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二日月  作者: 疎遠
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朔日の空―1

 喧騒は思いのほか近かった。

 夕焼けを彩るざわめき。湿気った空気を割いて過ぎるエンジン音。大通りから微かに流れ込む街頭広告の軽い電子音。

 どうも、日常というのはなかなかに強固らしい。他人事のように、そんなことを思った。

 ……ああ、本当に。

日常というのは、強固で、強靭で、どうしようもなく無関心だ――――人が死ぬ間際でも、揺らぎすらしないほどに。

「……ぁ――――、」

 自分が何を口走ろうとしたのか、今となってはもう分からない。否定したかったのか、拒絶したかったのか、それとも諦めたのか、自分の感情さえ掴みきれない。

 それでも、ただ。

 死ぬ、という確信だけが身体を巡った。

 そして、

「――――は」


 グシャリ、という音で、

 その人生が終わったことを、知った。


    *


「…………、う――――――――ん」

 四月二日。午前八時三十六分。

 節分どころか立春もとうに過ぎ去った春休み最終日は――――純白の雪景色で彩られていた。

「地球滅亡って、割と冗談じゃねえのかもなあ……」

 寝癖だらけの頭を掻きながら、上谷修介はしみじみとそう呟いてみる。

 冷夏だの暖冬だの異常気象だのと騒がれるようになって久しい。生まれたころにはもうそんな単語が当然のように傍らにあった世代の修介からすれば、ぶっちゃけどうしてそんなに騒ぐのか分からなかった。分からなかった、と過去形なのは今しがた認識のアップデートがあったためである。

「……、さっむ」

 薄めの部屋着を貫通して冷気が入り込む。ブルッと背筋が震える感覚。

 この景色は目の錯覚とか、実は石灰でしたとか、そういう類のドッキリではないらしい。地球はどうやら本気でおかしくなってしまったようだ。

 ――――決めた、DVD借りに行こう。

 先日衣替えしたばかりのタンスをひっくり返しながら、修介はそう決意する。

 この分だと、近いうちに何が起きたって不思議ではない気がした。災害や異常事態に巻き込まれた時、生き延びるために最も必要なのは知識である。ディザスタームービーをフィクションだと笑い飛ばせる時代は当の昔に過ぎ去っていたのだ。

 ……つっても、ディザスタームービーって実際何なのかよく知らねーんだよなー。

 天井を仰いで少し首をひねってみる。築二十年だか経つ学生向けボロアパートには謎の染みが残っているばかりだった。

 まあいいか、と引っ張り出したセーターと厚手のコートを羽織って、修介は冷えた玄関扉のノブを回した。


「だからね、やっぱり今観るべきはディザスタームービーだと思うわけなのよ。これ絶対!」

 春先の飲食店といえばそろそろ空調もクーラーへと移行していく頃なのだが、今日ばかりは思いっきりヒーターが回っていた。

 とはいえその快適空間が維持されるのも客のいるホールがメインで、コンクリ剥き出しの厨房は足元から冷気に侵食されている。

「……なんか、改めて他人の口から聞くとすっげーバカっぽいなその理屈」

 顔をしかめつつ、修介は機械的な手つきでピーマンの千切りを量産していく。

「ちょっと、なにがバカだって言うのよー」

「なにがって言ったらもう頭から全部バカだろ。映画観たくらいで生き延びられるならこの世に防災なんて言葉はねえんだよ」

 激しく鬱。こんなバカげた思考を自分もしていたというのがなによりも鬱だ。いくら寝起きだったとはいえ自分の脳細胞にはもう少し頑張って欲しかった。

 はあ、と重めの溜息を落とす修介。

「なにそれ、自分分かっちゃってますからーみたいな態度。これだから嫌なのよ悟り世代って」

「お前も同じ世代だろうが」山になったピーマンをボウルへ放り込んで、「いいから仕事しろよ。手止まってんぞアルバイト」

「うっわ、嫌味な言い方。あんただってアルバイトのくせに」

「…………。バイトリーダーとしてお願いするんですけど、君がその玉ねぎを早く処理してくれないとナポリタンは作れず、結果的に溜まっている注文も消化できませんので早く、して、いただけますかね、新人の夏目さん」

