表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/26

喫茶店と老人

「すごい久しぶりに鏡ちゃんが淹れる紅茶を飲んだ気がするわ」


 丁寧に質のいい茶葉からつくった紅茶は美しく琥珀色に輝いている。白い湯気が陽炎のようにゆったりと弧を描いで宙に消えてゆく。ほのかに喫茶店を満たす深みのある香りは心地のいいもので、肺の奥底から満たされる気がした。やはり紅茶はいいものだ、そう思いながら彼女ーー内山水月を見る。


 先日久々に再開して、すぐに失望させてしまって、もう来ないと彼女は言った、言っただけだった。なんせ彼女は今もここにいる、私の悲しみを返せと言いたい、もちろんからかわれるので言わないが。お別れとはいったいなんだったのか。もちろん私は喫茶店のマスターお客さんとしてきている彼女にどうこう言う気はない。


 ないのだけれど。


「そりゃあもう一年ぐらいになるだろう。しょうがないさ」


「そうね。時間がたつのは本当に早いわね、冬が来たかと思えば、いつの間にかもう夏だもの」


「まあいいじゃないか、腹を出して寝ても風が引かないぞ」


「私はおなか出して寝ることなんてないわよ」


 そういうならそうなのだろう、けれど私はしっかりと覚えている、彼女がおなか出して寝てしまって体が冷えたと朝に文句を言っていたことを。通学路で人の手を湯たんぽ代わりにして抱きしめてきてつい腹巻でもすればと言ってしまって機嫌を損ねたことを。


 もう私がこの喫茶店に引きこもってから一年がたつのかと思うと、感慨深いものがあった。こうやって幼馴染と二人で話をする機会というのも久しくなかった。懐かしさとか、楽しさとか、複雑な感情が溢れてくるものの不快なものではない。


 彼女はここ最近のところ放課後に来て紅茶を頼み、適当に世間話をしたら帰っていく。あの日の出来事以来店を出るように促してくることは無かった。いろいろと悩んで、考えて、私のことを考えてくれてるのだろうーーあっ、熱いって言って舌出してる、あの癖まだ変わってないのかおばかさんめ。


 彼女はそっとカップを置いてグラスに入った水をあおって、何かを思い出したのか口をそっと開いた。


「そういえばそろそろ夏祭りね、この喫茶店回りも騒がしくなるんじゃない?」


「あー確かにな、去年はほとんど家に籠ってたから覚えてないけど、結構人通り多くなるもんだしな」


「そうそう、その時間も空けていれば結構儲かるんじゃない?」


 ちらりと閑散とした店を見回して彼女は笑った。今店にいるのは漫画家先生と宝石細工をいじる老人だけだ。もうそろそろ店を閉める時間という言い訳もあるのだけれど、正直に言って経営は芳しくない。確かに夏祭り、屋台や花火を見た後で、すこしゆっくりと時間を過ごしたいと思う人も一定数いることだろう。なのだけれど。


「いや、あんまりなれないことはしないほうがいいだろうしやめておくよ」


 欲を出して普段しないことを始めないほうが賢明だろう、うちはうち、よそはよそだ。


 水月はあなたがそういうならいいのだけれど、と言って紅茶を飲んだ、今度は若干温度が下がっていたらしい、涙目になってない。


 店じまいまであと一時間、若干それよりも長く開いていることだろうけれど、この時間になるとほとんどお客さんは来ない。来ないのでこうやってドアが開いてドアベルが客の来訪を知らせるのはとても珍しいことだった。視線をちらりとむけて、いらっしゃいませといえば今日もいつもどおり彼女は笑って。


「こんばんは。まだ空いてますよね?」


「もちろん、今日もお疲れ様」


 ドアをそっと優しく閉じて大島さんは柔らかな笑みを浮かべた。


「学校?」


「はい、いろいろと手続きがあるらしくて、担任になる先生とお話をしたり、書類を出したり。今年の夏休み前には学校に通えるようになるそうです」


 本当にうれしそうに彼女は笑ってカウンター席に座った、水月から一席開けていつも通りその日の気分で決めたらしくアールグレイを注文した。


 本当に良かったなぁと思う、心底幸せそうに彼女は笑って今日何があっただとか、いろいろと話し始めた。普通のことが、だれもかれもが何気なく見ているものが彼女からすればとても新鮮でうれしいものだという。こうやって幸せそうに、本当に楽しそうに話す彼女を見ていると胸の底が温かくなる気がした。


