朔日の空—3
目を覚ますと、見慣れた自室の天井が広がっていた。
ボロい上に汚い安アパートだが、天井の染み一つで判別できるというのは唯一無二感があっていい。経緯も素性も不明のままだが、謎の染みも悪くないな、とぼんやりする頭で思った。
「あ゛ー……」
今何時なのだろう。窓越しに照らす陽の光からして夜ではないのは確かだが、素直に起きる気にはなれなかった。元から寝覚めがいい方でない自覚はあるものの、それにしたって体が重すぎる。
……いいや、二度寝しよう。
そう決めて布団を被り直した所だったので、
「起きた?」
「————は!?」
突然かけられた声に対する反応は否応なく劇的になった。
布団を跳ね除けざま文字通り飛び起きる。そのままの勢いで壁際まで後退。安普請の壁がズダン、と大きな音を立てる。
ほぼ脊髄反射だけで動いた後、ようやく声のした方に意識を向けて、
————誰だこいつ。
六畳半の室内で、声の主は修介とほぼ対格の位置に座り込んでいた。年頃は修介とほぼ同じか一つ二つ下。中学生には見えないが、その制服は今時珍しいセーラー服……とここまで来ればいい加減あやふやだった記憶も戻ってくる。
「勘違い冤罪女」
「ちょっと、勝手にバカみたいなあだ名つけないでよ」
実際バカみたいな冤罪をかけられた側としては似合いの名前だと思うが。
「……サツキ」
彼女は不貞腐れたように視線を逸らしながらそう言った。文脈を無視した単語に修介は眉を顰める。
「だから、名前。サツキよ」
言葉が足りなかったのを理解したのか、ボソボソと歯切れ悪くサツキは付け足した。
「ああそう……」あだ名で呼ぶなという意思表示かな、と曖昧に頷く。「っつかなんでお前いるの。俺の部屋だよな、ここ」
「あなたが急に倒れるから……その、運んだ」
「どうやって。住所教えるほど親しくなった覚えはないんだけど」
ん、とサツキは部屋の真ん中あたりを指さした。食卓兼リビングテーブル————つまり何でもありの作業台と化したコタツの上には見覚えのある学生手帳と鍵がセットで置いてある。それを使った、ということなのだろう。入学以来二年間、ほぼバッグの中敷きと同化していた手帳がこんな所で日の目を見るとは思っていなかった。経緯が経緯だけに役に立ったかどうかというところは微妙だが。
それと、
「……看病、してくれてたのか」
コタツの上には処方薬の袋とコンビニで買ってきたと思しき水のペットボトルもあった。いずれも口が切られている。額の異物感に気づいて手を当てると、ヒヤリとした感触。冷えピタが貼ってあるらしい。
「しょうがないでしょ。……あなたが倒れた理由の少しは、あたしにも……あるし」
相変わらず歯切れの悪い声で不貞腐れたような————あるいは、バツが悪そうな。サツキは複雑な表情でしばらく何かを呟いていたが、最終的に諦めの混じった溜息を吐いた。
「……ごめんなさい」
「ああうん……まあ、別にいいけど」
こうも素直だとなんともやりづらい。なんで謝られる側がいたたまれなくならなきゃいけねえんだ、と修介は頭を掻く。
言いたいことを言って気が済んだのか、サツキはこれ以上口を開く気配がない。倒れた後の記憶がない修介としては、あの後どうしたのかとか結局自分にかけられた疑いはどうなったのかとか聞きたいのだが、今さら蒸し返すのも責めているようで何となく尋ねずらい。結果、六畳半の室内には秒針の音が響くこととなった。
もう十時か、学校始まってんじゃん。などと若干現実逃避気味に思いを馳せて、
…………、十時?