「わわわ分かった!分かったからその顔やめて!」

 なんでそんな圧力の笑顔できるのよぅ、とブツブツ零しながら玉ねぎとの格闘に戻る少女。

 夏目由紀。彼女が修介のバイト先に現れてからもうそろそろ一ヶ月を過ぎようとしているが、シフトが重なる度こんな感じである。無駄口が多く、隙あらばどうでもいい会話に花を咲かせたがる。そのくせ手際だけはやけにいいので店長や他のスタッフは黙認してしまっており、いつのまにかサボる夏目とそれにブレーキをかける修介という構図ができあがってしまっていた。同じ高校のクラスメイトだと言うのもその関係性を作り上げるのに拍車をかけたらしい。

「……迷惑ここに極まれり」

 思わず眉間に皺がよる。

 こういう展開を避けたかったからわざわざ自宅からも高校からも微妙に離れた場所を選んだと言うのに、これでは何の意味もない。念には念を入れてと小さめな喫茶店を選んだのも完全に裏目に出た。こう狭い店内では逃げ場すらないし。本末転倒もいいところだ。

 重い溜息をもう一度。

「なによう、文句なら店長に言ってよね。あたしはスカウトされただけなんですけど」と、これは修介の呟きを耳ざとく拾った夏目の言葉。

「なにそれ冗談?だとしたらやめとけ、面白くなさすぎてキレそう」

「マジだって。スイパラ行ったら肩身狭そーに端っこでケーキつついてるオッサンがいたからなんかかわいそうになっちゃって。話し相手になってあげてたら意気投合」

「……、一応聞いてやるけど。それで?」

「週一スイパラ付き添い役って条件付きでスカウトされましたー!」

「バッカじゃねえの!?」

 誇らしげなドヤ顔にツッコミが抑えきれなかった。

 どこの世界にスイパラ随伴が条件で採用する間抜けがいるのだ。ていうかあれか、そうなるとコイツがいくらサボっていても誰も何も言わないのは採用条件がそこではなかったからか。畜生、少しでもまともな方向性で納得しようとしていた自分がバカみたいだ。

「あのヒゲ面……、職権乱用するまえに彼女でも作る努力しろよ万年独身が」

「……若者はいいねえ、見境なくって」

 背後から気圧の下がった声。反射的に振り向いてから、修介は思いっきり顔をしかめた。

「ホールの方はいいのかよ、……店長」

「全然注文出てこねえから見に来たんだよ」

 面倒くさそうに頭を掻きながら店長――――坂木達也はそう応える。

 それから、とおもむろに頭から手を離して、

「俺だって去年まで彼女いたから。誰が万年独身だ」

「ってぇ!」

 割と勢いのある拳骨が飛んできた。ノーガードで食らった脳天あたりが白く明滅する感覚。小突くとかいう範疇を思いっきり超えている。図星だからと言ってこの威力は大人気ないんじゃないだろうか。

「つうか、注文。どうなってんの、早くしないと待ってるジジババ共がキレるんだけど。ただでさえ老い先短くてピリピリしてんだからさあ」

「~ッ……、それはそこでバカ笑いしてる奴に言ってくれ。こっちだって待たされてんだよ」

「お、そうだ由紀ちゃん。明後日新作出るらしいんだけど知ってる?」

「あ!タっちゃんも見た!?イチゴのやつっしょ、美味しそうだよねあれ!」

「行っちゃう~?」

「行っちゃう~!」

「…………、潰れてしまえこんな店」

 もう一々ツッコむのすらバカバカしい。結局のところ、注文が云々というのも半分以上は建前だろう。要はホールのほうが一段落ついたので暇つぶしに来ただけだ。ちょうど昼前のアイドルタイムに入ったところで手の空く時間帯だし、そもそも多少待たされたところでキレてくるような時間的観念を持った人間はこの店の客層に入っていない。大半が井戸端会議にいそしむ主婦や喫煙所代わりにしている老人といった常連ばかり。いずれも暇を持て余しているという点では大差ない。

