喫茶店と老人②
ふと、今言われたことが理解できずに素っ頓狂な顔を浮かべてしまった。大変失礼なことをしてしまったと思う、すぐに顔をいつもの営業の顔に変えて口を開く。
「おひとつでよろしいでしょうか?」
黙って、しっかりと老人は頷いた。腕を組んで、複雑な表情で目を伏せている。それを見た若頭は嬉しそうで、少しだけ寂しそうな顔を浮かべたのが見えた。
喫茶店にはマナーがある、距離感だ、客と店員は家族でも何でもない、友人でもなければ何でもない、客とマスター、ただそれだけだ。見知らぬ他人、真っ赤な赤の他人というほどではないけれど、決して距離が近いわけではない。普段の自分を忘れて幸せに、ありのままの自分で過ごす、深く踏み込んだことは聞くものじゃない。
だからこそオムライスを頼もうがなんだろうが、複雑な顔を浮かべていようが私から何かを聞くことは無い、ないのだけれど。
「オムライス、好きなんですか?」
「......あまりハイカラなものは好まん」
気難しそうな顔でやはり老人は目を伏せている。まずったかなと、少し思うが不快そうな顔や雰囲気は無い。どこか懐かしむような、そんな暖かいものが感じられる。踵を返して冷蔵庫から玉ねぎ、マッシュルームに鶏肉、パセリを取り出してボウルの中に入れる。
たまに野菜の大きさなんて均等でなくても問題ないと語る人もいるが、そうではないだろう、と思う。例えば今皮をむいた玉ねぎ一つをとってもそうだ。切れ味のいい包丁はすらりと豆腐を切るかのように玉ねぎを裂いて、瞬く間に一センチ四方の玉ねぎの山ができる。大きさが一緒であれば口当たりもいいし、火の通し加減も均等にできる、そうすることで100ぐらいのクオリティが103ぐらいにはなる。紅茶と同じで、100にするのは多少慣れていれば簡単なのだけれど、それ以上先へと進むのに必要な労力は桁外れだ。
そういえばと思い出して、炊飯器を開けば熱い熱気と共に炊き立ての米がその艶を輝かしていた。ふっくらと炊いた米はどうしてここまで美味しそうに見えるのだろうか。主食に米を、おかずに米を、そんな食べ方ができるお米は本当に美味しくてしょうがない。
炊飯器を閉じて、左手でサラダ油が入った瓶をとる。手になじむ感覚があって、蓋を親指で開いてフライパンに少々。右手でコンロの火をつければごうごうと換気扇が回り始める。叔父さんが買ってきてくれていた鶏ひき肉を適量取り出して、軽くほぐすころには熱が回ってフライパンの上の油が滑らかに動くようになっていた。
程よい大きさに切ったマッシュルーム、玉ねぎ、ひき肉をフライパンに入れれば香ばしい匂いとともにジュージューと心地よい音が鳴り始めた。
「......いい包丁だ。随分と良い道具を使っている」
びくりと、お客さんが怯えたのが見えた、もしかしたら借金の取り立てにあってると思われたのかもしれない。叔父さんが借金してない限り大丈夫なはずだ、知らんけど。
「父が使っていたものを引き継いで使っているんです。その父も祖父から受け継いで、祖父も曾祖父から。もっと大きな包丁だったんですけど、研いでいくうちにもうこんな細さになってしまって」
「それはいいものだ。大事にするといい」
「どうも。きっと父も聞いたら喜びますよ」
もう死んでしまったのだけれど、なんて余計な言葉はいらない。大事な道具だ、伝え聞いた話では、祖父は料理人になれという曾祖父が嫌で逃げたそうだ。紆余曲折あって和解してバーを開き、その時に曾祖父から仕事道具を受け継いだんだとか。十年ぐらい前に爺さんは死んでしまって、父さんは会社員の道へと進んで、叔父さんはバーを受け継いだ。
その時に道具も半分ずつ父さんと叔父さんで分けたらしい、今はこうしてこの店に全部集まっているのだけれど。
こうやって褒められて悪い気はしない、父さんや爺さんが受け継いできた歴史をほめられたようでうれしく思う。
雑談の合間もフライパンの中の具材を丁寧に炒めて、調味料が入った戸棚から砂糖と醬油をとって目分量で入れる。どうしてこう醤油が熱しられて醸し出される香りはこうも美味しそうなのだろうか。
軽く味付けをした具材を少し口に含んで味付けを見て、ちょうどいい濃さになったのを見て炊飯器から米をとりフライパンに入れた。すぐに調理し終えるので、暖かい米出なくてはいけない、あまり炒めすぎると具材は焦げてしまうし、余計な味が含まれてしまう。と、いうのも父さんからの受け売りなのだけれど。
