喫茶店と、バイト君、時々銀髪少女
喫茶店の朝は早い、五時半ごろに起きて顔を洗って、軽食の準備をする。
朝は血圧が低いせいか、どこかだるくてやる気が出ないのだけれど、そうは言っていられない。最近は無駄に繁盛し始めたせいでキチンと食品を準備してお客さんに提供しなければいけないし、その量だって前に比べたら倍以上準備しとかないとダメだ。
紅茶の種類とメニューの数を削ったおかげである程度は楽になった、けれど地獄がちょっとマシな地獄になった程度でろくに休めないのは変わらない。
いつも通りのルーティーン、顔を洗い食パンを袋から出してトースターに放り込む。冷蔵庫から出したチーズにハム、新鮮なレタスを千切って置いて、トースターが音を鳴らしてパンを吐き出すと同時に一枚ずつ皿に乗せて二人分を用意。バターを塗り、軽く岩塩をかけてからチーズの出番だ。
そのままチーズを挟んでもそこまで味は変わらないだろう、最近のやつは結構美味しいし、そこまでダメなものは店で使わない。けれどバイト君からしたら今日は初日だ、飴と鞭の飴を与えるべきだろう。先輩としてある程度優しくある程度厳しくあらねばならない。
それはともかく、チーズの塊、と言っても小さく切ったものを鉄串で刺して、バーナーで溶かしていく。コンロの上、皿に並んだパンの上にゆっくりと、ねっとりとしたチーズがとろりと小さな水たまりを作る。香ばしいチーズの匂いにもうこのまま齧ってしまいたくなるけれど、ここは少し我慢。前もって準備しておいたハムとレタスをパンの上に並べて固焼きにした卵を乗せる。
階段を降りてくる音がして、視線を向ければバイト君がひどく眠たげな顔を浮かべていた。
ーー
『俺は一言も産んでくれなんて言ってねぇんだよ!クソババアとジジイがやることやって、性欲発散してできたのが俺だろうが!?なら最後まで自分達のしたことの責任を取れよ!?』
頬を全力で叩かれて、地面に突っ伏す。
生まれて初めて母に叩かれた、それが最初で最後の、母が泣いた日だった。
結局自分はすぐに言ってしまったことに気づいて、越えてはいけない一線を越えてしまった事実が胸を突き刺してきて。逃げるように部屋に篭った。自暴自棄になって、嫌なことがあって、どうしようもなくなって、けれどどうすることもできなくて。
突き刺すような朝日が瞼を貫いて、目を覚ます。
久しぶりにあの日の夢を見た。自分が引きこもった日、越えてはいけない一線を飛び越えたあの日。頭を殴りつけるような頭痛を感じながらも、すぐに鼻腔をくすぐる香ばしい匂いに気づいた。
久しぶりに食べ物の匂いがして、胃がけたたましい音をあげる。それもそうだ、ここ最近はカロリーメイトばかりでろくな食べ物を摂っていなかった。母さんは最近飯を作らなくなったし、最後に食べたそれっぽい料理は父さんがおいた睡眠薬入りの食べ物だった。
ーーそう言う状況になったのは、全部自分が悪いのだけれど。
家庭を壊したのは自分だ、その自覚も罪悪感も感じていた、感じていたけれどその罪悪感は結局胸に泥のように残っているだけで次第に鈍化していつの間にか乾いて何も感じなくなってしまった。
正直、すぐにでもこんな場所逃げ出したかった。異性と二人屋根の下といえば聞こえはいいけれど、彼女にはどうか自分の外道でクズな部分を見て欲しくないと思う自分がいる。嫌われたくない、と言うのが本音だった。俺みたいな人間が何主人公気取ってんだとか、色々と痛々しいし、自分で自分が心底憎らしい。
けれど自分には逃げ出すぐらいの勇気もなくて、言われた通りに喫茶店の制服に着替えて下の階に降りた。
「よく眠れた?あえて聞くけど」
「いえ……あまり……」
自分の目の下をこする、クマになっているのだろう。昨日は考え事ばかりでろくに寝れなかった。その上、母の夢を見るときは大体寝不足になる。机を見やれば香ばしい匂いを放つトーストが皿の上に乗っている。彼女はもうすでに席についていて、その向かいには同じ物と、椅子が置かれている。
「その、それ、用意してくれたんですか?」
「ん?うん、そうだけど?もしかして朝はご飯派?」
「あの、いえ……その、ありがとう……ございます」
誰かと食事をするのは一体いつぶりだろう。母もこうやって朝食を用意してくれたと思い出す。
他の人が席に着くのを待っている、その事実に気づくまでに数秒かかった。すぐに席について目の前のトーストを見やる。出来立てのトーストの匂いに、胃が鳴いているのがわかる。
「じゃあ、いただきます」
「あっ……いただき、ます」
そう言ってトーストを齧ると、ケチャップとチーズの味がした。
ーー
ひとまず私はバイト君に野菜を切る用に頼んだ。まずは私が数個切って、これをこれぐらいの大きさでと指示。猫の手を順守させてそっと後ろでヒヤリヒヤリと見守りながら手元のメレンゲをオーブンで焼くために並べていく。この前までは数日に一回焼いていたのだけれど、今となっては毎日、たまに一日に二回ほど焼かないといけなくなっていた。
