよく言ったもんだぜ。あいつらはそれこそ岩のように固まって俺たちの財産を根こそぎにしてしまったじゃないか。そこから、余り余っている奴を少し懲らしめて何が悪いんだ。ふん、糸井はどうかと訊くんだろう?確かにあいつも資産家さ。親は何やら消防機器の販売で財を成したというじゃないか。そのくせ、あの野郎はわざと安アパートに住んで居直っていやがる。ふん、お前たちは言うのだろう、そんな男と平気で酒が飲めるお前がどうしてそうやって噛み付くんだい?こう言いたいのだろう。確かにそうさ、これは矛盾さ。でも、でも、それなら俺は言い返してやる。仮に奴みたいなボンボンと飲んだって、そこから逆反射的に己の運命を呪うように思考が反転するとでも言うのか?つまり、友人がきっかけになって自分を恨むようになるとでも言うのかい?そうはならないさ。友人が己の人生の仇とはならないさ。仇になるとすればどういう時かって?それは噂として聞こえてきた場合さ。糸井の場合もそうだ。奴が俺の目の前で何も隠そうともせずああやって羽振りよくするから憎めないだけだ。もしあいつの羽振りの良さが伝聞で聞こえてきた場合はどうか?もちろん俺はあいつの羽振りの良さを想像して憎悪しただろう。でも、今の俺にはあいつは憎めない。…だって、俺たちはもう知り合った友人なんだから当然じゃないか!…ところで、俺は何を考えていたっけ…そう、そうだ、本当にあれをやるのかということを考えていたんだ。答えは…もちろんやるさ。ちぇ、その理由は何だって言うんだ?それはさっき言ったばかりじゃないか。それは、あいつらが余り余った金を腐らせているからだ。いや、これも伝聞に基づく考えだからな、一考の余地があるとでも言うのか?いや、この伝聞は確かだ、事実だ。老後二千万問題とか言っているが、それでも奴らは持っているのさ。これが真実さ。何をためらう必要があるものか。正々堂々とやってのければいいのさ。おや、何だか暗くなって来たぞ?』

 事実、窓から差し込む西日は暗くなりつつあった。鮎沢はそれでも電気をつけることもしないで、ベッドに座り込んだままぴくりとも動かなかった。弱くなった西日に照らされた彼の顔は、こうして観察してみると案外に美男子だった。日本人にしては彫の深い顔立ちで、目元や鼻筋はまるで職人が彫刻したように整っていて、彼を見る人間に鮮明な印象を与えた。恐らく彼の顔は、通りすがりにちょっと目にしただけでも鮮やかな記憶として万人の中に残ったに違いない。しかし、それほどまでの特徴的な目元や鼻筋にもかかわらず、それが彼の顔全体のバランスに障害するということはなく、彼のさらさらとした黒髪とともにどこか異国情緒の感がする独特の哀愁を感じさせた。しかし彼はうつろな目をしていた。そこには彼が何かの考えに憑りつかれていることを他人にも十分察知させるだけの雰囲気があった。もし今の彼の顔を人相学に詳しい人間が見れば、今すぐにでも彼の話し相手になって腹の内を吐き出させる必要があると思ったに違いなかった。鮎沢は正体の定まらない視線を四方八方に、まるでこのうさぎ小屋の細部まで記憶しようとしているかのように泳がせた。日差しはますます弱くなり、とうとう電気を付けなければ、いくら狭いこのうさぎ小屋でも真っ直ぐに歩くことが出来なくなるくらいになった。

 鮎沢はようやく立ち上がって部屋の電気をつけた。パッと明るくなった部屋で彼が最初に見たものは時計だった。とっくに七時は回っていた。鮎沢はまるで雷に打たれたかのように時計の前に突っ立った。うつろだった彼の眼差しが次第に力強いものへと変化していった。

 『七時だと?ああ、何ということだ!俺は本当にあれをやるべきなのかどうか今朝から考えていたんだ。でも、もう七時は過ぎた。これ以上この部屋で阿呆のように突っ立っているわけにはいかない。とりあえず街に出ることだ。それしかない。街を歩きながら考えるんだ。それでもし獲物を見付けたら?その時はどうするんだ?ためらう必要なんかないじゃないか!とでも言ってくれるのか?ええい、くそったれめ。…やっぱり今日は止めにするか?何、いつかやればいいのさ、いつか…そう、今日じゃなくてもいいはずだ。でも七時は過ぎた。やはり、やるとすれば今日だ、今日しかない』鮎沢は一通り呟くと、うさぎ小屋のアパートから表の通りに一気に飛び出した。

 夜だというのに京都の街にはひどい暑さが残っていた。鮎沢は平野神社の前を通り、西大路通りをひたすら南に下った。白梅町に着く頃には全身が汗で濡れて、そのために足跡がつくのではないかと不安に思うほどだった。白梅町に着くと、恐らくは大学生と思われる一群が駅前を占領していた。鮎沢はその中にKの姿を見付けた。

 『あれはKだ。こんなところに、しかもいまの時間にいるとはな。気を付けろ、気を付けろ。今は誰の眼にも俺は触れてはいけない。後になって、「そう言えば鮎沢と白梅町で会った」何て下手な証言をされたんじゃあ堪らないからな。でも…そうさ、ハハハ、Kがいくら俺と出会ったなんて証言をしても別に何も立証したことにはならないはずじゃないか!だって奴が言えることというのは俺と街で出会ったということだけなんだから。ふん、少し神経が過敏になっているのかもしれない。落ち着くことが一番大事だ。…おや、もうバスが来たぞ。今日に限って定刻通りに来やがった』鮎沢はそう呟くと今出川通りから河原町行のバスに飛び乗った。

