煙草を止めれない理由
煙草を止めれない理由
下ろしたてのスキニの太ももから裾にかけて、すっかり濡れてしまい、その黒色が更に深まる。
傘は、自身の役割を果たしていない。
私は苛立ちながら、足取りの間隔を早める。靴底がコンクリートの地面から離れるたびに、そこから水が跳ね、それが更に裾を濡らす。
「……はあ」
私は溜息をつきながら、目に留まったコンビニへと足を踏み入れる。
入店するや否や、雑誌コーナーで立ち読みをしている男と目が合った。男は訝しげに私を一瞥し、再び視線を雑誌に戻した。耳は良いほうではないが、なんとなく男が舌打ちをしたような気がして、私は更に苛立ちを募らせた。
「五十番を一つお願いします」
店内を回った後、レジカウンターにコンドームを置きながら、私は、やはり苛立ちを孕んだ声色で店員に言った。
新人だろうか、店員の女の子は慣れた動作で五十番の棚から煙草を一つ持ってきた。
「お一つでよろしいですか?」
おそらく学生なのだろうか、女の子の営業スマイルとマニュアル通りの接客にも苛立ちを覚えた。
「一つって言いましたよね?」
「え? あ、申し訳、ございません」
マニュアルに載っていない事態なのだろうか、女の子はわかりやすく狼狽する。その様を見て、少し大人げなかったかなと思ったが、その可愛らしい容姿から察するに、ほれなりの彼氏がいるのだろうな、と思い、態度を改める気が失せた。
私は女の子の謝罪を無視し、財布から千円札をカウンターに投げるように置き、コンドームとボックスの煙草を持ってレシートもお釣りも受け取らずに店を出た。女の子が後ろから何か言っていたが、私の耳には聴こえない。
雨が地面を掘っている。
私は、彼のアパートの近くの公園のベンチに座っていた。
途中、車からの水飛沫によってスキニはおろかお気に入りのシャツの裾まで濡れてしまった。
ポケットからライターを取り出し、先ほど買った煙草を一本、口に咥える。
火が灯り、一口吸うと同時に、口の中に煙が充満する。それを感じながら、少しずつそれを肺に入れていく。
「――ふう」
地面に灰を落とす。ジュッと音を立て、灰が水に溶けていく。
再び煙草に、口をつける。
大きく吸った途端、激しくむせ返り、私慌てて息を整えようと懸命になった。
「――はあ」
深く深呼吸し、落ち着きを取り戻し、煙草の灯とそこから昇る煙をぼんやりと眺めた。
「――そろそろ、やめないと」
そう呟きながら立ち上がり、勿体ないという感情を抱えつつも、ベンチに煙草とライターを置き去りにして、重い足取りで彼のアパートへと急いだ。
公園から徒歩数分の距離のなか、私は様々なことを考えては、顔を顰めた。
そうしているうちに、私は玄関前に着いていた。
インターホンを押す指先に躊躇いが憑依する。
指先がインターホンに触れた.。私はそれを、思い切りを押した。
少し経ってから、ドアが開く。
「いらっしゃい」
将人が頭を掻きながら私を出迎える。その顔を見て、私は複雑な感情を抱いた。
「寝てたの?」
「うん、昨日夜勤だったからさ」
将人は大きく欠伸をしながら言う。
「大変だね」
私はそれだけ言うと、玄関に足を踏み入れようとしたが、将人はそれを制止する。
「ごめん、今部屋散らかってるんだ。すぐ片付けるから待ってて」
この男は私が来ると分かっていながら掃除もしていなかったのかと、見るからにずぶ濡れの私を見ても玄関にすら入れようとしないのかと、舌打ちしそうになるのを抑えた。こういうのは今に始まったことじゃないから、いちいち気にしても、しょうがないことだ。
幾分か経ち、ようやく玄関が開いた。
「上がっていいよ」
「うん」
「それにしても、なんでそんなに濡れてるの?」
将人が不思議そうな目で私を見る。
「ちょっとついてなかっただけよ」
「何か悩み?」
将人が心配そうな表情を作りながら言う。それが私のなかの複雑を更に複雑する。
「なんでもないよ」
「そう? それにしてもさ」
将人が私をじっと見つめる。彼が何を考えているのか、ある程度察した私はコンドームの入ったビニール袋を手渡した。それを受け取りながら彼は言葉を続ける。
「なんかさ、透けてさ、すごいエロいよ」
「どうせそんなことだろうと思ったよ」
「誉め言葉だよ」
「それなら言葉のチョイスをもっと考えてほしかったな。将人の言葉って、悪い意味でストレートだkら」