「……なあ、今日って何日?」
「?五日だけど」
マジでか、と天井を仰ぎ見る。てっきり数時間くらいだと思い込んでいたのだが、丸一日中眠っていたらしい。たかが風邪ごときで重病人みたいだな、と他人事のように思った。
だがまあ、とりあえず。
「悪かったな」ベッドの上に座りなおしながら、修介はそう言った。
「何が?」
「夜通し付きっ切りで看病してくれてたんだろ。世話焼かせたから」
ここまでされては一言ぐらい言っておかないと釣り合いが取れない。「まあ、そもそも原因はあたしだし……」とサツキは未だ責任を感じているようだが、それも迷惑をかけた分と相殺してチャラとしたものだろう。
なんにせよ、微妙に重たい沈黙は晴れた。これ幸いとばかりに修介は乗っかることにする。
「迷惑かけついでに教えてほしいんだけど、結局あの後どうしたわけ?正直いまいち状況のみこめてないんだけど。ここまで面倒見てくれたってことは一応疑いは解消されたってことでいいのか?」
「えっと……その」相変わらず歯切れの悪い口調でサツキは目を泳がせる。「警察行くには行ったんだけど」
「マジでか。結局連行されてたのか俺」
ぶっ倒れたやつ相手に容赦ねえなこの女。その思いはきっと警官も一緒だったのだろう。若干引きながらも一応事情を一通り聞いた上で「落とし物として届けようとしていたのでは?」という実に冷静かつ客観的な返答をしたらしい。その一言で沸騰していた彼女の頭も、わざわざテープレコーダーだけを盗むというのもおかしいのでは、と冷静になり。冷えた頭で改めて自分の行動を振り返ると今さらながら恥ずかしさがこみあげてきて、
「————俺を引きずったまま逃げ出した、と」
端的にまとめた修介の言葉でサツキは完全に撃沈した。耳まで真っ赤になっているところからして、相当に恥ずかしかったのだろう。
「まあ、その、なんだ」修介はちょっと言葉を探して、「お前……バカの子、なの?」
「しょうがないじゃない!あの時はあたしも動揺してたのよっ!」
思いっきり噛みつかれてしまった。精一杯オブラートに包んだつもりだったが覆いきれなかったらしい。修介の経験値が足りなかったのか、サツキのバカさ加減が覆いきれる範囲を超えていたのか。少し考えて、たぶん両方だなと結論付ける。
「ていうか、あんなになるまで動揺するほどのモンか?貴重品ってわけでもあるまいし」
言っては悪いが、所詮テープレコーダーだ。確かに今のご時世手に入りにくいのは分かるが、ネットなり探せばそれなりに転がっているだろう。そもそも、携帯でも音楽が聴き放題の時代なのだ。無くたってなにも困らないと思う。
だが、
「……、まあ。そう思うのも無理ないけど、違うの」
そんな修介の思い上がった常識は、レコーダーを両手で大事そうに抱えたサツキの言葉で叩き潰されることになる。
「これは、形見みたいな物なんだよ」
痛った———————…………
思わず天井を仰ぐ。ガキか俺は。自分の価値観が全世界の基準になると思い込み、押し付ける愚かしさ。それは、自分達と違うというだけで何の躊躇もなく排斥しようとする小学生のような、無邪気ゆえに救いようのない残虐だ。そんなこと、分かっていたはずなのに。
もう今さら何を言い繕ったところで遅い。謝罪の言葉さえおこがましい。
故に、上谷修介に許されるのはただ口を閉ざすことだけ。
「優しいんだね、君」そんな彼の思いを見透かしたように、サツキは初めて微笑った。「意外かも。もっと冷たい人だと思ってた」
「……聞き飽きた評価をドーモ」
「分かってるなら直せばいいのに、もったいない」
その言葉も聞き飽きた、と修介は仏頂面で一蹴する。全部わかってますよとでも言わんばかりに苦笑されているのが面白くない。今度は修介が不貞腐れる番だった。
ベッドの上に腰かけたまま肘をついて、顔を背ける。その拍子に小さく咳がこみあげた。昨日より大分マシになったとはいえ、まだ全快とはいかないらしい。
「大丈夫?なんか欲しい物ある?」
「いや、別に。もう大分良くなったし、これ以上迷惑かけるわけにも————」
いかないし、と言い切る前に思いっきり腹の虫が鳴いた。そういえば昨日の朝以来何も腹に入れてなかった。体力の回復という意味でも体がエネルギーを欲しているのだろう。それは分かる。分かるが、