 黒猫を撫でようとしたらしょうがないなぁって感じで近づいてきて撫でさせてくれたと、笑ったところで、そういえばと私も今日のことを思い出して話をそっと始める。


「珍しく普段見ないお客さんが来たんだ。すごい渋いおじいさんで、若頭っぽい人と二人で来てた」


「若頭?」


「私が勝手にそう呼んでいるだけど、なんとなくそんな言葉が似合いそうな気さくな人」


「......白いスーツの?」


「?そうだけど?」


「そっそうですか、へー、珍しい人もいたものですね」


「もう一人のおじいさんは竜司って名前の人で」


 ごふっと、変なところに入ったのか大島さんがいきおいよくむせこんだ。それを見て何故か水月が苦笑いを浮かべた。


「大丈夫?」


「えっええ、大丈夫です。それでその人、竜司さんはそう呼ぶように言ったんですか?」


「そうだけど。それと変な客が来たらこれを見せろってなんでかおしゃれなお猪口をくれてね」


 本当に、今度こそ本当に頭痛が痛いとでも言いたげな様子で大島さんが額を押さえて深くため息をはいた。どうしようもない、よくわからないので私は首をかしげることしかできなかった。何故か疲れ果てた様子の彼女を見て、私は今日の少々不思議な、それでいて可愛いおじいさんのことを思い出すのであった。



 ーー



 常連さんというのは喫茶店からすればとてもありがたいもので、仕事の合間や休日、その貴重な時間をいつもの席でいつものように過ごそうとする人々は収入的にも、雰囲気的にも頼りがいのある存在だ。例えば閑散とした喫茶店よりも、だれもかれもが各々のやりたいことを励んでいるほうが、他人というか、顔見知りというか、何とも言えない心地よい距離感がたまらないのだ。


 いつもあの辺にはあの人が座っているなとか、あの人は漫画家さんなのかなとか、様々なことを考えたり、たまに会話を挟んだりして関係を築き上げていく。だからこそ謎の連帯感があるし、変な客に絡まれていたりすると助けに入ったりと穏やかでいいものだ。


 おだやかでいいものなのだけれど、今日ばかりはその連帯感がマスターである私を見捨ててそっぽを向いてしまっている。具体的に言えば店に入ってきた明らかにその道の人ーー時代劇に出てくる組長みたいな人に若頭っぽい人、店の前にとまった黒塗りの高級車、雰囲気はまさにドラマから抜け出してきたワンシーンのようで。


 老人はまさに極道というべきか。筋骨両量とした肉体で、独特の若さというか、鋭さを保っている。四十代と言われても信じられるし、七十代と言われてもそうなのかと納得できる、そんな不思議な雰囲気の人だ。手に持った杖、使っているようには見えなかったけれど、それから若干歳を取っていると思える、思えるだけだ。


 方や若頭っぽい人は楽しそうにあたりを見回している、どこか貫禄のある人で、白スーツにトラ柄のシャツが妙に似合っている。サングラスを頭にずらしてたばこの香りが若干する。メニューを開いて何故かメレンゲに反応していた、ギャップ萌えか。


 そしてその組長と若頭っぽい人は何故かカウンターによっこいしょと座り、鋭い視線は他のお客さんのために紅茶を淹れている私を突き刺していて。そしてそれを察してお客さんは足早に撤退する人もいれば、いつものサラリーマンの人とか、黙々と執筆に励む漫画家先生とかはガン無視だ、事態に気づいてないまである。


 と、いいながらも私は普通に紅茶をいれている。特に反応することもなく、怯えることもなくただ淡々と私は仕事を続けている。なんせ極道だ、そりゃあ物珍しいし怖いといっても嘘じゃない。けれどその前に、大前提としてここは喫茶店。仕事とか、家柄とか、そういうのを考えずに誰もが休める場所ーーそう、私は思う。


 だからこそカウンターに座り、突き刺すような視線を向けてくる二人組を全然気にしちゃいない、無いったらないのだ。


 体に染みついた動作に習って紅茶を入れ終え、お客さんのもとに運ぶ。窓際に座るサラリーマンの人が注文したもので、濃い目に出したアールグレイ。この人は毎日これを頼む。そっと机に置くと、ありがとう、と一言サラリーマンの人が会釈しすぐにパソコンに視線を戻した。