できるだけ固まっている米をほぐしぱらぱらとするように適度に混ぜて、具材と米がぱらぱらと踊り始めたら自家製ケチャップの入った瓶を手に取り適量をスプーンですくい、フライパンへと投下。テキパキと具材や米と共に混ぜ合わせればすっかり白い米は橙色へとその色を変えていく。全体にいきわたるように丁寧に炒めれば、これだけでも食べてしまえそうなケチャップライスの出来上がりだ。あらかじめ用意しておいたボールに移して、火を切る。
ここまでくれば九割がた終わったといっても過言ではない、これからすこし慣れが必要な動作になるけれど、後は早いものだ。
少し多めの油を小さめのフライパンに入れて強火に火をつける。多めと言っても揚げ物をするような量ではないけれど、少なくはない。
卵を二つパックから取り出して、手首をしならせ、カウンターに充てれば軽快な音を奏でて殻が割れ、黄橙色の黄身がその美しい実を覗かせる。卵かけご飯も魅力的だ、魅力的だけれど今じゃない。
二つの卵が鎮座するボウルに箸を入れて、手際よく混ぜていく。気泡が極力できないように、慎重にけれど素早く。白身と黄身が混ざり合い鮮やかな液体となればオムライスまであと数分もかからない。
温めておいたフライパン、油の入ったそれを軽くキッチンペーパーで拭いて適量にした後、ボウルの中の卵を丸く広がるように流し込んだ。すぐに熱されて入れた端から火が通り始める。間髪を入れずに箸で卵をかき混ぜればふんわり卵まであと少し。端のほうを箸で少し浮かしてからボウルに入れたケチャップライスを程よい形に落とし、しっかりとフライパンの柄を握る、ここからが本番、斜めにしたフライパン、握る手と柄の間を空いた左でてたたけばすこしずつ、けれど確かに卵の幕がケチャップライスにまとわりついて、ゆっくりと、それを覆っていく。
まさに瞬きをするほどの時間が経つ頃にはフライパンの上に奇麗なオムライスが一つ鎮座している。陽の光に照らされてきらりと表面が光を跳ねた。あらかじめ用意しておいた皿にのせて、軽く洗ったパセリを隣に一つ。卵の上にケチャップをかければ今度こそ完成だ。
「どうぞ、オムライスです」
見ればわかるだろうなどとは言わないでくれよと願う、若干緊張するのだ。この老人は悪い雰囲気ではないけれど、容赦はなさそうだ。
若頭は素早く懐から黒い箱を取り出し、それを開けば上等な食器が姿を現した。マイ食器を持ち歩いているのか。精巧な彫刻が施されており、明らかに高いものだろうと予想がつく。老人はやはり感慨深そうにそれを数秒見つめて、スプーンを手に取り、オムライスを裂けば程よく熱された卵がふんわりと溢れ出す。香ばしいケチャップライスの香りに柔らかな卵のにおいが混ざり合って心地のいいものだった。
固唾をのんで、私は老人が口に運ぶのを見守っている。サラリーマンの人はパソコンのキーボードを叩いている。漫画家先生はおなかを鳴らして恥ずかしそうにしている。ちらりちらりと常連さんが見守っている。若頭は私の淹れた紅茶を口に含み美味しそうにメレンゲを食べている。
口に含み、貫禄のある動作で食べた老人はやはり複雑そうな表情を浮かべて、小さく口を開いて。
「美味い」
また一口、また一口、老熟した男性とは思えない速度でオムライスを口に運んでいく。本当に美味しそうに、頬をほころばせて食べていく。
「また、食べられるとは思わなんだ。味は変わっちゃいるが、面影がある」
「面影、ですか?」
「次郎さんの、な。おまえさんの曽祖父だ。まだ儂がガキだったころに食わせてもらったことがあるが、そうか、オムライスはこんな味だった」
心の底から言葉を吐き出すように、感慨深げに老人は笑う。
「浩二も、浩三もつくりゃあしねぇ。おまけに次郎さんの店も東京のほうに行っちまったとなっちゃくえねぇ。だから、本当に懐かしい」
「曽爺さんと面識があるんですか?それに叔父さんとお父さんの名前を」
「ああ。しょんべんたれのガキの頃から面倒を見てる。次郎さんへの返しても返しきれねぇ恩を返すために」
「そう、ですか」
いったいうちの曽爺さんは何をすればこんなその道の人、それも組長っぽい人と知り合うのだろうか。年齢を考えればこの人が子供ぐらいのときにあったのだろうか。面識があるかと考えてみるが、やはり記憶のどこにもない。もしかしたらこっちの世間体を考えて会っていなかったのかもしれない。もしくは、叔父さんのバーとか。