私は濡れたシャツを脱ぎながら言った。
「言葉のストレートが嫌なら、行動でストレートに示そうか?」
将人が言う。私はそれを軽くいなし、浴室へ向かった。
ドアノブにバスタオルがかかっていた。気が利くのか効かないのか、3年の付き合いなのに、未だにわからない。
「バスタオルあった?」
将人がそう言いながら、私の肩に手を置く。彼の手のひらの熱を私の冷え切った皮膚が感じているのがわかる。
「ねえ、やめて」
私が不機嫌な声を上げた。
将人が私の肩に手を置いている。
私は言葉を続ける。
「10分で済ませるから、我慢してよ」
「今の君も綺麗だよ」
「そういう問題じゃないよ」
そうは言いつつも、洗面台の鏡に映るまんざらではない自分を見て、抵抗する気が一瞬で失せた、
私は、腰から崩れ落ちた。
息が荒くなっていくのを、自覚する。
いつもこうだ。
いつも、将人のペースだ。
心から嫌だと、言えない。
私は観念し、廊下に身体を預けた。
結局、私は流された。
「――はあ」
私は深く溜息をつき、寝心地の悪いベッドに横になりながら、項垂れていた。
ふとテーブルに目をやると、そこには将人の煙草があった。私がコンビ二で買ったものと同じ銘柄だ。
思えば、煙草を吸い始めたのも、将人の影響だった。
三年前、十七歳の夏の日、私は早く大人になりたくて、仕方がなかったのだと思う。当時二十歳だった将人の煙草を吸う姿が、私には眩しく見えた。それと同時に、私は恋をした。
将人が寝息を立てている。私は彼を起こさないように起き上がり、ベッドの端に座った。そして、テーブルに置かれた煙草の手に取り、一本口に咥え、灯を灯した。
「ふう」
廊下のほうへ目をやると、そこには私のシャツやブラジャー、ショーツが乱雑に置かれいていた。その光景がなんとも官能的で、先ほどの愉しい感覚を、快楽を思い出した。
「はあ」
吐かれた煙をぼんやりと眺め、私は自分との話し合いを試みる。
大人は言うほど大人ではない。
十七歳の私が待ち望んでいた大人の形は、こんなものだったのだろうか。
煙を吸って、吐いて、また吸って、数えきれないほど繰り返した動作が、十七歳だった頃の私から夢を奪っていく。
「起きたの?」
将人が起き上がり、頭を掻きながら言った。私は答えず、ただ黙って煙を吸って、吐いた。そんな私に構わず、将人は言葉を続ける。
「ああ、俺この後予定あるわ」
「予定?」
「うん、バイト」
将人はそう言いながら立ち上がり、クローゼットからシャツを一枚取り出し、それを着た。
「まだあのコンビニで働いてるの?」
「ああ、そうだけど?」
私の言葉に対して将人は疑問形で答える。私はそれ以上は何も聞かず、煙草の灯を消した。
「じゃあ、私は帰るよ」
「そっか、わかった。気をつけてな」
将人の言葉を聞き終える前に、私は立ち上がり、廊下まで歩いた。置かれているショーツを履くと何となく気持ちが悪ったが、それを我慢した。
一通り身支度を整え、落ちているバスタオルを洗濯機に放り込んだ。
「そういえばさ――」
将人は思い出したように話を始めた。
「なに?」
「最近さ、新しい人がバイトしに来てるんだよ」
「どんな人?」
私は将人に向き直り、尋ねる。
「まだ高校生らしいんだよね。何歳だっけな。確か十七歳だったかな」
「――若いね」
「本当だよな。俺、その子に仕事教えないといけないから面倒くさいんだよね」
笑いながら将人は言った。
「そうなんだ。それじゃ、私は帰るね」
興味のないふりをしながら、私は言った。
将人からも、嫌な自分からも一刻も早く逃れたい一心で、私はドアノブに手をかけた。
一人になりたい。
「明日は何時にくる?」
将人の声を背中で聞く。
「――今日と、同じ時間かな」
何度されたかわからない質問に、何度したかわからない答えを返し、私はアパートを後にした。
ベンチに濡れた煙草が置かれていた。
私はそれの中身を確認しようとしたが、確認するまでもないことを察すると思い切り地面に叩きつけ、踏みつけた。
十七歳の頃の私が憧れていたもの、恋をしていたものは無抵抗に潰れる。
それでも、きっと私は恋をし続けてしまう。それが自分を壊しかねないことだとわかっていても、きっとやめることはできないだろう。
「――煙草、吸いたいな」
私は潰れたそれを蹴っ飛ばした。
少しだけ、コンビニの女の子のことが、不憫に思えた。




