喫茶店、勘違い
夕暮れ時、それは空が茜色に染まって、カラスがなく時間だ。いや別に私の表現力の拙さの説明をしたいわけではない。この時間は個人的に好きだった。商店街の肉屋が総菜を揚げる匂いが風に乗ってきたり、焼き芋屋の香りがしたり。様々な香りに包まれるこの時間は学生も多い。
やはり幼馴染の、水月の洞察力が異常だっただけで、今まで自分の正体がばれることは無かった。
喫茶店というのもいいだろうと最近は自分を肯定できるようになった気がする。お客さんたちが羽休めをするようにふらっと店に来て、ほかの常連さんに挨拶をして、心を休めて、また社会に戻っていく。そんな彼ら彼女らのための居場所になれるのなら幸せなことに違いないのだから。
ぱたりと、ドアが開いてドアベルが小さく鳴る。静かに扉を開いて、丁寧に閉じたのは見慣れた顔だった。夕焼けに染まり、茜色を映す銀髪に小雪のように白い肌。一つ一つの所作が落ち着いていて優しさが見て取れる。
「まだ大丈夫ですよね?」
「いらっしゃい、まだ空いてるよ」
今日彼女は珍しく遅い、普段ならば朝一で来て勉強をしているのだけれど、何か用事があったのだろうか。自分は何を気にしているのだろう、ただのお客さんだ、うん。別に深く考える必要はないのだけれど、少し気になってしまう。
「いつものでいい?それとも何か試してみる?」
「じゃあ今日はいつも頼まないカモミールで」
「かしこまりました」
カモミールはなかなかいいものだ。寝る前に飲めばリラックスできるし、体中が休まる気がする。常飲はしないけれど、好きな紅茶の一つだ。どちらかといえばハーブティーに近いかもしれない。独特の風味で、好き嫌いは分かれるけれども。気に入ればたまらないものになる。
いつも通り小鍋に水を入れ火にかけ、カウンターの前に戻る。
「そういえば、今日は高校の制服なんだね」
「ええ、見せたくてこのまま着ちゃいました。どう......ですかね、変じゃないですか?」
その場に立って、彼女はくるりと回る。紺色のブレザーにチェックのスカート。銀色の髪色と合わさってまるでモデルさんか何かのようだった。思わず言葉が出てこなくて、必死に素晴らしい表現を探すけれども、出てくるのはたったの一言で。
「奇麗」
「もっもうお世辞はいいですよ」
「いや、本当に。きれいだなって思って。よく似合ってるよ」
可愛らしいし、何より大人っぽい。普段来ている私服と比べて落ち着いた雰囲気があるように見える。
夕焼けのせいか、彼女の頬がいつもより紅く色づいているような気がした。口角を上げて、嬉しそうに彼女は「きれい、ですか」と呟いて席に座りなおした。私の安っぽい言葉でもここまで喜んでもらえるとなかなかいいものだ。彼女がうれしそうにしているとどこか胸が温かくなる。
「そういえば、今日が何の日か覚えていますか?」
確か、今日は七月五日だったろうか。スマホを持っていないし、テレビも見ない。日にちを確認するものンがないのでよくわからないけれど特別な日だったろうか。
そういえば。
「もちろん」
「そっそうですよね、今日は」
「もちろん、今日は江戸切子と、穴子の日だよね」
危ないところだった、きっと彼女はこの日が好きなのだろう。下手にわからないといえば話が続かないところだった。うちにグラスを安く売ってくれているガラス職人さんが話していたのを思い出した。結構前に話していたけれど、覚えておいてよかった。
彼女もうちの店のグラスが好きだし、きっとその話をしたいのだろう。
「えっ、えっと、江戸切子?穴子?」
「そう、今日は江戸切子と穴子の日なんだ。正確にはどっちも別々の団体が決めた日なんだけどね。あまり知られてないから、言っても通じないって」
「え、いや、その」
「うちのグラスを作ってくれている常連さんが教えてくれたんだ、あまり知られてない日だから、知ってて驚いた?」
彼女は首をかしげて、複雑な表情を浮かべている。どうしたのだろうか、この話をしたいはずなのに、なんでそんな寂しそうな顔をするのだろう。ふと目が合って、こちらの困惑した顔を見たのか彼女は様々な表情を顔に浮かべてから、笑顔を浮かべた。
「そう、ですよ。今日は江戸切子の日なんです。この店で使ってるグラスはきれいでいいですよね」
「うん、常連さんがこの店を気に入ったって言って安くくれたんだ。どれも質が良くて気に入ってる」
「......すっすみません、頼んでおいて悪いんですけど、用事を思い出したので帰りますねっ!」