「……別に、なに?」
どうしてこうタイミングが悪いんだ畜生!半笑いでこちらを見ているサツキに心底臍を噛む。
彼女の笑みは明らかに面白がっているそれで、もはやさっきまでのしおらしさは見る影もない。今さら無理に誤魔化してみてもますます面白がらせるだけなので、修介は諦めて溜息を吐いた。
「なんか、飯とか……ある?」
「残念ながら」
結局ねえのかよ、とツッコみたくなる気持ちを抑え、「じゃあ戸棚の中にカップ麺あるから……」と立ち上がる。力の入りきらなかった足が軽くふらついた。
「そんな状態でインスタントなんて食べたら余計に体調悪くなるよ?」
「……じゃあどうしろってんだよ」
「あたし、お粥くらいなら作れるけど?」
流石にここまで来たら何を言われているかくらい分かる。もはや隠そうともしないからかいの雰囲気に舌打ちを零して、修介はベッドに座り直した。
「お願いします……」
りょうかーい!という楽し気なサツキの声音に、修介がますます不貞腐れたのは言うまでもない。
*
飯食ったら学校行こう。
そんな表面的には優等生のようなことを修介が考えていたのもサツキお手製の卵粥を啜り終えるまでだった。
「なあお前さ、いつまで居るつもりだよ」
「君が隙あらば枕元の制服に手を伸ばそうとしなくなるまでかな」
うんざりした様子で問いかける修介に、返ってくる声は即答。コタツの中で少年漫画を読みながらだというのに、軽く食い気味ですらあった。同じ質問を片手で数えられなくなるほど繰り返すと、返事は片手間になるらしい。
「片手だけにってか。うーわ、死ぬほどつまんねえ」
現状、部屋着でベッドに転がることしかできなくなった修介は無理矢理笑ってみた。笑ってみたところでつまらないものが面白くなるはずもなく、余計に虚しくなる。
「つうか俺がどこ行こうが勝手だろ。赤の他人にとやかく言われる筋合いはねえと思うんだけど」
「そういう事はあたしに力づくで止められないようになってから言いなよ」
「先に行きたければあたしを倒してからにしろーってか?アホらしい」
少年漫画の悪役かよ。毒づいた修介の呟きは黙殺された。
サツキはミニカステラ(小腹がすいた時用に買い置いてあったもの。許可した覚えはない)をパクつきながら漫画本(暇つぶし用に買ったもの。許可した覚えはない)のページをめくる。
「……どうしてそんなに学校行きたい?」
「あン?」ついでのような声音で訊かれて、一瞬言葉に詰まる。「……あー。アレだ、優等生の真面目クンだから」
「絶対嘘」
「せめて少しくらい迷ってから答えだせよテメェ」
昨日今日知り合ったばかりの他人に対して言いたい放題言ってくれる。実際嘘なので何も言い返せないところが何とももどかしいが。
「お前こそどうなんだ。オトモダチでもない奴の面倒見てるより学校行きたいとか思わねえわけ?」
そう訊き返したのはせめてもの意趣返しだったが、赤の他人が図々しいという意味を言外に込めた皮肉は伝わっていないのか意図的に無視されたのか、サツキは澄ました顔で「まあね」とカステラの入った袋をまさぐる。
「君の病気を悪化させちゃった側としては、中途半端なとこで目を離してまた倒れられても寝覚め悪いし」ゴルフボール程度の大きさのカステラを一口で頬張って、「それに今いいとこだから。結構面白いね、この漫画」
「……うちは漫喫じゃねえ」
目を輝かせて読み入る姿に妙な脱力感を覚えて、修介はガックリと項垂れる。もはや抗議する気力もない。第一、不毛な言い合いを繰り返しているうちにもう正午近くなっていた。仮に今から出られたとしても学校に着くころにはほぼ一日が終わっている。昼過ぎに登校して遅刻ですはちょっと無理あるしな、と布団をかぶりなおす。
「お、ようやく諦めた?」
「黙れよ。そのニヤケ面がムカつくってだけの理由で学校行きたくなってくる」
サツキから顔を背けるように寝返りを打つ。
瞼を閉じる直前、背中越しに一度振り向いて、
「それ以上他人の非常食勝手に食い散らかすんじゃねえぞ」
なんとなく言っても無駄だろうなとは思いつつ一応釘を刺してから、修介は今度こそ瞼を閉じた。
うつらうつらと寝たり起きたりを繰り返して、どれくらいたった頃だろうか。
