新月の在処—1
『————昨日午後三時頃、——市で児童が乗用車と接触する事故がありました。児童は病院へと運ばれましたが、その後搬送先の病院で死亡が確認されたとのことです』
五月の連休初日は、そのニュースから始まった。
当時、ごくごく一般的な小学生だった外城に好んでニュースを見るような趣味はなく、その報道も偶然目にしたと言うのが近い。
偶然目にして、興味を引かれた————キャスターが読み上げた自分の街の名前に。
『警察は児童の横断中に起きた事故と見て捜査を進めており、乗用車を運転していた……』
死亡したというその児童の名前も、今となってはもう覚えていない。
ただ感じたのは哀悼でも恐怖でもなく、
————すごい。
自分の知っている街がテレビに映っている事への、純粋で無邪気な好奇心。
道路に残る血の跡を映していたカメラが見慣れた景色を次々にパンしていく。その度に外城の心臓は高鳴った。
知っている。その景色を僕は知っている。
まるでドラマの中に自分が入り込んだかのような、言葉にしがたい興奮と優越感。誰かとこの感動を分かち合いたい、そう思うのも年端も行かない子供心としては当然の成り行きだった。
「母さん!お母さん!」
逸る気持ちを抑え、台所にいる母を呼ぶ。「どうしたの」と振り返りもせずに答える母がやけにまどろっこしい。無理矢理腕を掴んでテレビの前まで引っ張り出す。
「見て!ねえこれすご————」
「…………そんな」
いでしょ、と続けようとした言葉は、振り返って見た母の沈痛な面持ちに掻き消えた。
そうして初めて気づく————そっか、喜んじゃいけないのか。
どうして喜んではいけないのか、なぜ母は泣きそうな顔をしているのか。どちらも分からないまま、それでもこの気持ちはイケナイものなのだと、
幼い外城はただ母にならって沈痛な表情を取り繕った。
だが、やはり同年代の子供たちは外城と同じ感動を得たらしい。
寄るにつけ触りにつけ、彼らは興奮気味に事故の話題で盛り上がった。「見た?」「ヤバい」「あたしあの道知ってる!」舌足らずな言葉で語られる内容はどれも同じである。配慮というボキャブラリーを獲得する以前の子供たちは良くも悪くもあけすけで遠慮がない。
————よかった。僕がおかしいんじゃないんだ。
母の表情で落ちかけた外城の気分がそう持ち直すと同時、子供たちの間では一つの噂が飛び交うこととなる。
曰く、『轢かれた子供は、誰かに突き飛ばされて車道に飛び出したらしい』。
「ホントだって!みきちゃんの友達が見たって言ってたもん!——くんが同じ小学校の子に突き飛ばされたんだって!」
又聞きの又聞き、根拠も証拠もなく信憑性など皆無に等しい。それでも、人を疑うことを知らない彼らの幼い正義感を煽るのには十分すぎた。
そして、誰が言ったか————「オレたちで犯人見つけてやろーぜ!ひとごろしにはテンバツだ!」という一言から、子供たちは善意という皮を被った暴徒と化す。
一度加速した噂は止まらない。それが善意で後押しされているとなれば尚更。事故後数日と待たず、その噂は学区の敷居を超え、異常な程の速さで犯人と目される人物が特定された。
学校の違う外城は顔も名前も知らない、一人の少年が容疑者として挙げられたらしい。
死亡した児童と共に下校していたのが彼だった、というのが決め手となった。元より遊びの延長線上だった外城達はそんな顛末を人伝に聞いてあっさりと興味を失い、長期連休が開ける頃にはテンバツなどという話そのものがなかったかのように日常へと戻った。
犯人とされた少年がその後どうなったのか、知る機会はなかったし知りたいとも思わなかった。
その機会が訪れたのは、それから何度目かの春を迎えた頃である。
例年をかなり下回る花冷えとなった中、外城達の卒業式は例年通りの日程で執り行われた。
これは式と名のつくものに共通して言えることだが、とにかくどうでもいい話ばかりが異様に長い。ともすると、式=つまらないものという刷り込みが小学校六年間で得た最大のものではと思う程だ。