老人は穏やかな顔で口角を上げ、懐に手を入れて。
「鏡花、といったかのう、代金はいくらほしい、好きな額を言うといい」
人生でこんなセリフを聞くことがあるとはと、若干感動と恐怖をして、メニューに書かれた値段を見て。
「お代は四百二十円になります」
定価だ、だってこの老人がどういう立場の人なのかとか、どういう人なのかとか全く知らないのに下手なことは言えない。あまりにも何も考えずに即答したせいか老人は小さく「そうか」とつぶやいて懐の財布をしまった。かなり厚く見える、いくら札束が入ってるかなんてわかったものじゃない。オムライスに何万払うつもりだったんだこの人。
どうやら半分ぐらいは冗談だったらしく、老人は口角を上げた。
「儂は今日気分がいい、これを受けとれ。見えるところに置いとけば馬鹿な連中が悪さをしないだろう」
老人が取り出したのはお猪口だった、とても質のいいもので家紋のようなものが描かれている、若頭がぎょっとした顔を浮かべた。
「オヤジ!こんなガキにソレを渡すなんて」
血相を変えてそういった若頭へと一瞥もくれずに、老人は杖を床につき、音を鳴らした。
「こんなガキとはなんだ、儂が認めた。それで構わないだろう。黙っていろ」
背骨が凍り付いてしまいそうなほど冷たい声で老人は吐き捨て、若頭は青ざめた顔で椅子に座りなおした。
こんな空気になってしまっては受け取れないなんて言えなくて、老人が差し出したお猪口を両手で丁寧に受け取り、「ありがとうございます」と一言言った。
それからというもの、老人は気さくに話しかけてきた。いつオムライスを食べただとか、組の若い連中に示しがつかないから食べられないだとか。お爺さんはどういう人だったかとか、話せばきりのないもので、様々な話を本当に楽しそうにしていた。
一時間ほどが経った頃に、外に止まっていた黒塗りの高級車から明らかにその道の人が店に入って、老人に耳打ちした。ひどく残念そうな顔を浮かべると老人は席を立って頬を緩めた。
「また来る。次はハンバーグを頼む。浩二か、もしくは爺さんに教えられとるだろう?」
「ええ。腕によりをかけて作りますよ。またのご来店お待ちしております」
どっと、肩の力が抜けるのがわかった。笑い声をあげながら老人は店を出て、黒塗りの車は五分もすればどこかへと消えていった。
ここ最近で一番緊張した、体中の力が抜けるような気分だった。
若頭が座っていた場所、その前のカウンターには多めの代金が置かれていて、悪い人たちではなさそうだな、そうだといいなと願っておく。それにしても初めて曽爺さんとか、爺さんの話を他人から聞いた。随分と偏屈で交友関係がひどく狭いものだと思っていたけれど。
さっきからずっとちらちらこちらを見ていた常連さんが席を立ってどっこいしょとカウンター席に座った。そして顔の端を強く握りしめて引っ張れば皮のようなものが外れて見慣れた中年男性の顔が現れる。その顔はまさしく叔父さんのもので、今朝ふらっと友達にあってくると出かけた人だった。
「もしかしてこうなるの知ってたの?」
わざわざ特殊メイクを生業としてる友人に会って変装して。普通の常連さんたちは変装を解くのを見て何故か興奮してる人もいれば驚いてる人もいる。そりゃあ驚くだろ、普通の人は変装なんてしないもの。
「どうなるかと思ってたが無事に終わってよかった。お前ならどうにかすると信じていたぞ」
「知ってたのか......」
「否定はしない、ただあの人は仮に俺が何か言っても確実に来た、むしろ興味津々になってな」
「むぅ」
それでもいきなりその道の人が来たら怖いし、驚くものだろう。仮に知り合いだと教えてくれていればまだ何とか覚悟をしてショックを受けれた。もう終わってしまった話なのだけれど、それでもおもうところはある。
「そういうなって、今度いい茶葉買ってきてやるから」
「やったー叔父さん大好き」
「手のひら返しの早さはあいつそっくりだな」
はぁ、と深く叔父さんはため息を吐いて。
「夜のために俺はもう寝る、じゃあな」
千鳥足で二階へと歩いて行ったのであった......。
なんとなくやるせないというか、なんというか。いくら言ってもしょうがないので、ここは大人っぽく考えないことにした、した。