「え?」
カモミール分の料金、飲んでもいないのに彼女はそれを置いて足早にドアを勢い良く開いてどこかへと走って行ってしまった。
「え?」
呆然と、私はその後姿を見ていることしかできなかった。
ーー
「鏡ちゃん、髪のお手入れきちんとしてる?」
磨いていたグラスを置いて、首をかしげる。
「その顔はしてないって顔ね」
「いや、別に男がどうこうするもんじゃないだろうに」
髪を伸ばしているのも学校時代の知り合いや、教師に正体がばれたくないからだ。ただでさえくだらないことにいちいちこだわって揶揄ったり、弄ったり、馬鹿にしてくるような暇人ども。いや別に毒を吐いていても私のためにならないのだから、考えないのが吉だけれど。
水月がこうして私の正体に気づいたのも、雰囲気とか感じとか、すごくアバウトなものだったし。実際はほとんどわからないのだと願いたい。
「はぁ......せっかく可愛いのに」
「そりゃあどうも。母さんが美人だったからな」
「昔は父さんがイケメンだったからって言ってたわね」
「そりゃあな」
謙遜すべきところとそうするべきでないところは個人的に線引きしている、容姿をほめられたのなら素直に受け取るべきだ。両親が格好良くて、美人で、素晴らしかったのだから今こうして自分の容姿ができているのだから。昔に同じことを言って何とも言えない顔をしたのを覚えているのか、水月はそうねと笑って。
「髪のお手入れはしないとだめよ。コンディショナーとかするだけで結構変わるのよ?」
「蜜柑さんも同じようなこと言ってたな」
やれ髪の手入れがどうとか、櫛ですいてやるだけでも結構変わってくると。いつも普通に洗っていると言ったら信じられないといわれた。あの時も似たようなことを言われたのだけれど、結局あまりこだわっていないといって話は終わった。今回もそうなるのだろうかなと思ったのだけれど、何故か水月は不機嫌そうに頬を膨らましている。
「蜜柑さんって女の人の、それも名前よね」
「ん?ああ、常連さんの一人だ。今出張で大阪のほうに行ってるらしい」
「うん、そんなことはどうでもいいのだけれど出張ってことは大人、Ol,おいくつぐらい?」
「何を聞きたいんだ?いや、まあ蜜柑さんはに十歳ぐらいって言ってたけど」
「ふーん......それで名前呼びかぁ......」
「いや......」
どうしてこうも大島さんも水月も名前呼びにこだわるんだ、べつに小学生じゃないのだから相手の呼ばれたい呼び方で言うのが普通だろう。何も問題がないし、むしろ個人的にはそれぞれの距離感を考えているようで落ち着くのだが。
「まあ、鏡ちゃん、にはわからない話ね」
「そういうもんなのか」
「そういうものなのよ」
ふむよくわからない。一生わからないのかもしれない。
「女心っていうのはそういうもんだ。その歳じゃあわからねぇもんよ」
「そういうものなんですか」
かみ殺したような笑い声を隠しながら老人は言った。明らかにその道の人で、どう呼べばいいのかわからなかったのだけれど、竜司とでも呼べばいいと言っていた。明らかにその道の人、それも組長のような人をそう呼ぶのはいいのだろうかと思ったけれど、ここは喫茶店。だれがどうとか、なにをやってるとか、そんなことはどうでもいいのだ。だれもかれもが好きに時間を使って贅沢を楽しむ、そんな場所。
水月は水月で、近所のおじさんとして話している、本気でそう話している怖い。距離感がバグっているのだ、水月はまさに組長らしき人物をラジオ体操の時にいるおじさんみたいな扱いをしている。
「竜司さんもそう思いませんか?髪の毛のお手入れをするだけで結構変わると思うんです」
「ふむ、わしにはちっとばかしわからない話だが、若いのはこだわるものじゃないのか?うちの孫娘もやれ髪が整わないとか、どうとか鏡と話しとる」
「ほら」
「むぅ」
そうなのか、こだわるのか。シャンプー使ってごしごしと洗うじゃダメなのか。ぶっちゃけた話乾かすのが面倒でタオルでごしごししてしまっている、無論言わない、言ったら言ったでありえないとでも言われる気しかしない。
「そういえば竜司さんて孫娘いたんですね」
ふと、疑問に思って聞くと何故か彼はニヒルと笑って。
「ああ、ちょうどお前さんと同じぐらいの年のが一人いるな」
「そうなんですか、一度見てみたいです」
どんな人なのだろうかと考える。やはり竜司さんに似て格好のいい和風美人なのだろうか。それとも内気な、清楚系か。いろいろな可能性が十分考えられる、そう考えているとより一層竜司さんは口角を上げて。