「————君たちの世代は、多くの苦難に見舞われた世代でもあります。全国的に見れば相次ぐ災害による被害は未だにその傷跡を残し、近くへ目を向ければ同じ歳の子が亡くなるという痛ましい事故もありました」
優に十分を超える校長の式辞に半分寝かけていた外城は、その言葉で目を覚ました。
事故。同い歳。
もはや忘れかけていた記憶が頭をもたげる。テレビに映った見慣れた街並みと、路上に残された血痕。悼むという言葉を知った外城がもう無邪気に興奮するようなことはなかったが、
————そう言えば、あの子はどうなったんだろう。
事故後数日と待たず特定された犯人の少年のその後へと思いを馳せる。捕まったのだろうか、だとしたら俺たちは捜査協力というのをしたことになるんだろうか。誰にも褒められなかったのは微妙に不満だが、陰ながら悪を裁くというのもそれはそれでカッコイイかな。
そんな事を考えていたら、結局ほとんど耳に入らないまま校長の話は終わっていた。
「……ねえ母さん。昔あった事故の時にさ、死んじゃった子を突き飛ばした奴がいたって話、知ってる?」
母と二人で帰路についた外城はそう聞いてみた。校長の話によって甦った記憶は式が終わってからも薄れることは無く、むしろ気になって仕方が無くなっていた。
「ああ、あったわねえ、そんな話」
今にして思えば、そう答えた母は決していい顔はしていなかった気がする。だが、その時の外城に母の表情の意味を考える思慮深さはなかった。
ある意味では、不幸なことに。
ただ舞い上がる脳内を占めていたのは本当にいたんだと言う驚きと、そんな奴を見つけ出すきっかけを作ったのは自分達だという達成感。当時の正義感が今になって満たされたような気がして、外城は密かにほくそ笑む。
「可哀想にねえ、友達を亡くした上にあんな噂まで立てられて。あの子は何も悪くなんてなかったのにねえ」
「————ぇ?」
引き上げた口の端が、
攣った。
「赤信号なのに飛び出した友達を止めようとしただけらしいわよ、あの子。なのに何をどう間違われたんだか」
…………なんだ、それは。外城は表情を取り繕うのも忘れ、呆然と母の言葉を反芻する。
自分達は正しいことをしたのではなかったのか。悪い「ひとごろし」を探し出して、炙り出して、ただ「テンバツ」を————それがどうして、こんな話になる。
「……その子、どうなったの」
「母さんもそこまでは知らないわねえ。どこかに引っ越したって話も聞くけど」
あんたはあんな噂を真に受けるんじゃないわよ。
母の言葉は、もはや耳に届いていなかった。
違う。自分は正しいはずだ。正しかったはずだ。間違っているのは母さんの方だ、きっと誰かが根拠も証拠もなく間違った噂を流して
『ホントだって!みきちゃんの友達が見たって言ってたもん!——くんが同じ小学校の子に突き飛ばされたんだって!』
吐き気が、した。
「……忘れ物っ!」
辛うじて一言だけ絞り出し、外城は来た道を全力で引き返す。
違う。違う違う違う違う違う。そんなわけが無い、そんなことあっていいはずがない。そんな、根拠も証拠もない噂に踊らされて、何一つ悪いことをしていない誰かを追い詰めたのが自分達だなんて。
それは、それではまるで、
「————違うッ!」
まるで————自分達こそが、悪者ではないか。
否定するために発した叫び。それこそが何よりも雄弁に外城の過ちを肯定していた。
ただ一人、冷たい路上に立ち尽くした外城は両手で顔を覆う。
大した距離も走っていないはずなのに、息は粉々に途切れていた。
呼吸すらおぼつかない中で、呟く。
「なんて……」
なんて、愚かな。
そう続けてしまったら本当に取り返しがつかなくなってしまいそうで、その言葉だけは言えなかった。
そして、それから五度目の春を迎え————今に至るも、外城はその愚かしさを許していない。
だから、
「上谷ってさあ、盗みヤったんでしょ?」
外城賢一だけは、そんな言葉を認めるわけにはいかないのだ。