朝の準備は時間との戦いだった。店の開店時間は、今九時としている。
朝起きて九時までの間に下拵えを全て終えて店の開店準備、店を開けてからは雪崩のように来るお客さんに次から次へと料理を提供しそれを一日の終わりまで続ける。
はっきりと言って死ぬほど忙しい。忙しいからこそバイト君も一日でなんとか職場になれてくれると願いたい。
オーブンで焼く準備をしていると、ふと誰かがドアの前に立っているのに気がついた。
「バイト君、ちょっと店の前の人の対応してくるから。気をつけて調理してね」
「えっあっ、はい……」
シートに並べたメレンゲ、オーブンに入れて時間分捻る。
最近たまにこう言うお客さんがいる、開店前に来て早めに入れないかと聞いてくるお客さんだったり、朝の時間は開けないのかと聞いてくる人だったり。どうやら仕事前に紅茶を淹れて欲しいらしいと言う人がチラホラ。うちはテイクアウエイをやっていないと答えると残念そうにして帰っていく。
申し訳なく感じながらも、店の扉を開くとすぐにその特徴的な容姿が視界に飛び込んできた。
「久しぶりです、鏡花さん」
「大島さん……本当に久しぶり、何週間ぶり?」
「二週間とちょっとです。それにしても最近繁盛していますね、最近だと二、三時間待ちになってますよね」
「うん、もうこれでもかってぐらいお客さんが来て、前とは比べ物に慣れないぐらい席が埋まってるよ。もうこれじゃあ自虐ネタが使えないね」
そういえば初めて彼女がきた時に自虐ネタでそう言うことを言ったなと思い出す。
まさか店がこうして繁盛し始めるとは夢にも思っていなかった。
彼女はどこか寂しそうな顔を一瞬浮かべて、すぐに満面の笑みをこぼして。
「本当に良かったです。それと、今日来た要件なんですけど……最近何か変なこととかありました?不審な車が店の前に停まってるとか、強面の変な人が店に来るとか」
「いや、そう言うのはないけれど。何かあったの?」
「ないなら、それならそれでいいんです。もしそう言うことがあったら店から出ないようにしてください。最近この辺りで不審な車がうろちょろしてるそうなので」
「わかった。もしかしてわざわざ私にそれを言うために来てくれたの?」
「はい。それとーーあれ?誰かいるんですか?」
店の奥、キッチンで野菜の下拵えをするバイト君を見てスンと、大島さんの瞳からハイライトが消える。
おそらくその容姿も見えたのだろう、いや待ってくれ大島さんなんでそんな殺気を醸し出しているんだい?いやほらなんか顔が怖いよ?
彼女は腹の底からにっこりと笑みを浮かべて。
「あの男、誰ですか?」
ひえっ……一瞬本気で心臓が止まるかと思うほどの雰囲気が彼女から溢れ出ている。
「あっあれは、ほら、最近忙しいからバイトを雇うって話で父さんが連れてきたバイト君」
「へぇ……バイト、ですか」
「うん、だからほら決してやましくないというか」
自分は何に対して言い訳しているのだろうかと考えそうになるが、こう言う時に考えたら負けだ。何より反論したら何が起こるかわからない、そんな雰囲気だった。
「…..本当だったら私も是非バイトに立候補したいところですが……今の事情じゃ無理ですね。とりあえず、本当に変な車とかがいたら、すぐに連絡をいれて下さい」
許された?ふぅ、と安堵して息を吐いて、彼女が差し出した紙を受け取る。
電話番号とメールアドレスが書かれていて、何かあったら連絡して欲しいと言うことなのだろうけれど……。
「その、私スマホもケータイも持ってない」
「え?」
高校での事件があって両親が亡くなって、その時にスマホは家に放り出してきたままだ。
「いやその、どっちも持ってないし、家電がない」
「え?」
……家電はあったのだけれど学校から延々と連絡が来るため叔父さんがバラして粗大ゴミにしてしまった。
「だからその、連絡を入れようがないんだけど……」
「えぇ……まぁ、その、とりあえずわかりました。本当に気をつけてくださいね。世の中物騒なんですから、橋下さんんみたいに綺麗な人だと変な輩に絡まれるかもしれないし……」
「私に限ってそれはないよ、それだったら大島さんが気をつけなくちゃ美人なんだし」
なんせ私は男だ、髪が長くて軽く女装っぽくなっているけど結局男なのだから女性よりは狙われにくいだろうし。
ふと、大島さんの顔に視線を戻せばプルプルと顔を真っ赤にして震えていた。
「大丈夫?熱があるんじゃ?」
額に触れてみると、本当に煮えたぎるような熱が掌に伝わってきた。というか体温どんどん上がっていないか?
「大島さん大丈夫?風邪かな……」
「鏡花さん大丈夫です忙しいので、予定があるので、今日は本当にもう今すぐにでも行かなくちゃいけないのでさようなら!またきます!今回の事態が片付いてからですけど!では!」
顔を真っ赤にして、大島さんは走って行ってしまった。
せっかくなんだからメレンゲでもどうぞと言おうと思ったのだけれど、それはもう凄まじい速さで彼女は視界から消えてしまったのであった。