 ……だからと言って、どれだけ待たせてもいいという話にはならないのだが。

「夏目、ホール変わってやってくれ。こっちは俺と店長で回すから」

「お、マジ?いいの?正直玉ねぎ切るの嫌だったんだよね、涙出るとメイク落ちちゃうし」

「いいから行け」

 え?俺そんなつもりでこっち来たんじゃないんだけど、というヒゲの抗議は意識的に黙殺。

「そのかわりサボんじゃねえぞ。テーブル一つでも片付いてなかったらその顔面に塗ったくってるもん跡形もなく落とすからな」

「りょーかーい!」

 元気だけはいい返事を残してホールへかけていく夏目。こういう時ばかり行動が早い。

「なんつーか……」店長はその後ろ姿を呆然と見送りながら、「俺を顎で使うとは、立派になったな修介くんよ」

「うるせえ、世の中働いてるやつが一番偉いんだよ。悔しかったら少しは真面目に仕事しろ」

「あーへいへい、分かりましたよ」

 最初はあんなに素直で可愛かったのになあ、とブツブツ呟きながらほとんど手つかずの玉ねぎを捌いていく店長。なんだかんだとその手際は見事なもので、そこらの主婦と比べても数段早い。普段からこれくらいやってくれたら少しは素直に頼れるんだけどな。修介はあまり現実味のない妄想を浮かべてみる。

「ほい、あがり。あとよろしく」

 ものの数分と経たず櫛切りにされた玉ねぎの山を受け取って、フライパンへと落とし込む。あらかじめ熱してあったフライパンはちょうどよく油が回った頃合いで、バイトとはいえ二年間居座ってきた修介もこのあたりの連携はそつがない。

「これで俺の仕事終わり?終わりだよね?じゃあちょっとホール行ってきていい?由紀ちゃんとスイパラの打ち合わせしたいんだけど」

「んなわけあるか。あいつがサボってたせいで他の伝票もたまってんだよ、あんたまでサボろうとすんな、頼むから」

 片手で鉄鍋を振りながらそわそわと落ち着かない店長を睨む。

「んだよー、いいじゃんかよせっかく可愛い女の子が職場にいるんだぞ。なんでわざわざ野郎で固まらなきゃいけねえんだよう」

「あのなあ……」コイツは本当に店長としての自覚があるんだろうか。「もういいからコーヒー淹れてくれよ。あのおっさん共、ニコチンで味覚やられてるくせにコーヒーだけは敏感なんだから。あんたが淹れたの以外だと文句ばっか言ってうるさいんだよ」

 さりげなく持ち上げてみると、店長は途端に得意げな表情になった。「まあそこまで言うならしょうがねえなあ」とドリッパーにフィルターを敷きだす。分かりやすく単純なんだよな、と修介の方も店長の性格はつかんでいる。

「……ていうかさあ、」ジョウロのような形状のヤカン(ドリップポットと言ったか)に湯を沸かすのを待つ間、店長はおもむろに声量を落として、「実際のとこ、修介こそどうなんよ」

「……なんだそのめちゃくちゃ曖昧な質問は」

「だから、由紀ちゃんのこと気になったりしないのかなって」

「はあ?」

 炒めた具材へパスタを混ぜ込んでいた手が一瞬止まる。一体何を言い出した、こいつは。

「いや、だってよ?同じ学校でしかも同じクラスの女子がいきなりバイト仲間になったわけじゃん。しかも結構可愛い。少しは意識したりしないわけ?」

「……、オッサンってほんと好きだよな、その手の話題」

「オッサン言うな、俺はまだ二六だぞ!――――で、どうなんよ」

 抗議されたものの、そう聞いてくるにやけ面は正月の集まりで見た親戚のオッサンと完全に一致していた。

 修介はうざったそうに溜息を吐いて、

「別に」

「おーおーそっけないねえ、照れ隠しか。青春だねえ」

「言ってろオッサン」

 適当にあしらいながら、フライパンへケチャップを回していく。分量は色合いと感覚任せ。

「うーわ、愛想ねえなあお前。何、もしかして実は他に彼女とかいんの?そりゃすまんこと聞いた。お前も揺れるココロを必死に抑えてるところだったんだな」

「勝手な設定作って勝手に同情すんな。んなもんいねえよ、つか」ジロリ、と横目に鋭い視線を投げて、「こんな会話もう何度もしてるだろ。いい加減意味もない詮索してくんな」

 そう言うと、店長は仕方なさそうな表情で両手を小さく挙げた。あっちはあっちで修介と長い付き合いだ。本気で怒らせるラインはわきまえている。


 注文出してくる、と皿を片手にホールへ向かった修介を見送って、坂木もコーヒーを淹れる作業に戻った。コーヒーというのは温度と淹れ方によって全てが決まる。のの字を描くように細く長くゆっくりとフィルターへ湯を通しながら、

「――――意味もない、ね」

 変わんねえのな、お前。

 誰に聞かせるでもなく、坂木は複雑に苦笑した。

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