不意に鳴ったインターホンの音で修介は微睡みの中から引っ張り出された。緩慢な動きで寝返りを打って、窓から差し込む西日に顔をしかめる。
「……、誰だよ面倒くせえ……」
思わず零れた悪態は完全に無意識のもので、体調不良によって重たくなった体のせいとしたものだろう。
「……どうする?」
この場合のどうするとは、どちらが出るかという意味か。ポテチ片手に首をかしげるサツキに「いい、行く」と起き上がる。
寝たきりで固まった体を動かすのにちょうどいいか、とせめて前向きに考えながら、廊下と呼ぶのもはばかられる程度のフローリングへ抜ける。どうせ宅急便か郵便か……宗教勧誘やセールスの線もなくはないが、もしそうだったらさっさとドアを閉めてお帰り願えばいいだけだ。あの手の連中は話に取り合わなければ案外あっさり帰る、というのは経験則で学んでいる。
あくびを噛み殺しながら玄関のドアを開けて、
「————あれ?結構元気そうじゃん」
両手にビニール袋を提げたイケメンを視界に入れた瞬間、心底後悔した。せめて誰なのか確認するべきだっただろう、なんのための覗き穴なんだと自分の迂闊さを呪うがもう遅い。
「……何しに来たんだよ、外城」
「何って、上谷が急に休むから見舞いに来たんだけど。携帯も出ないし心配したんだぞ」
だからってわざわざ家まで来るか、普通。何度か携帯が鳴ったのは気が付いていたが、出るのも面倒くさくて放置していたのがかえって仇となった。修介は心の中で舌打ち。
「そりゃ悪かった。ただの風邪で寝てただけだし今はもうこの通り大分良くなった。だから大丈夫、ありがとう。帰り道気をつけてな、それじゃ」
「ちょっ、ちょっと!待った待ったすごい勢いで話をたたもうとしないで!」
閉じかけたドアに足を捻じ込んで阻止する外城。
提げたビニール袋を顔の高さまで持ち上げて、
「どうせろくに食ってないでしょ?キッチン貸してよ、色々買ってきたから」
「いや、いいから。気持ちだけで十分だからマジで」
「友達相手に遠慮しなくていいって、ていうか足痛いからいい加減開けてよ」
違う、断じて違う。遠慮とかではない。どうしてこうイケメンという人種は人の機微とか空気とか読めないんだ。
内心辟易しながらが玄関先で揉めていると、不意に背後でノブの回る音がした。
ギクリ、と嫌な予感に修介は一瞬固まってから、恐る恐る振り返ってみる。
「ちょっとー、何揉めて————お?」
だからお前も少しは空気とかタイミングとか読めよバカ女!!
予想通りというか、居間に続く扉の向こうから顔を出したのは目下最大の爆弾要素、サツキその人であった。考えうる中で一番面倒くさい展開に修介の表情はかえって抜け落ちる。
「えー、なになにこのイケメン?君の友達?」
そんな修介には全く頓着せず、サツキは興味津々といった様子で外城を眺める。半分思考停止している修介はもとより、外面に定評のある外城もこれには面喰らったらしい。「えっと……どちら様?」とそんなことを聞かれても修介の方が教えて欲しい。変な冤罪をかけられた挙句なし崩し的に居座っている相手との関係性を表す適切な言葉なんて修介の辞書にはないのだ。
「あ、あたし?どうも初めまして、昨日から彼とオトモダチになりました。サツキって言います、よろしくね?」
サツキは淀みなくそう言って、ニッコリと笑った。
正直とんでもなく嘘くさい。というか大嘘だ。皮肉で投げた「オトモダチ」がこんな形になって返ってくるなど誰が予想できるっていうのか。
案の定、外城は何かを勘違いしたようだった。微妙に居心地の悪そうな苦笑をして、
「はは……えっと、もしかしてお邪魔だったかな、俺」
「待て。何を考えているか知らねえけど違う。お前の思っているような関係とは違う」
「いや、大丈夫。ごめん、そういう事なら帰るよ。これ、果物とかも入ってるからよかったら食べて。それと……、」外城は修介にしか聞こえない程度まで声を低くして、「……あんまり金を無駄遣いしないようにな?それじゃ」
「待て、お前はとんでもない勘違いをしてる!どこも大丈夫じゃない!頼むから待てッ!」
「彼、さっき『誰だよ面倒くせえ』って言ってマシター。ベッドの上で」
「これ以上状況をややこしくするんじゃねえッッッ!!」
底意地の歪んだ性悪女に引っ掻き回された喧騒は、夕陽が落ちきるまで続くこととなった。