 ちらりと振り返ればやはり二人は私を凝視していた、いや本当に何故だろう、服が乱れているのか?今日着ているのはリッタ先生が持ってきたシャツにズボン、若草色のエプロンだ。髪の毛は面倒だったので適当にポニーテールにしてまとめている。どうしてこんなに見つめられるのだろうか、いや待てよ。


 カウンターに戻り、メニューを開いていた二人にいつも通り、ほかの客にするように問いかける。


「ご注文はお決まりでしょうか?」


「......ふん」


 いや待ってそれはよくわからないのだけれど。ものすごくむすっとした顔というか複雑な顔で老人は両眼を閉じて腕を組んでしまった、返事はない。

 ちらりと隣に座る若頭っぽい人に視線を向ければもうとっくのとうに決まっていたという様子で、メレンゲに指をさして。


「このメレンゲってやつと何か酒をくれ、氷は入れなくていい」


「お酒は残念ながら扱っていないんですよ、なんせ喫茶店なので」


 看板にも喫茶店ときちんと書いてある酒場と勘違いしてないよね大丈夫だよね。くだらない焦燥が背中を駆け巡って落ち着かない。けれどこちらの警戒とか、緊張とか、我関せずといった様子で若頭っぽい人はちょっと残念そうな顔をして。


「じゃあこのメレンゲってやつと適当におすすめの飲み物をくれ。値段は考えなくていい」


 やはりメレンゲなのか。流行っているのだろうか、パプリカとか果物が流行って次はメレンゲか私の時代か。そんなわけはない。もう一度老人のほうを見るが腕を組んで静寂を守っている。


「ご注文をお確認させていただきます、メレンゲにおすすめの飲み物、ご注文は以上でよろしいでしょうか?」


「ああそれで頼む」


 格好良さと渋さの混在する顔で若頭は頷いた。老人はやはり静かに座っている。どうしたらいいのかわからない、わからないのだけれど別に私からできることは何もない。


「そういえば店員さん、ここで働いているのは君だけかな?」


 コンロに小鍋をかけたところで、若頭っぽい人が聞いてきた、ポイ人っていうのも長いし若頭でいいや。


「そうですけど?あっちなみにバイトは雇ってませんよ」


「別に働き手を探しているわけではないさ。じゃあ君が......」


 最後のほうが若干独り言チックで聞き取れなかったけれど楽しそうなので聞き返すのも野暮だろう。自分に言ってる感があったし、下手に聞く必要も理由もない。おすすめの飲み物と言われたので、先日かったイングリッシュブレークファーストのいい茶葉が詰まった缶を取り出して、戸棚を閉めた。


 それにしても、最初はてっきり悪い人かもしれないと思ったけれど、そうでもないらしい。他人に迷惑をかけるような人ではないし目くじらを立てる理由も目的も見つからない。危ない人じゃなくて良かったと思わず安堵してしまう。


 程よく温まって、五円玉サイズの泡がふつふつとあふれ始めたのを見計らい、熱湯を少量カップですくって二つのティーポットに入れる。いつも通りしっかりと温めて、程よい温度となったテーポットに缶から救った茶葉を適量入れて熱湯を注ぐ。水の流れと熱に巻き込まれてまるで踊るように茶葉がふらふらと揺れ始める。


 視線を感じて、何だろうと思ってみれば老人がじっと、こちらの手元を見ていた。気づかなければなんとも思わなかったけれど、こうやってみられているとなるといろいろと心配になってくる。


 手が震えそうになるのを別のことを考えて気をそらして、このタイミングでメレンゲの入った瓶を戸棚から取り、七つ菓子皿に乗せる。それと同時に深みのある橙色の液体を茶越しを載せたもう一つのティーポットにゆっくりと注いで、イングリッシュブレークファーストの出来上がり。さっぱりとした香りが鼻腔をくすぐり、すっかりと緊張感など何処かに消えていた。


 カウンターで一連の動作を見ていた若頭の前に置いて洗い物に戻ろうと思ったタイミングだった。


 ふと背後から、どすの利いた声で。


「オムライスを作ってくれるか」


 老人の口から、そんな言葉が吐き出された。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[気になる点] そうですけど?あっちなみにバイトは雇ってませんよ」 「別に働き手を探しているわけではないさ。じゃあ君が......」 ------------- 働き手→人 とした方が良いのでは…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