「そうか、一度見てみたいか。飛び切りの美人だぞ」
こんなに愉快そうに竜司さんが笑っているのはなかなか見ない、何が面白かったのだろうか。いやあれか、孫娘の可愛さを、まさに一家のアイドルを布教しようとするファンのような顔なのか。それなら納得できる。
「そういえば鏡ちゃん今年の夏祭りは誰かと行く予定があるのかしら?」
「そもそも行くつもりがないから、あまり関係はないな」
夏祭りというのは酷く疲れるものだ、あれやこれやと大量の人にもみくちゃにされて人ごみに流されるのがおちだ。それにまだ、喫茶店から出られるほど私は踏ん切りがついていない。水月はそう、と前回のことを思い出したのか小さく呟いて紅茶を飲んだ。
そういえばそろそろ昼時だ、竜司さんご所望のハンバーグを作り始めようかと厨房に向けて踵を返した、丁度のタイミングだった。
「夏祭り、今年は特にいいぞ」
ぼそりと、竜司さんが呟いた。振り返り、意味が分からずに首をかしげる。
「うちの若いもんが花火職人に弟子入りして盛大な奴をやるらしい、もしほしけりゃあ物見席の、一番いいところの券をとれるぞ」
こないか、と誘われている。杖を握って呟いた竜司さんは真っすぐにこちらを見ていた。視界の端に移る水月は敢えて何も言わずに紅茶をすすっているようだった。もしかして、竜司さんは事情を知っているのだろうかと、ふと思う。叔父さんや父さんの知り合いだというのなら、私がこの店に引きこもっていることも知っているのかもしれない。だからこそきっかけを作ろうとしてくれている、学校でもなく、友達でもなく、ただの常連さんとして誘ってくれている、外に出ないか、と。
「生憎と、人ごみは苦手なので」
「ふむ、そうか。なら仕方がない」
いくら頑張ろうと、だめなものはダメだ。一歩を踏み出す前に心が後ろ向きに立っているのだから。つま先をそちらに向けることはできても、心がそちらに向いていなければどこにも歩いていけない。店の外に出たら何かを失ってしまいそうで、足がすくんでしまう。
「気が変わったらいつでもいっとくれ。いくらでも融通はきくからの」
にやりと笑って老人は呟いた。気を使わせてしまっている、あまりそういうのは好きじゃない。お客さんにはお客さんとして楽しんでもらいたい。店員の事情で変に気分を害してほしくない。
「そういえば鏡ちゃん、忘れてるわけないだろうけど、ご両親の命日、そろそろよ」
「......もうそんな時期だっけ」
「絶対に日にちを見てないだろうと思って。今日は何日?」
何をバカな質問を、さすがにそんなの知っているに決まっているだろう。
「七月六日だろう?木曜日の」
「残念七月二十四日の土曜日よ。私が昼間に喫茶店に来てるのよ?」
「いや、てっきりテンションが上がって抜け出してきたのかと思って」
「鏡ちゃんの中で私どれだけトリッキーなのよ。さぼったのはまだ十二回よ」
それはそれで多いのではないだろうか。というか昨日も来てただろう、何平日には着てませんアピールしてるんだ子の幼馴染は。
というかまて、今日が七月二十四日ということはーー何か大事な用事を忘れている気がするのだけれど。ちらりと水月のほうを見ればその答えを知っているのか、眉間をほぐしながら深くため息を吐いて。
「はぁ......じゃあもう一つ聞くけど、大島さんが高校に初めて行く日はいつ?」
「え?そりゃあ七月の、二十三日.....あ」
「あって何よ。昨日転入生として来て大騒ぎだったのよ。銀髪美少女が学校に来たってね。喫茶店に来なかったの?」
「いや、来たけど、あぁ......死にたい」
何が『もちろん、今日は江戸切子と穴子の日だよね』っだ!?待てよじゃああの時大島さんがすごい落ち込んでたのも私がド忘れしたと思ったからか?だからあの日紅茶を飲まずに走り去っていってしまったのも。いや待て待て待て自分は何をやらかしているんだ。
「そこまで落ち込まなくてもいいんだけど、きっちり誤っておきなさいよ。本当に馬鹿なんだから」
「返す言葉もございません」
私はいったい何をやらかしているのだろう、気分が落ちる、ため息も出る。いや今本当にため息を吐きたいのは大島さんだろうに。というかさっきから竜司さんは何で笑顔をかみ殺したような顔をしているのだろうか。訳が分からずに私がその顔を見ると、彼は小さく口を開いて。
「チーズインハンバーグとやらを頼む」
と、言ったのであった。いや頼まれましたけれども。