喫茶店とラッキースケベ
「疲れた……」
ベッドに転がれば今すぐにでも寝れそうなほどの疲労が溜まっていた。
昼夜逆転生活を一日で治そうとするとこうなる、わかってはいたのだけれど、夜に起きて朝に寝る生活をしていた自分からすると朝に起きて夜に寝ると言うのはひどく辛いものだ。
その上今日のバイトは……
『あぁ?にいちゃん声が小さすぎてききとれねぇよ!』
『えっあっすみません』
だったり。
『ねぇ店員さん注文まだ来ないんだけど!?』
『あっいや、その、今人が多くて……』
『私もう十分ぐらい待ってるんだけど!?約束に遅れたらどう責任とってくれるのよ』
だったり。
『君、新しく入った子?あの赤い髪の毛の子を見習ってもっと頑張りなよ、注文何回間違えれば気が済むのかな?』
『……すみません』
『すみませんじゃぁーー』
だったり。
しかもそうやって自分が問題を起こしたり、客の対応ができない時に毎回青山さんは調理する手を止めて、他の作業をやりながら仲介し、自分のために頭を下げていた。
最初の客には、申し訳ございません、何かお困りでしょうか。え、声が小さい?すみませんバイト初日の子なので不備などがありましたら申し訳ございません。
と、言って客の溜飲を下げたり。
お待たせしました、こちら注文のアールグレイとトースト。それとこちら遅れたお詫びです、申し訳ございません。何分今大変混んでおりまして。
そう言いながらメレンゲの乗った皿を出して。
すみません、バイト君今日が初日でして。まだまだ至らない点ばかりだと思いますがもう少し仕事ができるようになるまでお時間をいただけると幸いです。バイトの教育をしているのは自分ですから、責任は自分にあります。申し訳ございません。
ペコペコと頭を下げる姿を見て、自分も頭を下げて。
忙しいんだからしょうがないじゃないか、客だって多い、外には他のお客さんも並んでる。
こっちは全力で急いでいるんだから文句を言わないでくれよ、理不尽なことを言わないでくれよ。バイト初日なのになんで上から目線でそんなこと言われなくちゃいけないんだよ。
自分だって少しは仕事をしたはずだ、注文を取り、接客し、会計し、それらの作業をしたのだから、あんな理不尽な文句を言われる筋合いなんてないだろう、こっちはバイト初日なんだから……。
ーー申し訳ございません。
青山さんの、頭を下げる姿と、謝る声が脳で木霊して。
自分に非がないのに、彼女は俺がミスをしたから頭を下げて、客に対応をしていた。理不尽な客もいた、けれどそれは元を辿れば俺のせいだった。注文を間違えたり、会計でミスをしたり、うまく声を出せなくて、何度もお客さんに怪訝な顔をされて。
少なくとも、青山さんは何も失敗していないのに、俺のミスをカバーするために自分が頭を下げて客に謝って。
酷く惨めで、自分自身が情けなかった。
本気を出せばどうにかなると思っていた。本気を出せばある程度のことはできるだろうし、こんな喫茶店の接客ぐらいできるだろうとたかを括っていた。けれど結局出せもしない本気なんてものは最初から存在していなくて、伸び切ったゴムのような日々を送っていた自分には何もない。体に力こめてこなかった人間が、ふと昔のように力をこめたところでそんな力はとっくに無くなっていて。
俺はただの情けない、言い訳しかできない惨めな引きこもりのままだった。
枕に顔を埋める。
バイト初日だ、それは言い訳ではなく理由だ。できない理由には十分だし、青山さんも初日からできるはずがないし、最近は特に忙しいからと、言ってくれた。
けど。
「青山さんの頭下げてる姿、すごい嫌だった……」
青山さんの頭を下げる姿と父が土下座する姿が重なって、どうしようもなく胸が締め付けられて。
「働くのって、こんなに大変だったんだな……」
絆創膏が巻かれた手を握りしめて。
「逃げたら、きっと俺はダメになる」
逃げて逃げて逃げ続けて。結局辿り着くのは袋小路だ。現実に袋の鼠にされて、どうすることもできなくなる。
今がきっと人生の踏ん張りどきだと思う。後悔しかしてこなかった自分が立ち上がって、道に戻れるかどうかの。
情けないクソ野郎がだったとしても、せめて努力して、逃げなければ凡人ぐらいには戻れるはずだ。
だから。
「逃げたらダメだ」
時計が鳴る、八時を知らせるものだった。
そういえばまだ風呂に入ってないなと思い出して、青山さんが要してくれた着替えを持って風呂場に向かった。