 午後七時という時間であるのに市バスには乗客がほとんど乗っていなかった。鮎沢は何かに導かれているのを感じた。鮎沢がこれから行おうとしている恐ろしい行為を何か目に見えない不可思議な力が援助してくれているとしか思えなかった。鮎沢は全ての決着がついた後でこの時のことを思い出すたびにそのように感じないではいられなかった。では、何のためにそのような力が働いたのか。神よ、我らを試みに合わせず悪より救い出し給え!神の試みの結果であったのか?ではなぜ、鮎沢が試されることになったのか。神が共に苦しむという、そのことの実現がなされるためだったのか?鮎沢はそのように考えるたびに、多少の恨めしさを神に対して覚えるのであった。

 市バスの無人さに劣らないほど河原町も通常と比べると人通りは格段に少なかった。鮎沢はその人通りの少ない河原町を、まるで建物の影に隠れながら移動する鼠のようにこそこそと人目を気にしながら歩いて行った。鮎沢は自分の存在感を打ち消すことに全力を挙げた。高倉で市バスを降りた鮎沢はそのようにして四条河原町の方へと歩いて行ったのである。四条通りを歩きながら、時々、路地を一本入っては獲物を物色した。河原町までそのようにして歩いたが、特に何物にも関心を覚えずに過ぎていった。河原町から京極の方に入ってみたが同じであった。そして錦市場の方に出た時である。鮎沢は一人の男の存在に気付いた。

 その男は背が低く、後ろ姿はまるでダンゴ虫が体を丸くしたのによく似ていた。実際、その男は体をやや前方に丸めていた。そして何やら大事そうに鞄を抱えていた。男が被っているシルクハットが体を丸めて歩くその男に珍妙な味をつけていた。鮎沢はその男が抱えている鞄に目を付けた。それは余程大事なものらしく、両手でしっかりと握られていて、まるで確実にやって来るであろうひったくりに備えているようだった。鮎沢はますます関心を持った。鮎沢はそのような観察を続けているうちに、その男に何か違和感を覚えた。それはその男の歩調である。その男はどこかふらふらとした足取りで、一定せず右に逸れたり左に逸れたりとする度に、自分でも足取りの悪さに気付いたのか道の真ん中を歩こうとするのだが、結局は左右に逸れることを繰り返しては危うく他の通行人にぶつかりそうになりながら歩いているのである。

 『酔っ払いか』

 鮎沢はこう判断した。『コロナが流行っているというのに一杯ひっかけてきやがったんだな?すると懐に抱えているのは何だ?金か?』鮎沢はここまで思考を展開した。鮎沢は男の後を尾けて行った。男は富小路まで来るとそこを南に下り始めた。街の灯りがどんどん遠のいていった。

 『チャンスだ』鮎沢は思った。『チャンスだと?一体何がチャンスなのか。ああ、俺は本当に強盗をするつもりなのか?そんなことをして何になるというんだ。ただ、ほんの二、三日食いつなげるだけじゃないか。それを俺は、本気で…?あれ、あの男がいない。消えてしまった!見失ってしまうなんて俺はなんて馬鹿なんだ。どこだ…どこにいる?この通りを左に曲がったように見えたが…あ、いた、いたぞ』

 男は相変わらずの千鳥足でふらふらと歩いていた。鮎沢は男の横を走って追い抜くと次の曲がり角に潜んで男の様子をうかがった。男はシルクハットを目深に被り、例のふらつく足取りで鮎沢の方に向かって来た。鮎沢は曲がり角の物陰に隠れて目の前を通り過ぎる男を見ていた。男の顔は夜の暗さと帽子のために判然としない。しかし、男の身長は先ほど鮎沢が思ったのよりも低いことが分かった。年齢も若くもないがそれほどの年寄りでもなく、四十代といったところか。鮎沢は物陰から焼けるような視線を男に送りながら、ついに決心した。

 決意した鮎沢は、先ほどとは全く違う確かな足取りで男の後ろを追いかけた。男との距離が段々と縮まって来る。三十歩、二十歩、十歩、七歩、五歩、三歩…。とうとう後ろの気配に気づいた男が振り返った。鮎沢は反射的に男の左頬を殴った。男は声にならない叫びをあげると、どさりとしりもちをついた。男はそれでも鞄から手を放そうとはしない。鮎沢は男の右腕を蹴り飛ばした。男は鞄から右腕を離した。鞄を握っているのは左手だけになった。鮎沢は両手で掴んで男から鞄をひったくった。その時、男は腹の底から凄まじい声を出した。この声には鮎沢も一瞬戸惑ったが、今や鞄は鮎沢の両手の中にある。叫ぶ男を残して鮎沢は思い切り走った。走って走って走りぬいた。夢中で走ったので今どこをどう通っているのか分からなかった。ただ、走っている最中に、例の側溝に落として傷めた脚が痛まないのに気付いた。どうして今の、このような恐ろしいことをして逃げている時に、そのような下らないことに考えが至ったのかは不思議だった。そしてこの時、鮎沢の頭をかすめた思考はこのことだけであった。さすがに走り疲れて立ち止ると、少し先に賑やかな通りがあった。鮎沢は、七条の、それも京都駅に近いところまで来ていたのである。鮎沢は思いもかけず現場から遠いところまで来たことを知って、安心の余りそこで十分近くも過ごしていた。警察のサイレンは聞こえて来ないかと鮎沢は耳をすました。そういった音は聞こえて来なかった。街は変わらず静かなままだった。鮎沢は再び歩き始めた。すると前方から二人の若い男女が近付いて来た。


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