廊下を一歩一歩確かに歩きながら、決意新たに俺は前に進める気がして、ドアノブを捻り風呂場のドアを開く。
「ん?」
「あ」
たった今シャワーを浴びて出た所だったのだろうか。水滴に濡れた美しい赤い髪が肩口から鎖骨をなぞるようにその柔肌に張り付いている。手に握られたタオルが秘部を隠してはいるが、控えめな膨らみの胸部から覗くピンク色の突起がくっきりと視界に映る。鎖骨を撫でるように転ぶ水滴、温まった白い、雪のような柔肌が艶かしく火照り朱色に染まっている。彼女の美しい碧眼がパチクリと閉じて開いて、上気した顔からポツリポツリと粒となった汗が胸元へと落ちていった。
そこには間違いなく、風呂上がりの青山さんがいた。
床に吸い込まれるように落ちて行った水滴が、酷くゆっくりに見えた。
慌てて扉を閉じて、自身の浅はかさやら注意力の無さとか、情けなくも覗きによって膨らんだ股間に自責やら羞恥やら、取り止めのない感情が溢れかえり言葉が出てこない。
タオルで秘部は隠れていたけれど、鮮明に網膜に刻まれた桜色の突起が体温を跳ね上げる。
ああ、理解した、ラッキースケベなんて碌なもんじゃない。これはもうバイト生活は終わりだ。
せっかく働くチャンスを、更生するチャンスをくれた浩二さんを裏切るような行為だ。大切な家族である少女、青山さんの風呂上りを覗くなんて、恩を仇で返すような真似。人としても最低だし、言われようが大人しく受け入れよう。
腹を切と言うならば切るし、首を吊れと言われたら吊ろう。
目をひらけば先ほど風呂場を開けた時に溢れた湯気が視界に移り、肌色の映像が脳にフラッシュバックする。
顔が真っ赤になるのがわかる、何がわかるだと自分自身の脳みそが激昂してるのもわかるし、その映像で興奮する輩もいる。そして俺の脳みそは後者に傾いていた。
風呂場からはゴソゴソと音が聞こえる、着替えているのだろうか、体を拭いているのだろうかーーと、考えたところでまた彼女の姿が脳裏に過ぎって。
「えっと、どうしたのそんなに慌てて?」
扉が開く音ともに、ネグリジェのような寝巻きに着替えた青山さんが出てきた。
髪はまだ水気が残っていて、その長い髪を乾かすためか薄手のタオルを首にかけている。先ほど強烈に視界に残った首筋から鎖骨、そしてその胸元までのラインは寝巻きで隠れている。ふと、そうやって視線を送っている自分に気がついて、罪悪感と性欲に類似する感情が膨れ上がるのがわかる。
「そんなとこで座り込んでると風邪ひくよ?風呂空いたから入ってきなよ」
けれどそんな自分とは裏腹になぜか彼女はほぼほぼ無反応に近くて。自分と彼女の温度差に風邪をひいてしまいそうだ。ぽんぽんとタオルで髪を撫でるように拭きながら、自分の部屋に帰っていった。
帰って行ったのだけれど、いやでも、異性に風呂上りを見られたのに、ああ言う反応なのか?
もしかしたらものすごく怒っていて、言葉も出なかったのではないだろうかと、思い胸に罪悪感が残った。
ーー
「それにしても変な反応だったな」
バイト君の反応がいささか極端だったように感じる。部屋に戻り、長い髪を乾かしながらふと思う。
雑に洗って乾かしていたらリッタ先生にしこたま怒られて、翌日には手入れの本とそれに付随する洗髪用品を編集さんが持ってきた。
やけに怒られたので今も続けているのだけれど、違いというのはやはり出るもので髪の艶と言うものが違う。
けれど、本当に。
「なんだったんだあの反応?」
別に同性に裸を見られたところでどうとも思わないだろうに。そりゃあ異性だったら問題だ、例えば私が大島さんの風呂上りを除いたりしたのならばーー
脳裏に浮かんだその姿に罪悪感やらなんやら複雑な感情が溢れかえってすぐに脳裏に浮かんだ光景を消し去った。リッタ先生の方はなんとも思わない、なんというかおかんな感じがする。むしろノリノリで髪の手入れをしてきたりしそうだなーぐらいにしか思わないのだけれど。
綺麗な銀髪に陶器のような危うさをもつ白い肌、普段はあまり肌を晒さない格好をしているだけに、その服の下を考えてしまうと、自分も男なんだなぁと思う。
服装や髪型はだいぶリッタ先生に毒されてるとはいえやはり中身は男子高校生なのだろう。
やましいふうに考えてはいけないとはわかるのだけれど、けれど妄想と言うのは自然と膨れ上がっていくもので。
「うん、寝よう」
少し早いけれど、電気を消してベッドに寝転んだ。
ラッキースケベ(尚特定の人物に知られると東京湾の藻屑にされる模様)
やっぱろまんですからしょうがないですよね




